04【20世紀の記憶 1902(M35)年】

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04【20世紀の記憶 1902(M35)年】(ref.20世紀の全記録)
 

 この年の初め、「栄光の孤立」を続けた大英帝国が、新興の日本と「日英同盟」を結んだ。この年の物故者は、2月にティファニーの創業者チャールズ・ルイス・ティファニー、3月には、英国のアフリカ進出を先導し、南アの金・ダイヤモンドを独占したセシル・ローズが没、9月に仏の自然主義作家エミール・ゾラ、11月には、ドイツの武器商人で世界最大級の軍事企業・クルップ財閥の創始者で、「死の商人」と呼ばれたフリードリヒ・アルフレート・クルップが48歳で急死、それぞれ、一つの時代を画した。

 ロシアでは、労働運動を徹底弾圧したロマノフ朝の内務大臣シピャーギンが、社会革命党(エス・エル党)の戦闘団員に暗殺され、アメリカでは、15万人の炭鉱労働者がストライキに突入し、長期化した争議にセオドア・ルーズべルト大統領が調停に乗り出して、労働者の主張を尊重する調停案で解決した。このような労働問題や社会主義運動は、他の資本主義各国でも同様に発生し、資本主義は一つの曲がり角に達しつつあった。
 

 栄光のビクトリア朝にひと区切りがついて間もない年に、大英帝国が東洋の小国日本と同盟を結ぶというのは、世界を驚かせたが、両者には、それぞれの思惑があった。英国は、アヘン戦争以来、老大国清に深く食い込み、独占的な権益を確保していたが、日清戦争で新興日本が勝利すると、露仏独などはその隙間に付けこみ清国での権益を拡大し出した。

 当時の英国は、南アの金鉱利権をめぐって第二次ボーア戦争を戦っており、東洋に戦力を割く余裕がなかった。さらに1900年義和団事件が勃発すると、包囲された租界の自国民を守るために列強は軍を派遣したが、余裕のない英国は日本に派兵を要請するありさまで、結果、日露が最も多くの兵を派遣した。

 さらにロシアは、その足で満州を占領するとともに、朝鮮半島にも手を伸ばそうとする。英国は、そのようなロシアに対抗させるために、日本をあてがったわけである。日清戦争に勝利し、列強の一角に顔を突っ込みだした日本にとっても、ロシアの進出は、直接の脅威を感じる事態だった。

 日清戦争後の下関条約に異をとなえて露仏独が行った「三国干渉」は、まさにこれら三国の利害が一致することを物語っており、それに対抗するため日英は同盟関係を結んだ。英国との同盟で意を強めた日本は、ロシアとの対立をふかめ、1904年日露戦争へと突入する。

 

 日英同盟は、日露戦争直後の1905年に第二次の改定、第一次大戦を前にした1911年に第三次の改定を経て、1923年に失効するまで20年間継続された。しかしそのつど両国を取り巻く環境は変化してゆく。日露戦争に勝利した日本は国力を強め、第二次では同盟関係を拡大して軍事同盟色を強めた。第三次では、日本が米との対立を強める中、英国は米を交戦相手国の対象外とすることを求めた。

 第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟に基づいて参戦、東アジアのドイツ領などを攻撃して漁夫の利を得た。戦後のパリ講和会議では利害が錯綜、日英同盟の利益は薄れ、1923年、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約を締結されるとともに、日英同盟は拡大的解消となった。
 

 20年にわたる日英同盟の時期、英国が特別、親日的であったというわけではない。列強による露骨なパワーポリティクスの世界で、「敵の敵は友達的」な流れで日英の利害が一致したに過ぎない。状況が変化すれば組み換えが行われるのは、当然である。第二次大戦時、同盟を結んだナチスドイツにしても、ヒトラーは日本を黄色いサルと蔑んでいたという。


 歴史学者会田雄次の『アーロン収容所』(中公新書)では、第二次大戦のビルマ戦線で捕虜となり、アーロン収容所で過ごした体験が書かれている。あるとき兵舎の掃除を命じられた筆者が、うっかり英国女性兵士が着替えをしている所に踏み込んでしまった。しかし女性兵士たちは、日本兵捕虜を家畜の牛と同じように見なし、まったく動じないで平然と着替えを続けたそうである。