【美女と湖水04「水と妖怪」】

 

 今回の蒐集では、本格的な妖怪の話題は予想以上にすくなかった。その理由のひとつには、先にのべたように現代人の生活環境には妖怪が棲みづらくなっていることが考えられる。水に関連してでてきた妖怪は、水辺に棲む妖怪の代表である「河童」の話が三題、それと「蛇」が二題程度である。いずれも、躯がぬめぬめした爬虫類・両生類のたぐいである。
 

<河童>
 

『千鳥が淵のカッパ』
《 大堰川(おおいがわ:上流は保津川下流桂川と呼ぶ)の、この渡月橋の少し上には「千鳥が淵」と呼ばれる深みがあります。ここは水死者がよく出るので有名で、「河童が足を引っ張る」と言われていました。複雑な水流で、痙攣や心臓マヒを起こしやすいというのが実態でしょうか。もちろん、遊泳禁止になっています。

 酔っぱらいさんが「千鳥足」で飛び込んで水死したから「千鳥が淵」と言う、てのは小生がガキのとき勝手に思い込んでいたデマです(笑)。以上ガキの頃の記憶ですから、少なくとも30年ちかく昔になります。》

 

 「河童の川流れ」というぐらいだから、おもな棲息域は「流れる水」のある川であろうが特定はしがたい。いずれにしろ河童と海とはなじみにくいので、河川や湖沼といった陸水の周辺が中心であろうかとおもわれる。
 

 この話題にもあるように、河童の恐怖には水死事故の不安が下敷きになっているであろう。人間が泳ぐ姿勢を考えてみると、意識の中核である頭は水面上に出て、その肉体のほとんどは水中に沈む。いわば、水面という「境界」によって身体がが二つにひきさ裂かれた異常な状況におかれるのである。しかも普段はその足をささえているはずの地面が、いまは無い。足元はまったく無防備な状態であり、そこに足を引き込む河童の不安が頭をよぎってくる。
 

 水中での不安は陸上での脅威とは異質である。『ジョーズ』という映画があったが、海中で鮫に襲われる恐怖には地上で猛獣に襲われるのとは異なる種類の怖さをはらんでいる。水中では手足はすべて泳ぐことについやされ、その肉体はまったくの無防備にさらされている。しかも、自分の目にはみえない足元から恐怖はやってくるのである。映画では、そのような恐怖感を巧妙に描きだしていたようにおもえた。
 

『屋号の「河童屋」』
《 幼い頃まで、わが家は「河童家」と呼ばれていました。周囲の大人に何度かその理由を尋ねましたが、まともに答えられるものはおりませんでした。ご隠居様のご指摘の通り、今でこそわが家は高台にありますが、父が生まれる前は川のごく近くにあったようです。川幅もそこそこ広く、付近には「沼」のつく地名もあり、ところどころよどんだところもあったのでしょう。

 現在では治水事業によって水量も知れたものですが、昔はかなりの暴れ川であったということです。「先祖が泳ぎが達者だった」というのがおそらくこの屋号の謂れではないかと思うのです(わたしはカナヅチですが)。ちなみに、わたしの本名も河童っぽいんですよ。》
 

 頭のいただきにあるお皿が乾くとへばってしまうという滑稽な河童であるが、意外な凶暴性もみられる。子供や牛馬を川の中に引きずり込み、その尻の穴から内臓をひきだし食べてしまう習性もあるそうだ。農民にとって普段はめぐみの水をもたらす川も、一変すると凶暴な「暴れ川」の容貌をあらわす。そのような「流れる水」の凶暴さが、水の精でもある河童に託されたとしても不思議はないであろう。
 

『浄水槽のカッパ』
《 当時小学生だった主人に、今日聞いた20年前の夕張の浄水槽?の話。
 夕張市役所前の通りをまっすぐ行った、そんなさびれてもいず、民家も近くにある場所だったそうですが、コンクリの雪除けで覆われた浄水槽?があったそうです。半地下で、階段を降りると薄暗い中に4つほどにしきられたプールが広がっている。そこでやんちゃに泳いだりしたそうですが、かなり薄気味悪い場所で、泳ぐとカッパに足をつかまれる、という話があったそうです。
 シリコダマも抜かれるの?と聞いたら、そういう話はなかった、じゃ、カッパじゃないのかな?だそうです。》
 

 これも、水中に引き込まれる恐怖の話題である。かつての川や池は手軽な遊泳の場所でもあったろう。しかし現在ではその多くが危険な遊泳禁止地区とされたり、また泳ぐのには適さないほど汚染されたりしてしまっている。となれば河童の出没する機会もとぼしくなってしまうのは、むべなるかなである。かくして、河童はこのような浄水槽などにひっそりと潜むことになるのだろうか。
 

