『Get Back! 30’s / 1935年(s10)』

『Get Back! 30's / 1935年(s10)』
 
○2.- [大阪] 湯川英樹大阪帝大講師が、のちのノーベル賞受賞につながる中間子論を発表する。


 1934年(昭和9年)大阪帝大講師の湯川英樹は中間子理論構想を発表、翌1935年(昭和10年)には『素粒子の相互作用について』を発表し、中間子(現在のπ中間子)の存在を理論的に予言した。原子核を構成する陽子と中性子を結合させ、強い相互作用の媒介となる「中間子」が理論的には存在するとした。


 戦後の1947年になってから、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からπ中間子を発見し、湯川の理論の正しさが実証された。これにより1949年(昭和24年)日本人として初のノーベル賞受賞者となる。湯川のノーベル物理学賞受賞は、戦争で打ちひしがれた日本国民を勇気づける事件となった。

 湯川英樹は1907年(明治40年)1月23日、東京麻布で地質学者小川琢治と小雪の三男として生まれるも、すぐに父琢治の京都帝大教授就任に伴い京都市に移住する。京都市立京極小、京都府立一中、三高、京都帝大学理学部と進み、同じくノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎とは、ほぼ同年代で同じコースを歩んだ。

 京都帝国大学を卒業後、京都帝大講師、大阪帝大講師として研究を続け、この大阪時代に「中間子論」を発表する。この時期に、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓となる。父小川琢治は地質学者であり、その子供たちも学者兄弟として有名である。長男の小川芳樹は冶金学者、次男の貝塚茂樹東洋史学者、三男の湯川秀樹は物理学者、四男の小川環樹は中国文学者として、それぞれ名を成している。


 当時は日中戦争中であり、日本人学者は海外から評価されづらい状況だったが、最先端の量子力学研究者らが集まるソルベー会議に招かれ、以後アインシュタインオッペンハイマーらと親交を持つようになった。戦前にも徐々に評価されるようになり、戦後のノーベル賞受賞後には、1953年京都大学基礎物理学研究所初代所長に就任、京都大学及び日本の理論物理学の発展に尽くした。

 またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」に、当時の第一級の科学者ら11人連名の共同宣言者として名前を連ねた。1981年(昭和56年)京都大学退官後も住み続けた京都市左京区の自宅で死去、享年74。
 

○2.18 退役軍人の菊池武夫議員が貴族院本会議で、美濃部達吉の「天皇機関説」を国体破壊の憲法解釈と非難。25日、美濃部が攻撃に対して反論の演説をする。
○4.9 美濃部達吉の3図書「逐条憲法精義」「憲法提要」「日本憲法の基本主義」が発禁になる。書店には買手が殺到し、古書店のものにはプレミアムがつく。


 いわゆる「天皇機関説事件」である。軍部の台頭と共に国体明徴運動が起こり、思想・学問の自由は圧迫されてゆき、天皇機関説は国体に反するとして攻撃を受け始めた。1935年(昭和10年)2月18日、貴族院本会議の演説において、菊池武夫議員が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の「天皇機関説」を国体に背く学説であるとして、貴衆両院有志懇談会をつくり機関説排撃を決議した。この菊池議員の演説をきっかけに軍部と右翼による機関説への攻撃が激化する。


 同年2月25日、美濃部議員が天皇機関説を平易明瞭に解説し議場からは拍手が起こったが、議会の外では右翼団体在郷軍人会が上げた抗議の怒号が収まらなかった。そうした者の中には「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂するような低能右翼も多かった。

 天皇機関説とは、大日本帝国憲法下において、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの補助を受けながら統治権を行使すると説いたものである。機関説を株式会社に例えれば、それを法人格組織として捉え、社長はその運営執行者とするようなもので、機関説に対抗する「天皇主権説」では、国家を法人として認めないで、いわば天皇の私物とするようなものである。

 国家法人説は近代国家においては常識であり、国王・皇帝が支配する国であっても、国家を私物として所有するものではない。天皇機関説でも、国家意思の最高決定権の意味での主権は天皇にあるとしており、天皇統治権を否定するものではなく、あくまでも大日本憲法上での天皇の位置付けを確認したものでしかない。

