『Get Back! 30’s / 1933年(s08)』

『Get Back! 30's / 1933年(s08)』
 
○2.12 [東京] 大島の三原山で、実践女学校専門部の生徒が投身自殺をする。以後、三原山は自殺の新名所となる。


 1933年2月12日、実践女学校専門部国文科に籍を置く松本貴代子(21)が、伊豆大島三原山火口から投身自殺する。貴代子は万葉集や金塊集を愛読する耽美的な文学少女であり、また潔癖主義者で結婚を嫌悪するなど厭世的な人生観を持っていて、日ごろから死への願望を友人たちに漏らしていたという。

 この日の朝、松本貴代子と親友の富田昌子(21)が三原山火口を目指して登っていた。日ごろから自殺願望を口にしていた貴代子は、昌子に自分の投身自殺の立会いを依頼していた。火口に到着すると貴代子は懐中から遺書を取り出し昌子に手渡して、そのまま噴煙の中に身を投げた。そのあと昌子は、取り乱し彷徨っているところを地元の人に保護された。

 さらには、1か月前の1月9日、富田昌子は、実践女学校の上級生真許三枝子(23)の自殺にも立会っていたことが判明する。ただ昌子は、火口近くまで同行して、三枝子に他言しないことを約束させられ、そこから下山をうながされたという。火口への投身自殺は遺体が見つからないことが多く、三枝子の自殺も昌子の供述から判明した。


 昌子はそのことをうっかり貴代子に漏らしたため、自分の自殺も見届けてほしいと迫られ、断り切れなかった側面あったようだ。さらに同級の友人に貴代子に思い止まるよう説得を頼むなど、それなりに引き留める努力もしたようであるが、結局は友情と同情に引きずられて三原山まで同行したのかも知れない。

 当初「女学生の同性心中」などと書いていた新聞は、これらの事実が判明するにいたって「死の立会い女」としてセンセーショナルに報道した。自殺より富田昌子の挙動に世間の注目が集まり、変質者、狂人といった罵倒が浴びせられるようになると、昌子は精神に変調をきたし、4月29日に実家で変死する。世間の非難を気に病んでの自殺とも、持病が悪化したためともされる。


 松本、真許の自殺の真相とともに、二度も親友の自殺に立会った富田の心の謎は、富田の変死と共に闇に消えた。元々自殺の名所だった三原山は、この事件の報道とともに一挙に自殺者が殺到し、この年、900人以上の人が飛び降り自殺したとされるが、未発見の遺体を含めれば千名を超すと思われる。その比率はなぜか男性が圧倒的に多く、女性の5倍以上というのは、どのような心理によるものだろうか。

 高橋たか子『誘惑者』は、この事件をモデルに同行者富田昌子の心理に焦点を当てた作品である。
 

○2.20 [東京] 日本プロレタリア作家同盟の小林多喜二(31)が検挙され、築地署で拷問のすえ死亡する。


 1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、小林多喜二は一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めるが、同時に警特別高等警察特高)からも要注意人物としてマークされ始めた。『一九二八年三月一五日』『蟹工船』などの発表がもとで、北海道拓殖銀行拓銀)を解雇され東京に転居、日本プロレタリア作家同盟書記長となるとともに、共産党とのつながりを深め、『蟹工船』の件で不敬罪及び治安維持法で起訴され投獄される。


 1931年、保釈出獄後に非合法の日本共産党に正式入党し、危険思想取締りが強化されるとともに地下活動に入った。1933年2月20日、共産青年同盟に潜入していた特高スパイに騙され、指定された場所におもむき待機していた特高によって逮捕される。同日築地警察署内においての取調べで、ステッキで打擲された上さらに殴る蹴るの暴行による拷問で、その夜死亡が確認された。

 先の『一九二八年三月十五日』は、1928年共産党員らを全国で一斉検挙した「三・一五事件」の弾圧を題材にしたもので、この中での拷問の描写が特高の恨みを買い、逮捕当日の性急な拷問死につながったともされる。警察当局は翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された小林の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、全身に内出血のあるひどいものであった。

 特別高等警察特高)は、国体護持のために無政府主義者共産主義者社会主義者、および国家の存在を否認する者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした日本の政治警察とされる。その沿革は1910年の幸徳事件らの「大逆事件」にまでさかのぼる。1928年「三・一五事件」をうけ、「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、全国的な組織網が確立された。


 この時期は共産主義者共産党員を取締りの対象としていたが、日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するための障害として、反戦運動や急進的な新興宗教自由主義者などまでも、反政府的とみなし監視や取締りが行われるようになった。第二次大戦後、GHQにより治安維持法とともに特高は廃止されたが、その後も「公安警察」としてその基本的な任務は継承されている。

