05【20世紀の記憶 1903(M36)年】

century

05【20世紀の記憶 1903(M36)年】(ref.20世紀の全記録)
 

 1900年の義和団事件で、日本と並んで多くの出兵をしたロシアは、満州から撤兵せず、さらに朝鮮半島大韓民国)にまで触手を伸ばしつつあった。三国干渉で返還させられた遼東半島も、ロシアが租借するなど、日露の利害衝突は一触即発状態になりつつあった。

 日英同盟でイギリスの後押しを受けることになった日本では、「ロシア討つべし」との国論が起こり「対露同志会」といった団体が結成された。一方で、反戦論、非戦論者たちも開戦反対の論陣を張った。主戦論に転じた『万朝報』を去った幸徳秋水堺利彦らは、『平民新聞』を発行して、社会主義者の立場から非戦を訴えた。


 また内村鑑三は、キリスト者の立場から非戦・無抵抗という独自の非戦論を唱え、文学者として与謝野晶子や木下尚江らは、非戦をテーマの文学を展開した。日露戦争に際して「君死に給うことなかれ」とうたい上げた与謝野晶子だが、太平洋戦争時は、戦争賛美する歌を作るなど思想的な一貫性は無かった。

 主戦論を唱える桂太郎首相と小村寿太郎外相らと元老山縣有朋は、慎重派の元勲伊藤博文井上馨などを説得し、世論の後押しもあり、翌年初めの日露開戦と流れ込んで行く。
 


 文化面では、この年3月にパリサロンで開催された「アンデパンダン展」で、マティス、ドラン、ブラマンクらの作品が衝撃をもたらし、その原色の洪水は「フォービズム(野獣主義)」という呼称の発祥となった。そのフォービズムなどに大きな影響を与えたポール・ゴーギャンが、5月に南太平洋で孤独な死をとげた。11月には、モネ、セザンヌらと「落選者展覧会」を開き、印象派をリードし続けたカミーユピサロが73歳で没した。
 


 この時代の日本を物語る「モルガンお雪」の逸話は、9月に祇園の芸妓「お雪」が、若い米人富豪に見受けされたことに始まる。その見受け人は、モルガン財閥の創業者J.P.モルガンの甥、当時30歳ジョージ・デニソン・モルガン、ひと目ぼれしたジョージは、ふっ掛けられた落籍料の大金4万(換算不能だが、今なら1000万近い?)を、ポンと投げ出したとか。

 以後「モルガンお雪」は、日米欧に渡って数奇な運命をすごすことになる。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。


 「からゆきさん」は、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷/1974年』によって、戦前で途絶えていた、その呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。