 天皇の神国と祀り上げることで、統帥権を政府を超越したものとするなど、結局は戦前軍国主義下の軍部独走を許すために利用されただけである。このような「空気」の中で、誰が決めるともなく戦線の拡大は進んで行き、「神国」であればアメリカなどに負けるはずもないという、とんでもない観念が支配したのであった。

 このような軍部や右翼の圧力に押されて、政府は陸軍大臣からの要求をのみ、美濃部を取調べることを警察に指示するとともに、美濃部議員の著書『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊を発禁処分とした。美濃部議員自身は不敬罪で告発され、結局、美濃部は起訴猶予処分となるも、貴族院議員を辞職に追い込まれた。さらに翌年には、美濃部は右翼暴漢に銃撃され重傷を負っている。


 この一連の天皇機関説事件の中で、岡田内閣は2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説とし撲滅を宣言させられ、あたかも西洋中世キリスト教の異端審問を思わせるような徹底ぶりであった。

 美濃部は決して民主主義者でも自由主義者でもなく、天皇主権を大日本憲法上に位置付け、法治国家としての体裁を憲法理論上で確立しようとした憲法学者であった。戦後になっても、美濃部は新憲法の有効性について懐疑的見解を示し、国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして反対の立場を取った。これは戦後民主主義の流れの中で「オールド・リベラリストの限界」と嘲笑されたが、美濃部は、右でも左でもなく、あくまで憲法学者としての主張を一貫したに過ぎない。
 

○8.12 [東京] 陸軍軍務局長の永田鉄山少将が、相沢三郎中佐に刺殺される。(相沢事件/永田斬殺事件)


 1935年(昭和10年)8月12日、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した。前年の陸軍士官学校事件で磯部浅一と村中孝次が停職となったことなど、永田鉄山ら統制派による皇道派追放への反発が動機であり、その後の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。

 1931年に満州事変が起こりると、来る国家総力戦を戦い抜くためにとして、日本陸軍内部において、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派と、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す急進的な皇道派との対立が激化していた。1934年に皇道派青年将校らによる「士官学校事件」が発覚し、翌年には皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起ることで、統制派が皇道派を一掃する動きが強まってきた。


 このような統制派による皇道派追放への動きを、統制派の永田鉄山軍務局長が取り仕切っていると考えた相沢三郎陸軍中佐は、1935年8月12日永田鉄山少将の在室を確認したうえ軍務局長室に闖入、軍刀を抜いて永田に切りかかり殺害した。

 翌年初めに軍法会議は始められ、軍幹部らの証人喚問をめぐって錯綜している間に、2月26日に二・二六事件が勃発した。皇道派青年将校らが引き起こしたクーデター事件は、相沢の裁判をめぐる環境を一変させ、非公開のままで一挙に公判が進められ、死刑の判決が確定すると7月3日に銃殺刑が執行された。


 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深めやがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」という戦後の証言なども残されているが、歴史にイフはない。
 

○12.8 [京都・島根] 警察隊が大本教本部や別院を急襲。不敬罪治安維持法違反容疑で幹部ら65人をいっせいに検挙する。(第二次大本教事件)


 大本事件は、新宗教「大本(おおもと)」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧である。1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本を徹底的に壊滅させる目的での弾圧であった。

 「大本」(俗にいう「大本教」)は、京都府綾部の地に住む一介の老女「出口なお」が、「艮(うしとら)の金神」が神懸かりしたとして始めた土着的な新宗教であった。一方で、同じく京都府丹波地域の亀岡の農家に生まれた上田喜三郎は、さまざまな新宗教を遍歴したのち、出口なおに関心を抱くと数回に及び綾部を訪問、やがて"なお"の信任を得ると、その五女で後継となる「出口すみ」と結婚し、入り婿となり「出口王仁三郎」と改名した。

