『Get Back! 30’s / 1934年(s09)』

『Get Back! 30's / 1934年(s09)』
 
○4.21 [東京] 渋谷駅前に、忠犬ハチ公銅像が建てられる。


 「忠犬ハチ公」は、死去した飼い主の帰りを渋谷駅前で待ち続けたという犬として知られる。飼い主であった大学教授上野英三郎の生前、秋田犬ハチは主人の通勤の行き帰りに、玄関先や時には駅まで送り迎えしていたが、上野は大学での会議中に急死する。その後ハチは関係者間を転々とするが、2年後、近くに住んでいた上野宅出入りの植木職人に引き取られた頃から、渋谷駅周辺にその姿を見せるようになった。

 渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチだが、当初は通行人や商売人から虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となっていた。一方で、忠実なハチのことを知る日本犬保存会会長斎藤弘吉は、邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打ち、ハチの事は広く知られるようになった。以降、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。


 ハチの美談に感動した著名彫塑家安藤照は、斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝え、この結果、日本犬保存会からの依頼によりハチの像が作成されることとなった。1934年(昭和9年)4月21日、完成した「忠犬ハチ公像」が渋谷駅前に設置され、盛大に除幕式が行われた。生存中に自らの像が作成・設置されたハチは自身も式典に参加したが、そのほぼ1年後に死亡する。この時、主人の上野が亡くなってから10年近く経っていたが、ハチ公像の周囲は花環で埋まり、大勢の人々が集まってハチの死を哀れんだ。

 やがて、日中戦争から太平洋戦争にかけて金属物資の不足が深刻化し、1941年金属類回収令が施行される。渋谷駅前で目立つ場所のハチ公銅像も、当時の金属供出の流れに抗えず、終戦直前には熔解されて機関車の部品となったとされる。戦時中の金属供出によって失われた忠犬ハチ公像は、終戦後の1948年(昭和23年)8月、安藤照の息子安藤士の手によって再建される。


 現在渋谷駅前に見られるハチ公像はこの時再建されたもので、再建直後の同年8月30日には、「三重苦」を克服した奇蹟の人ヘレン・ケラーが、二度目の来日で渋谷駅前を訪れてハチ公像に触れている。まったく関係ないが、まさにこの翌日に私は生まれました(笑)

 なお、ハチ公が渋谷駅に出没したのは、まわりの人から餌をもらえたからだという説もある。もちろん、大いにそれもあり得るが、それはどうでもいいことで、多くの人が主人を待ち続けたとしてハチ公を愛したことが重要であろう。むしろ「忠に、孝に」という教育勅語の精神を体現したものとして、忠「犬」を持ち上げねばならなかった当時の時世を笑うべきだろう。
 

○9.21 [四国・関西] 室戸台風が上陸。911.9ミリバ−ル、瞬間最大風速60m。校舎の倒壊が多く、教員・児童の死者が694人にのぼる。


 1934年9月21日朝,高知県室戸岬に上陸した「室戸台風」は、午前8時頃に阪神間に再上陸し近畿地方を縦断、京阪神中心に大きな被害をもたらした。室戸岬では最低気圧 911.9hPaという陸上における記録的な値を観測し、最大瞬間風速は60m/sを超えたと推定される。3000人もの死者不明者を出し、また多くの木造家屋が倒壊するなど甚大な被害をこうむった。

 一般に台風の進路右側に強力な暴風雨が吹くとされるが、ちょうど大阪・京都という大都市がその方向に位置した。当時は圧倒的に木造建築が多く、中でも、明治・大正期に乱立され老朽化した小学校校舎の多くが倒壊し、また神社仏閣などの歴史的な木造建築物も無残に倒された。


 大阪の四天王寺では、江戸期に建造された五重塔と仁王門がバラバラに吹き砕かれ全壊、金堂が大破傾斜する大被害を出した。京都の神社仏閣でも、上賀茂神社・下賀茂神社の国宝建築物が倒れたり、知恩院西本願寺建仁寺・醍醐三宝院などでも倒壊が発生し、文化財の被害は大きかった。

 私は戦後の京都市北区(分区前は上京区)に生まれ育ち、比較的自然災害から安全な土地だったが、台風だけは場所を選ばず襲ってくる。両親は室戸台風の経験がよほど深刻だったのか、ことあるたびに室戸台風の様子を語った。そのせいか、私にとって台風といえば「室戸台風」ということになっている。


 母親からは西陣小学校の校舎倒壊の話を何度も聞かされた。記録によると、西陣小で521名の児童が校舎の下敷きになり、41名の児童が亡くなっている。同じく母親から、女の先生が我が身を犠牲にして、うつ伏せに女子児童を守るようにして救った話も聞かされた。


 西陣校の話と混同していたが、これは淳和校(現 西院小学校)での話で、わが身を投げ出し殉職したのは松浦壽惠子訓導(教員)ということで、知恩院南門の脇に「師弟愛之像」として顕彰されている。この像もご多聞にもれず戦時中に供出されたが、戦後に再建されて、前面のプレートには、歌人吉井勇の歌「かく大き愛のすがたをいまだ見ず この群像に涙しながる」が刻まれている。
 

○11.2 [神奈川] ベ−ブ・ルースら全米大リーグの選抜野球チームが横浜に入港。各地で日本チームと対戦する。
○12.26 [東京] 日本初のプロ野球チーム大日本東京野球倶楽部が創立される。


 11月2日アメリカ大リーグ(MLB)選抜野球チームが来日、これまで数回 MLBチームの来日はあったが3Aなどの選手が主体で、ベーブ・ルースなどスター選手がこぞって参加するのは初めてだった。対する日本も初めてプロのチームを編成して挑むも16戦全敗に終わったが、その内でも静岡草薙球場での沢村栄治の好投は語り草となった。