 なお2008年には『蟹工船』が再評価され、文庫の『蟹工船・党生活者』がベストセラーになり、映画化もされるという小林多喜二ブームが若い世代を中心に起こった。若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景にあり、ブラック企業が「蟹工船」に例えられるなどした。
 

○2.24 [スイス] 国際連盟が対日満州撤退勧告案を可決。松岡洋右日本代表は連盟への決別を述べ退場する。(3.27 正式に脱退を表明)


 1933年2月、国際連盟総会は日本の満州からの撤退勧告案を可決、翌3月日本は連盟脱退を通告した。日本は1931年、現関東軍満州事変を起こし満州全土を制圧、1932年3月に傀儡政権満州国を建国した。中華民国政府は国際連盟満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴、国際連盟リットン調査団を派遣した。リットン報告書は日本の侵略と認定し、国際連盟総会ではそれに基づいた「中日紛争に関する特別総会報告書」が可決され、3.27に日本は正式に国際連盟を脱退を表明した。


 「国際連盟 "League of Nations"」は、第一次世界大戦の反省を踏まえて、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが「国際平和機構の設立」を提唱し、パリ講和会議でのヴェルサイユ条約など各国間の講和が成立すると、ヴェルサイユ条約の発効日である1920年1月10日に正式に発足した。

 しかし提案者ウィルソンのアメリカが上院の反対で加盟せず、当初から不安定な船出となった。イギリス・フランス・日本・イタリアの列強が常任理事国となり、敗戦国のドイツや共産主義国家ソヴィエトは、のちに加盟を許された。しかし日本と並んでナチスドイツが、さらにイタリアが脱退すると、国際機関としての無力性が露呈し、第二次大戦の勃発を抑止することができなかった。

 日本は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造が選ばれるなど中核的役割を担っていた。日本はヨーロッパから遠く位置し、ヨーロッパ諸国間の紛争に比較的利害が少なく、ヨーロッパでの紛争に対しては公平な第三者の調停役としてふるまえた。


 しかし、大陸に満州国を建国させ実質支配者となると、明確に欧米の利害と衝突し「中国の主権侵害」と認定されるに至る。日中紛争の特別総会報告書が圧倒的多数で承認されると、松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、総会会場を去った。新聞は「連盟よさらば!我が代表堂々退場す」などと報じ、帰国した松岡洋右全権は、あたかも凱旋将軍のごとく国民の大歓声によって迎えられたという。
 

○5.26 [京都] 京都帝大の滝川幸辰教授を文部省が休職処分とする。(滝川事件)


 「滝川事件」とは、1933年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。京大事件とも呼ぶ。1932年に京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が行った講演が、無政府主義的として文部省および司法省内で問題にされた。この時点では本格的な問題にはならなかったが、1933年3月になり「司法官赤化事件」が起こり、共産党員影響下にあるとされたの裁判官・裁判所職員が検挙される事件が起こった。すると一部右翼や国会議員が、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張し、司法試験委員であった滝川を非難した。

 4月になると、内務省は滝川の著書『刑法講義』及び『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として発売禁止処分を下した。翌5月には斎藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に滝川の罷免を要求したが、京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶、しかし文部省は文官分限令により滝川の休職処分を強行した。


 滝川の休職処分に抗議して、京大法学部は教授31名をはじめ全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部の支持は得られず、小西総長は辞職に追い込まれる。後任の松井総長は「解決案」を提示し、事態を収束させるが、辞表提出の法学部教官は、免官を含む辞職組と残留組に分裂しのちにしこりを残す。

 京大法学部の学生も教授会を支持し、全員が退学届けを提出するなど処分に抗議する運動を起こした。他学部の学生もこれに続き、さらに東京帝大など他大学の学生も呼応し、7月には16大学の参加により「大学自由擁護連盟」が、さらには文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成された。雑誌界や新聞も支援の論説を掲載し擁護したが、これらの自由主義的文化運動は弾圧のもとに終焉してゆく。

 この事件で教員の2/3を失うことになった京大法学部は、ダメージが大きく戦後の再建も困難を極めるが、一方で当代一流の法学研究者が他大学に流れ、京大以外の関西圏大学法学部の発展を促すことにもなった。なかでも18名もの教官を受け入れた立命館大学は、事件で免官された末川博が戦後の長期間にわたって学長・総長を務め、京都大学などの左翼系学者を多く受け入れて、同志社と並ぶ京都の私立大学の勇との立場を固めた。