 川もないのに、河童はどこからやってくるのだろうか。「半地下の薄暗い浄水槽」というところから、あの「地下の水」との通路でもあるのかとも想像される。
 


< 蛇 >
 


『牛若丸産湯の井戸』
《 小生の生まれ育った町内に「牛若丸産湯の井戸」てのが在りました。平安朝の若女房達が牛車でハイキング?!に出かけるてな話しも今昔物語かなんかにあったようなので、おそらく当時は郊外の野っ原かなんかだったと思います。牛若(源義経)が当地で生まれたのだから、父義朝が別荘かなんかをこさえて、お妾さん(常盤御前かにゃ?)を囲っていたんでしょう。

 今は、井戸そのものは無く石碑が建っています。大正か昭和の始めにそのあたりが造成されその時石碑が建てられたようで、「牛若丸の誕生の折の産湯の水を汲んだ井戸があったという言い伝えがあるのでこの石碑を建てる、うんたらすーたら」とか書いてあったはずです。お役所が、ろくに詳しく調べもしないで建てたらしく、けっこう無責任な文章だったと記憶してます。

 「話し」自体は他愛もないものです。
 その石碑の裏には「白蛇様」が住んでいる。ヒト気のない時そこを通ると、時々、石碑の前で「白蛇様」がトグロを巻いていらしゃる。パンポンと柏手たたいてぐるりと一回りすると、もうその瞬間にお隠れになる。それだけです(^^;。》
 

 蛇は、さまざまに表象される。この「白蛇様」のように神性にまつりあげられるかとおもえば、邪悪の象徴にもなされる。人間にとって、蛇とはまさにあやしげな多義性をもった存在であろう。そのあやしさは蛇の神出鬼没性からもくるのであろうが、なによりもその足のない体型の異形性にもとづいているかとおもわれる。
 

 軟体動物のような下等なものをのぞいて、おおかたの動物の身体は頭・胴・足などに区分できる。そしてその区分から、ひとはその動物のあらかたの行動特性を推定することになるだろう。ところが手足のまったくない蛇からは、その特性をリアルに思い描きがたい。そのようなところから、蛇に対するさまざまな想念がわきあがってくるのではなかろうか。
 

 「試着室ダルマ」では、若い女性手足をもがれて蛇のように異形になる。そしてそれは、恐怖の変身のものがたりであった。「深泥池古伝説」では、池のぬしの大蛇が美女に変身するロマンでもあった。蛇とは、その固定した姿を定めがたい変成のありさまを表象している。そしてわれわれ現代人の自意識も、蛇のようにうねうねと正体を定めがたい多義性をはらんでしまっているかのようにおもわれる。
 

『池の水を飲みに来る大蛇』
《 今から5年ぐらい前,湖岸道路を15分ぐらいいった所にある,なんとか山の池の改修工事をしたときは,元請けと地元の人で,その池に水をのみにくる大蛇のお払いを,工事前にした。(一緒に聞いた人の補足によると,荒神山らしい)》
 

 池の水をのみにくる大蛇は、村のの娘たちを呑みこむ妖怪であるかもしれないし、大切な水を全部飲んでしまう怪物かもしれない。村の人たちにとっては、お払いをし鎮めるべき対象であろう。しかしこの水をのみにくる大蛇に、現代伝説「タクシーできて消える女性客」の幽霊を重ねあわせてみると、また別の様相が浮かびあがってくる。水をもとめて都会をさまよい、わずかな痕跡のみを残してはかなく消えてゆく現代人の姿をもものがたっているかも知れないの である。
 


<ペットボトルと現代伝説>
 

『ペットボトル』
《 P.S.「ペットボトル」とか言うのが流行ってるそうですが、当方(京都府南部地域)でも数週間前から目だつようになりました。みなさんの地域では如何ですか? ワンちゃんのおしっこぐらい、好きなようにさせてあげたらと思うんだけんど。
 ちなみに、1本だけ黄色い水の入ったボトルを見つけました。たぶん、酔っぱらいさんがおしっこを入れたのではないでしょうか(^^)。》

 

 この一片の追伸に端を発して、なんと30通ちかくの関連投稿がよせられた。蒐集実施時期(1994/9月-12月)には噂の最盛期で、単なる噂というより一種の社会現象の観を呈していた。やがて、家の脇に置いたペットボトルからボヤが発生する事件などがあって収束にむかったようである。
 

