旭丘中学校

【旭丘中学校と旭丘事件】

 母校旭丘中学校、半世紀前を思い出して投稿します。昭和36年度入学です。
 

写真1.航空写真での全景。敷地の様子は変らないが、北山通り側にプールが出来ているようですね。昭和22年に京都市立待鳳中学校として創立、その名のごとく待鳳小学校内に併設されたとか。うちの兄がその一期生だったと聞いています。その後 旭丘中学校として現在地に独立したが、私の在学中もプールはなくて、水泳部員は待鳳小学校のプールを借りて練習してました。
 

写真2.東門。現在は北山通り側の門が正門となっているようですね。私の頃はこちらが正門、毎朝ちょうど東方向にある自宅から、坂道を上り詰めた所にあるこの門に駆け込んだものです。
 

写真3.中一クラス写真。腰掛けているコンクリート階段は今でもあるはずです。グラウンドに面した背景の校舎は、昭和28年の火災で焼け残った半分で、職員室などがありました。この火災は原因不明で、その後の「京都旭丘中学事件」という、いわば黒歴史との接点も噂された遺物で、学齢前だった私も、近くのお兄さん(たぶん当時に在学生)に連れられて、焼跡を見に行った記憶がある。
 

写真4.中三、卒業アルバム用クラス写真。3と反対に東向きで、形の良い比叡山が背景に見える。南部方面からはふたこぶラクダのように見える比叡も、北部のこの地からは形良くそびえたち、毎日この勇姿を眺めながら学校生活を送った。当然、校歌の冒頭にも比叡は詠みこまれている。
 

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*在学中にも、ほとんど触れられなかった事件。当中学校についてはいわば「黒歴史」になるのだろうか、意図的に語られなくなくなっているようである。完全に風化しないように、ここに記録しておく。

【1953.4.29 [京都] 京都旭丘中学偏向教育事件】


 1953年4月29日、京都市立旭丘中学校は原因不明の出火によって8教室が焼けた。火災の原因について、一部の父兄から進歩的教員による放火説がとなえられ、父兄や教員の間での保守対革新の対立が表面化した。旭丘中学ではかねてから、日本共産党員である日教組教員によって、「平和教育」と称する赤化教育がなされているといううわさがあった。やがて保守派父兄によって市教育委員会に申し立てがあると、旭丘の「偏向教育」は中央の政治問題に発展した。

 具体的には、校内で革命歌や赤旗を強要するとか、全関西平和まつりに生徒を引率するなどが行われていたとされる。翌年3月、京都市教育委員会は「偏向教育」の主導者として、北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論を他校への転任を内示、3教員がこれを拒否したため懲戒免職とした。3教員の支持派は、赴任したばかりの北畑紀一郎校長を吊るし揚げ、辞任を強要した。教育委員会側は辞表を不受理、旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。

 一方、これを不服とする進歩派の教員・父母と京教組組合員らが、学校を封鎖し自主管理授業を強行、校舎やグラウンドには赤旗が林立する。他方、保守派の父母と市教委は、岡崎の京都勧業館での補習授業を行い、生徒は2分されることになった。事態の長期化につれて、子供を政争の材料にしているとの世論の批判も高まり、京都府教育委員会などの調停により、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わず、転任させて校長以下全教員を入れ替えることで双方が妥協し、授業が再開された。まるで60年70年安保時の大学紛争を思わせるが、これは戦後の新設されたばかりの一公立中学校での出来事である。


 校舎火災のとき私は5歳前後、近くの旭丘中学在学のお兄さんに手を引かれて火事現場を見に行った記憶がある。現在の校舎は三階建になっているが、当時は木造二階建で写真左側の半分以上が焼け落ちた。8年後には私が入学することになるのだが、その当時は焼け残った右半分には職員室などがあり、左半分が安普請で継ぎ足された教室となっていた。

 旭丘中学校の在学中には、このような事件があったことはまったく知らなかった。教師も生徒もすべて入れ替わっており、しかも当時を知る教員や父兄も、意識的に話題を避ける雰囲気があったのだと思う。しかし私にとっては、その後調べて知った事件の概要と、幼くして見たおぼろげな火災跡との印象が結びついて、是非とも触れなくてはならない事件となっている。