 また大阪商科大学(大阪市立大学)に講師として移籍した末川博や恒藤恭らは、文部省の拒否でなかなか教授への昇任が許されなかったが、戦後の新制大学の初代学長には、末川と苦労をともにした恒藤恭が就任した。立命館大阪市大は、戦後60・70年代の学生運動最盛期にも、左翼系教官や学生の牙城として重要な位置を占めた。


 この事件は滝川個人への思想弾圧というよりも、「大学自治の総本山」と見られていた京大をターゲットにした、大学自治の弾圧がねらいだという説もある。また、それまで共産主義者が中心だった弾圧が、より広い自由主義的言論までも拡大され、軍国国家の方針にそわない反国家的な思想として弾圧する転機ともなった。

 なお、黒沢明監督の戦後第1作『わが青春に悔なし』(1946年)は、滝川事件とゾルゲ事件をモデルとした映画だとされる。
https://www.youtube.com/watch?v=aiLWuVNrcSU
 

○8.19 [大阪] 中等学校野球大会準決勝戦で、中京商業と明石中学が延長25回、4時間55分の熱戦を展開。1-0で中京のサヨナラ勝ち。


 1933年(昭和8年)8月19日、準決勝で中京商業学校対明石中学校の試合は、延長25回中京商業のサヨナラ勝ちという劇的な決着をみた。延長25回は、戦前の中等学校野球から戦後高校野球を通じて史上最長記録である。1958年の第40回大会から「延長18回引き分け再試合規定」(現在は15回)のルールが制定されたため、今後も破られることにない不滅の記録となった。

 中京商は、この大会に史上初の3連覇をかけている強豪であり、3年連続優勝投手を目指す吉田正男を擁した優勝候補筆頭であった。一方、明石中は剛球投手として名高い楠本保がいて、この年春の選抜大会準決勝で中京商を1-0完封に抑えており、中京商にとっては最大の壁として立ちはだかった。

 先発は中京商吉田にたいして、明石中は予想に反して二番手の中田であった。中京商の選手には「ナカタって誰だ?」と驚く選手もいたというが、楠本は脚気の兆しなどで体調不良だったらしく、本大会の予選から中田との継投で勝ち抜いてきた。

 両投手力投のうちに回は進み、9回表終了の時点で安打は中京商が0、明石中も1本だけという投手戦であった。9回裏には中京が無死満塁と絶好の得点機を迎えるも併殺などで延長戦に入る。その後も、両チーム何度も得点機を迎えるがゼロが続く。当時の甲子園のスコアボードは16回まで、その後は0の板を釘で打ちつないで表示したという。


 25回裏、中京商は無死満塁を迎えると、次打者の二塁ゴロは二塁手の送球がそれ、ついに中京商のサヨナラ勝ちとなった。この試合で中京商吉田は336球を投げ、翌日の京都平安中との決勝戦では「ボールの行方はボールに聞いてくれ」との心境だったが、10四死球を許しながらも失点1に抑え切った。中京商業は不滅の夏の大会三連覇をはたし、吉田投手も三年連続優勝投手となった。


 伝説の甲子園三連覇投手吉田正男は、当時色物的評価だった職業野球は選ばず、明治大学に進学し東京六大学で活躍するも、肩をこわし外野手に転向、その後も一貫してアマチュア野球の振興につくした。一方、楠本と中田は、共に慶応大学へ進学するも後に応召され戦死する。2人を含め、中京明石両チームのベンチ入り選手のうち8人が戦死し、その名は東京の野球殿堂博物館近くの戦没選手慰霊モニュメントに刻まれている。

 延長に入り中田を救援しようと楠本は投球練習を始めたが、「相手投手1人に2人がかりとは何事か」と監督が止めたという。また、ラジオ実況はNHKの高野国本アナウンサーが1人で1回から25回までを担当したが、途中で他のアナウンサーが交代を申し出るも、本人は「選手ががんばっているのにアナウンサーが止めるわけにはいかない」と語ったという。いまではあり得ない、いかにも戦前昭和なエピソードであった。

 戦後の高等学校野球大会でも、いくつもの名勝負が展開された。1958年夏の準々決勝では、徳島商業坂東英二と魚津高校村椿輝雄とが投げ合い、延長18回引き分けとなり、翌日の再試合も坂東が完投して準決勝に進んだ。その年の春の地区大会予選で坂東が、延長16回、延長25回と2戦続いて投げ抜いたため、この全国大会では延長18回ルールが定められていたという。その後、1969年夏には、東北勢として戦後初の決勝進出を果たした三沢高校松山商業戦も、三沢太田幸司松山商井上明の投げ合いは伝説となった。
 

*この年
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