 読売新聞社社長 正力松太郎が中心となり、初めてベ−ブ・ルースを含むMLB選抜チーム招聘に成功したが、文部省が発令した野球統制訓令で当時人気の大学野球が参加できなくなり、急遽職業野球チームを編成して対戦することになった。このチームを母体として、12月26日には日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」が創立される。

 大日本東京野球倶楽部は、翌年、アメリカに遠征し、マイナークラス中心に100試合以上の対戦をする。このとき「トーキョー・ジャイアンツ」の呼称が使われ、帰国の翌年、正式に「東京巨人軍」を名乗ることになった。以降、相次いで職業野球団が誕生してゆき、1936年には日本職業野球連盟が結成された。

 この時期は学生野球が圧倒的な人気で、中でも東京六大学野球の早稲田・慶応戦は、双方の応援合戦の過熱から休止されるほどであった。そのころ斬新なしゃべくり漫才で人気沸騰のエンタツアチャコ、最大のヒット演目は『早慶戦』であって、NHKラジオ放送を通じて全国的な人気を博した。

 生涯に714本のホームランを記録したベーブ・ルースは、ボストン・レッドソックスで投打二刀流選手として活躍したが、次第に打者としてずば抜けた記録を示すようになった。やがてニューヨーク・ヤンキースへ売却され、当時二流チームのヤンキースは米を代表する人気チームとなってゆく。一方レッドソックスは、その後86年もの長きにわたってワールドシリーズで優勝できないという、「バンビーノ(ベーブ・ルースの愛称)の呪い」と呼ばれるジンクスに沈むことになる。


 このとき、京都商業を中退して日米野球に参戦した弱冠17歳の沢村栄治は、MLB選抜チームを8回5安打1失点9奪三振と好投し、ベーブ・ルースから三振を奪うなど、ルー・ゲーリックのホームラン1点だけに抑えた(スコアは0対1)。静岡草薙球場前にはその史実を伝えるべく、対峙する沢村とルースの像が建立されている。沢村は、結成されたばかりの「大日本東京野球倶楽部東京巨人軍)」に入団し、黎明期の巨人軍及び日本職業野球界を代表する快速球投手として名を馳せた。

 しかし最盛期の活躍は数年で、やがて徴兵により中国戦線に従軍、手榴弾投げで肩を故障し、さらにマラリアに感染したり戦闘で左手を撃ち抜かれたりした。復帰後には往年の剛速球は影を潜め、サイドスローアンダースローでごまかす投球になっていた。やがて三度目の応召でフィリピンに向かう途上、軍輸送船が撃沈され戦死、27歳没。戦後には、沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」(沢村賞)が設けられ、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られる。
 

○11.20 [東京] 陸軍士官候補生を中心としたクーデター計画が発覚し、皇道派の村中孝次・磯部浅一らが検挙される。(士官学校事件)


 1934年(昭和9年)11月、日本陸軍陸軍士官学校を舞台として、クーデター未遂事件が発覚する。磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画だったが、情報漏洩により主なメンバーが憲兵に逮捕され未遂に終わった。関与した青年将校たちは2年後の二・二六事件で中心メンバーとなった。統制派と皇道派の対立が表面化した事件で、この時、弾圧された側の皇道派の焦りが、二・二六事件につながったと言われる。

 「皇道派」とは、理論的な指導者とされる荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政官財界の堕落した「君側の奸」を排除して天皇親政による国家改造を目指すという陸軍内部の一派のことを言った。皇道派には陸軍大学校(陸大)出身者がほとんど居ず、陸大出身者が主体で軍内の規律統制を尊重する一派は「統制派」と呼ばれた。


 11月20日、クーデター計画の容疑で、陸軍の村中孝次大尉、磯部浅一主計らと5名の士官学校候補生が逮捕された。村中・磯部は皇道派の中心人物で、軍法会議においては証拠不十分で不起訴となったが、二人は停職、他の候補生については退学させる処分が下された。これで統制派に機先を制された皇道派は、村中・磯部などが主導者となり二・二六事件へと進んでゆく。


 事件の発覚は、士官学校の中隊長に転出していた辻政信大尉によって仕込まれた。クーデターを感知した辻は、自身の生徒にあたる佐藤勝郎候補生に計画を内偵させた。クーデターの詳細を把握した辻らは陸軍上層に報告し、村中、磯部らと5人の候補生が逮捕された。村中と磯部は獄中から、事件が辻らよるでっち上げだと訴えるが、免官となった。実際、統制派の永田鉄山(当時陸軍省軍務局長)と東條英機らが黒幕となって、皇道派の勢力を削ぐために辻らに仕組ませた陰謀であるという説もある。

 追い詰められた皇道派は、翌1935年、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を斬殺する事件を引き起こす(相沢事件or永田事件)。この後、皇道派はますます急進的になり、やがて二・二六事件に繋がっていった。
 

*この年
東北地方大凶作で欠食児童や娘の身売り・行き倒れ・自殺あいつぐ/女剣劇が浅草に進出/結婚ブーム
【事物】タクシー料金のメーター制/救急電話番号(99)/日本の南氷洋捕鯨
【流行語】明鏡止水/司法ファッショ/昭和維新/パーマネント
【歌】国境の町(東海林太郎)/ダイナ(ディック・ミネ)/急げ幌馬車(松平晃)
【映画】婦[おんな]系図(野村芳亭)/生きとし生けるもの(五所平之助)/会議は踊る(独)/街の灯(米)
【本】武田鱗太郎「銀座八丁」(東京朝日新聞)/亀井勝一郎「転形期の文学」/中原中也「山羊の歌」/平凡社「世界歴史大系」全26巻