09【20世紀の記憶 1907(M40)年】

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09【20世紀の記憶 1907(M40)年】(ref.20世紀の全記録)
 
 
*7.24/韓国 漢城(ソウル)で、第三次日韓協約および秘密覚書が調印される。

 日露戦争終結後の1905年、第二次日韓協約(日韓保護条約)を結び、日本は大韓帝国の外交権を奪い、事実上保護国としていた。大韓帝国皇帝高宗は密使外交を展開、1907年、オランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えた。しかし、会議の列強からは協約違反として拒絶された(ハーグ密使事件)。

 伊藤博文総監に問いただされ、さらに武力による圧力を受けた高宗は、しぶしぶ皇太子に譲位した。その5日後「第三次日韓協約」が締結され、大韓帝国の内政も日本の監督下に置かれた。また同時に交わされた秘密覚書により、韓国軍の解散と司法権・警察権の委任が為された。

 1909年、併合に慎重だった初代韓国統監伊藤博文が、安重根によりハルビンで暗殺されると、一気に併合機運が高まり、1910年の韓国併合へと進んだ。
 

*10.19/日本 箕面有馬電気軌道会社(のちの阪急電鉄)が設立され、専務取締役に就任した小林一三の采配によって急成長する。


 小林一三山梨県の生まれで、福澤諭吉塾長の慶應義塾を卒業、三井銀行東京本店に勤務するが、大阪に地盤をもつ実業家に誘われ、大阪に移動する。しかし当初の証券会社設立の予定は消えて、途方に暮れる。そこで、資金難で建設が頓挫していた箕面有馬電気鉄道に飛びつき、先の実業家などから資金提供を得て、会社設立にこぎつけ、自身は専務取締役として実質的な運営を担うことになった。

 1910年には、現在の宝塚本線箕面線にあたる路線を開業したが、当時はほとんど住民の居ない地域への路線で、苦難が予想された。小林は、鉄道開業に先立って、路線予定地周辺の宅地開発から始めた。乗客が居ないなら、自ら乗客住民を創り出そうという策である。


 さらに、沿線周辺の娯楽ゾーン化を目指し、箕面に動物園、宝塚には大浴場、のちに遊園地と宝塚歌劇団へと拡大展開した。やがて神戸本線を開通させ「阪急電鉄」となると、梅田には阪急百貨店を開業した。それまでの百貨店は前身が呉服屋などで、旧市街に店舗を構えたのに対して、阪急デパートは、電鉄会社と連動した「ターミナルデパート」の嚆矢となった。

 小林一三が始めた、電鉄運営と路線沿線開発を連動させた事業は、首都圏・関西など大都市郊外の電鉄会社の事業モデルとなった。関東では、強盗慶太にピストル堤などと称されて競い合った、五島慶太の東急、堤康次郎の西武などが、小林の事業モデルを踏襲して大手私鉄となっていった。
 

〇この年の出来事

*2.4/日本 足尾銅山で大暴動、900人が構内にたてこもる。

*10.-/米 ニューヨークで株価大暴落。モルガン、ロックフェラーら巨大財閥が金融支援。


*7.-/スペイン ピカソの大作「アビニョンの娘たち」完成。キュビズム(立体主義)の幕が開く。