【異空間伝説01-3「風呂場」】

 


 裸になる場所といえば当然風呂場があげられる。風呂場には、温泉や公衆浴場のように多数がいっしょにはいる公共性のあるものと、家風呂のように個別性をもったものとがある。前者は密室とはいえないが、後者はトイレとならんで個室性・密室性をもったプライバシーの場でもあろう。まずは後者の例からあげてみよう。
 

『風呂場で人間ちり鍋』
《 岸和田市民病院に勤務する知人に聞いた話。入浴中に、ぬるかったのでガスをつけたまま、心臓発作か何かで死んだ人がいた。知人が発見した時には、湯がグラグラ煮立っていた。慌てて救急車を呼んだ。やってきた救急隊は、とりあえず引き上げようとして、両肩を持って引き上げたら、湯につかっている部分の骨だけがズルズルっと持ち上がり、身は残ったそうだ。ちりなべを食べている時に聞いた。》
 

 この投稿に触発されてでてきた、よく似た事例をもうひとつ。

『風呂場で人間スープ』
《 たぶん、その温泉? は、気持ちよくなるなにか、温度だとか雰囲気、あるいはガス分圧などの状態がときとしてうっとりしてしまうようなことになっていて、ほんとに老人などが沈んでしまうのかもしれないな、と、思います。親戚が話てたけど、知人のおじいさんがガス風呂で「追い炊き」している最中に往生を遂げたらしく、そのまま湯が煮立って、人間スープになってしまったということです。》
 

 浴室で老人などが亡くなることは、少なくはないとおもえる。浴槽に浮かぶ老人死体の光景からは、なにがしかの孤独感と悲惨さがうかがえる。また、それを発見した家族の衝撃も大きなものであるはずだ。そのような家族から、出来事が積極的に口外されることは考えにくい。


 ところがいずこともなしに話がもれると、部外者の口さがない噂話へと発展されていく。そのような過程をへて、このような「人間ちり鍋」や「人間スープ」が作られていくのであろう。「試着室ダルマ」のような若い女性だと、いくばくかのロマンやエロスも共有される余地があるが、浴槽の孤独な老人死体にはそのようなロマンは含まれようもない。

 ロマンなき恐怖は無惨なだけである。とすれば、そのような状況はできるだけ遠ざけておきたいという心理がはたらく。それには、滑稽化して笑いとばすのがいちばんということになろうか。試着室から消えさる若い女性にはいささかの秘密のにおいが漂うが、浴槽での老人死体のプライバシーなど一顧もされようがない。同じ密室であっても、主人公によってはまったく意味の異なった物語となるようである。
 

 多数の出入りする公衆の浴場にも「老人死体」は登場する。

『温泉の老人死体』
《 東京の品川区と大田区の境界付近にM温泉という銭湯があります(新幹線から煙突が見えるので御存じの方もいらっしゃるかもしれません)。
 ここは、温泉といっても地下の化石化した海水を温め直して浴槽に張っている方式のようで、入浴料金は通常の銭湯と同じです(関係ないか…)。特徴的なのはお湯の色です。殆ど醤油同然の色合い、底のタイルは全く見えず、湯舟に浸かっても水面下20cmほどの我が身さえもう見えません。どんな成分なのか、入っていると肌がスベスベするからたいしたものです(これも関係ないですね…)。

 ここに、年に数度は救急車が呼ばれることがあります。湯あたり等で倒れた人を運ぶのですからどうということもないといえばそれまでですが、近所で、永年、酒屋を営んでいるご主人の話によると、そのうち一度や二度は、湯舟の底に沈んでいた爺さん婆さんの死体をそっと運ぶんだそうです。
 「笑っちゃだめだよ、*** さん。入ってる人の膝に触って『?! ワーッ! 』ってこともあるしさ、湯をしまって、お湯を抜きはじめて見えてきたりするんだから…」》
 