 出口なおは、国常立尊のものとされる神示が「お筆先」として伝えられるとして、元来の文盲にもかかわらず、ひらがなばかりであるが自動速記のようにして書き続けた。このような開祖としての「なお」のシャーマン的な霊性と、希代の天才的オルガナイザーであった出口王仁三郎の俗世能力とが合体して、「大本」は拡大の道を歩むことになる。

 "なお"が亡くなると、娘の出口すみが二代「教主」となり、すでに霊性を認められた夫の王仁三郎が「教主輔」となる。王仁三郎の出生の地亀岡に、もと明智光秀の居城であった亀山城の址地を買収して、綾部と並ぶ教団の本拠地に改修した。さらには、大正日日新聞を買収してマスメディアを通じての言論活動をするなど、活発な布教活動により教勢を伸ばした。

 "なお"がひらがなで記した「お筆先」を、漢字に書き直し加筆編集して『大本神諭』として発表することで、宗派としての教義を確立し、"なお"の土着性に王仁三郎が普遍性を付加して、世界宗教としての萌芽さえ見せるようになった。「おおもと」はすべて一つの神であるという一神教性と、その教義の根幹にあった黙示録的な終末論とその「立替え説」は、第一次世界大戦米騒動ロシア革命などで揺れる世情不安の動揺をとらえ、信者数を拡大して陸海軍や上流階級にまで影響力を持つようになった。

 1921年の第一次弾圧は、不敬罪・新聞紙法違反として80名が検挙され、王仁三郎には懲役5年という判決が下ったが、控訴審・再審と続くうちに、大正天皇崩御があって免訴となる。不敬を理由に教団の施設破壊も行われたが、決定的な打撃とはならなかった。公判中にもかかわらず、保釈中であった出口王仁三郎は、われ関せずとモンゴルへ出向き、当地の馬賊の頭領とともに活動するありさまであった。


 1935年12月8日に始まる第二次大本事件での大弾圧は、まさに徹底したものであった。満州事変勃発後、国内ではクーデター未遂やテロルが横行して、不安定な状況下にあった。ますます勢力を拡大し、政治的な動きを増しつつある大本は、軍部皇道派右翼団体と連動して反政府民衆運動を惹起する懸念を当局に抱かせていた。

 1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側の武装を当然とし決死の覚悟で踏み込んだが、大本の施設からは竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、信者987人が検挙され、特高警察の拷問で起訴61人中16人が死亡したという。

 邪教撲滅のために全国の教団施設の撤去が決定すると、当局は綾部・亀岡の教団施設をダイナマイトで跡形も無く破壊し、それらの破壊費用を大本側に請求した。また王仁三郎一家の個人資産、教団の資産もすべて処分、出口なおをはじめ信者の墓あばくなど、西欧中世カトリック教会の「異端」迫害を思わせるような弾圧をおこなった。


 大本教団はほぼ壊滅させられ、王仁三郎は保釈されるも故郷亀岡で隠遁生活を送り、戦後の恩赦で解放されると教団活動を復活させたが、まもなく死去する。たとえ大本教団が狂気の集団であったとしても、それに輪を掛けた国家権力側の狂気は、まさに戦争に向う狂気の抗いがたい「空気」のもとで進められたのであった。
 

*この年
茶店流行/月賦販売盛ん/貿易収支が17年ぶりに黒字/綿布輸出量、史上最高の27平方ヤード/嗜眠性脳炎ネムリ病)流行
【事物】初の公設保健所、東京京橋と埼玉所沢に/年賀郵便切手(1銭5厘)
【流行語】人民戦線/国体明徴/新官僚/ハイキング/ソシアル・ダンピング
【歌】旅笠道中(東海林太郎)/大江戸出世小唄(高田浩吉
【映画】忠次売出す(伊丹万作)/お琴と佐助(島津保次郎)/雪之丞変化衣笠貞之助)/外人部隊(仏)
【本】高垣眸「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)/川端康成「夕景色の鏡(雪国の初編)」(文藝春秋)/吉川英治宮本武蔵」(朝日新聞)/新潮社「日本少国民文庫」全16冊