06【20世紀の記憶 1904(M37)年】

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06【20世紀の記憶 1904(M37)年】(ref.20世紀の全記録)
 

 この年の最大の事件は、2月の日露戦争勃発だが、まずは主立ったトピックスを羅列してみる。1月にチェーホフの名作『桜の園』が初演されたが、そのチェーホフが7月には44歳で病没する。4月アメリカがフランスから、ルイジアナを買収して100周年を記念して、セントルイスで万国博が開催される。蒸気機関に代って電気の時代を告げるごとく、電気自動車なども登場した。

 暗黒大陸とされたアフリカ奥地を探険した、ヘンリー・スタンリーがロンドンで死去。3年がかりでアフリカ横断に成功するが、彼の探険が結果的に、西欧諸国のアフリカ侵略に拍車をかけ、「帝国主義の先兵」などと批判にさらされる晩年となった。


 ロシアでは、10年がかりで建設が進められていたシベリア鉄道が、モスクワからウラジオストクまで全線開通した。これにより、対日戦争準備として極東への大量輸送が可能になった。12月アメリカでは、セオドア・ルーズベルト大統領が「新モンロー主義」を宣言した。これはジェームズ・モンロー孤立主義から一歩踏み出したもので、西半球はアメリカの勢力圏だと主張する積極策でもあった。
 

 満州を手中に収め、朝鮮半島にも手を出そうとするロシアに対して、朝鮮半島を生命線とする日本の対立は深まった。満州と朝鮮の支配権を相互に認め合おうとする日本の提案も、ロシアののむところとならず、2月10日、ついに日露開戦となった。


 日露戦争の戦闘は、2月8日旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。同日、日本陸軍先遣部隊が、日本海軍の瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にてロシアの巡洋艦や砲艦を沈没させた(仁川沖海戦)。これらの先制奇襲攻撃は、ロシア軍の機先を制することになったが、2月10日の宣戦布告前の攻撃だとして、問題になった。


 開戦時の戦力比較は、露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万とされる。これだけの戦力差をみれば、日本にとって無謀な開戦だと思える。実際、伊藤博文などの元老は、慎重論を唱えて反対したし、幸徳秋水堺利彦は「平民新聞」を刊行し、社会主義者の立場から、愛国主義軍国主義の批判を展開した。


 また、歌人与謝野晶子は、旅順で戦う弟を思う新体詩『君死にたまふことなかれ』を、夫与謝野鉄幹が主宰する雑誌『明星』に発表した。これは、厭戦的で国威発揚に反するとの批判も呼んだ。
*「君死にたまふことなかれ」 https://www.culturebeanz.com/entry/2019/03/26/002828/

 ロシアという強国と戦うにあたっては、当然ながら膨大な戦費を必要とした。当初、日本が圧倒的不利と見られたため、外債を発行してもまったく引き受け手が見つからない状態であった。友好国英国の銀行家たちに、かなり有利な利率と担保を提供して、やっと一部の発効ができるという状態だった。しかしその後、戦況が有利に進み出すと、順調に消化できるようになり、合計6次まで発行し、その額は当時の政府歳入の数倍にもなった。この公債は、第一次大戦の後まで残ったという。