 この投稿に連動して後日に掲載されたコメント投稿を、続けてあげてみよう。噂話の伝わり方に妙があるので、長めに引用してみる。

『#304-1温泉の老人死体』
《えー、実は私、大田区M込には数年前まで住んでおりまして、今でも、週に一度はお稽古事で通っているのですが、残念ながら、M温泉に入った事(お肌がつべつべになるなら、いっぺん行ってみたかったな〜)も、その噂も知りませんでした。で、先日、お稽古の先生(戦後よりM込在住、初老のご婦人)に、
 「センセ、わたし、M温泉の、こーゆー話を聞いたんですけど…」
 「ええっ! 私、M温泉には、何度も行ったことあるのに、まあ、嫌だ!ホントなの?」(初耳だったらしい)
 「…あ、その、多分、ウソです(^_^;)」
 「んまあっ! 何て悪趣味な。 一体何処の誰なの、そんなデマを言うのは!」(そのまま、苦情を言いに飛んでいきそうな勢い)
 「…えと、えと(^_^;)」(必死で話題を変える私)

 その時「でも、お年寄りが、温泉に入っている時に亡くなる、ってのは、良く有る事なのね。実は、ウチの隣もそうなのよ」と話して下さったのが、十数年前、先生のお宅のお隣のご隠居さんが、正月、寒川神社へ参拝に行ったついでに、そこの温泉(何でしたっけ?名前)に入ったら、そこで、ぽっくりいってしまい、浴槽の底に沈んでいたのを、後から入って来たお客に発見された。 …と、いう話。

 「それを聞いた時にはねぇ、私、失礼だけど、なんてバカな死に方、と思ったものですよ。」と、先生。うーむ、これはホントの話なんでしょーか? それとも、お返しにひっかけられたのでしょーか(^_^;)》

 この「お稽古の先生」からさらに別の人に伝わっていくとき、「M温泉で実際にあった話」となってしまうのかもしれない。それにしても、このお師匠さんの言葉をかりるまでもなく、この老人死体もたぶんに突きはなされた語られかたをしてゆくことが想像される。たくさんの人が出入りする公衆浴場や温泉の浴槽で、ひとり寂しく沈んでいる老人の死体。これには、大都会の雑踏のなかでの孤独といった、都会生活者の疎外感のような意識が重ねあわされているとも考えられるのではなかろうか。
 


 さて、この論考では「水」のもつ意味がひとつの主要テーマになる予定である。ここでは、風呂の水ないし湯がもつ意味に簡単にふれてみよう。都会生活は、かつての伝統的社会とくらべれば相対的に自由ではある。しかし、当然のことながら無際限の自由などはなく、われわれは目には見えにくいさまざまな糸にしばられている。このような都会生活者を水族館の魚にたとえてみればどうだろうか。目には見えない透明な水、しかし魚はその外に出ることはできない。

 もちろん物理的には都会から出ることはできる。しかしながら、たとえ外に出たところで、さまざまな都会生活のしがらみから完全に自由になることはないだろう。かつての田園生活はノスタルジーのなかにだけあって、たとえ物理的には田園にもどったとしても、それはかつて存在したような田園生活ではない。また村落で生まれそだって生活しているとしても、TVをはじめとする都会の情報がかれらを取りかこんでいる。われわれのまわりには、すでにそのような象徴的な意味での「都会」が蔓延しているのである。

 このような目には見えない透明な「都会」を水族館の水にたとえれば、現代人が水族館の魚として生活せざるをえない状況もうかびあがってくる。ここで風呂の水底に沈む孤独な老人死体は、群衆のなかでの孤独をかこつ現代都会人と重ねあわさって見えてくるのではないだろうか。もちろんここで都会とは、目にはさだかに映らないもうひとつの大きな密室、という意味をおびてくるのである。

 この項では、都会・水・密室という象徴的な関連を指摘するにとどめてつぎにうつろう。
 

*『現代伝説考(全)』はこちらから読めます
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/txt_den/densetu1.htm