 ペットボトルとは素材を示す「P.E.T.ボトル」の意で本来愛玩動物のペットとは無関係らしいが、なぜかペットの糞尿よけ対策として家の脇に置かれるようになった。ジュースなどの入った1.8リットル程度のプラスチック容器で、どこの家庭でもでる廃棄物に水を入れるだけということで、見よう見まねで普及していったようである。

 このペットボトルの水も、やはり水道水からとった「人工の水」ではある。そして、量はわずかではあれ「淀む水」でもあろう。一方、家の前に糞尿をしていく犬や猫のペットは、迷惑をこうむる主婦などにとっては悪さをするある種の「妖怪」であるのかもしれない。ということで、このペットボトルの話題を無理矢理に「水と妖怪」の項に配列してしまおう。
 

 街角にペットショップの看板が目につくようになって久しい。スーパーの棚にはペットフードが山積みにされ、各家庭ではさまざまなペットが飼われている。かつては野放しがおおかった愛玩動物も、小型犬や猫などは部屋の中で生活をさせるのが普通になっている。自分の愛玩する動物は家族と同様にあつかう一方で、糞尿などのささいな迷惑をかける他人のペットは毛嫌いにする現代人の心性にはどのようなものが潜んでいるのであろうか。
 

 かつての村落共同体のような社会では、自分たちの生活世界とその外の区分は比較的明瞭であった。外の世界との境界も、当時の人々の意識のうちではそれなりの明示性をもっていたであろうと想像される。ところが現代では、そのような内と外の境界性ははなはだ不鮮明になり、あきらかな「内」は家庭であり自室であり、そして自己の内面世界程度にかぎられてしまっている。
 

 そして最後の牙城である「内」をまもるには、ドアをつけ鍵をかけてしまうほかないだろう。そういう意味では、家のそばの電柱にオシッコをかけるにくる犬猫は歓迎されざる闖入者であり、門柱のかたわらに置かれた何本ものペットボトルは「結界」の意味も託されているのであろうか。


 かつて「淀む水」に生活した村落共同体の人々は、「流れる水」と「地下の水」に自覚的であった。上流から流れてくる水と地下から湧きでてくる水は恵みの水であっただろうが、それらの水を完全にはコントロールできないものとして、その「境界」には畏れと祈りがあった。しかし現代人は、その地下の上層部にはり巡らされた「人工の水」には無頓着である。水道栓をひねれば必要な水は出てくるし、排水は流せばどこかでだれかが処理してくれる。かくして「水」の体系のもつ意味を忘れさってしまった。
 


 もちろんここでは、生活の必需品としての物理的な水だけをさしているのではない。水に込められた世界観としての「水」の意味である。かつて水が表象していた世界像は、われわれの意識から消えさってしまった。そしてわれわれの意識世界も、ペットボトルのような容器に詰めこまないかぎり形をもたない、ただの液体のような存在になってしまっているのではないだろうか。
 

 ペットボトルに詰められた「人工の水」は、そのままほうっておけば腐敗して汚濁するだけである。われわれの内面世界も、部屋に閉じこめられた愛玩動物やそれを模した縫いぐるみと同じく、まわりを囲いこんでいるばかりでは閉塞してしまうであろう。狂気を排除してクリアカットになったはずの近代理性も、現代では、ペットボトルに詰められた「人工の水」のように腐敗発酵をはじめているかのようにおもわれる。
 

 もちろん、いまさら過去にもどるわけにはいかない。もはや過去の伝説の輪郭をそのままなぞるのは不毛であろう。むしろ、過去の人々がその伝説にこめた意味と現代伝説との交錯するところに、現代のあらたな「水」の意味が浮かび上がってくるのかもしれない。現代の噂は、過去の民話・伝説のような鮮明な類型構造は示さない。それぞれが、かぎりなく断片的でばらばらに存在している。それは、あたかもわれわれの生活世界が断片化し散文化しているのを反映しているかのようである。
 

 そのような現代伝説から、かつての伝説と同じように類型構造を読みとろうとするのは不毛な迷路におちいるおそれがある。むしろ、それぞれの噂をテクストの断片として見て、それぞれの噂のあいだから浮かび上がってくる流動的な関係構造をながめてみるほかはないかとおもわれる。古典的な形態をとっているような伝説もまた、そのような読み方のなかで「現代伝説」としての姿をあらわしてくるであろう。もちろんそれは、水族館の巨大な水槽の中を泳ぎまわる魚の流れから、ある種のリズムをつむぎだそうとするような困難な作業ではあるにちがいない。
 

*『現代伝説考(全)』はこちらから読めます
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/txt_den/densetu1.htm