『Get Back! 30’s / 1932年(s07)』

『Get Back! 30's / 1932年(s07)』
 

○2.9 [東京] 次期総裁の有力候補、民政党井上準之助(64)が血盟団員に射殺される。(血盟団事件
○3.5 [東京] 日本橋三井銀行玄関で、三井合名理事長・三井財閥総帥の団琢磨(75)が血盟団員に撃たれ、翌6日、死亡する。(血盟団事件


 日蓮宗の僧侶である井上日召は、1931年(昭和6年)、政治結社血盟団」を結成し、性急な国家改造計画を企てた。「天皇中心主義にもとづく国家革新」を目指す日召は、それにそぐわない政治経済界の指導者をテロによって暗殺すること計画する。井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名をリストアップし、血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。

 暗殺リストには、犬養毅西園寺公望幣原喜重郎若槻禮次郎団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助牧野伸顕など、いずれも政・財界の大物が挙げられていた。テロの実行に連動して、軍部若手将校がクーデターを引き起こす計画であったが、綿密な実行計画な為されず見込み決行となる。「一人一殺」での暗殺目標と担当者を決定して、2月7日以降に決行としたが、諸事情が関係して実行できないものが多かった。


 2月9日、最初の犠牲者は、前大蔵大臣で民政党幹事長の「井上準之助」となった。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務め金解禁を断行した結果、世界恐慌に巻き込まれて大混乱を起こした張本人として、そして予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけたことが、第一の標的とされる理由となった。実行者は血盟団員小沼正でその場で逮捕され、井上準之助は病院に急送されたが絶命した。


 3月5日、日本橋にある三井本館の玄関前で、出社して来た三井財閥の総帥「團琢磨」が射殺された。実行者菱沼五郎も血盟団所属で、当初の枢密院議長伊東巳代治の予定が変更されて、最終的に対象とされた團を射殺した後、その場で逮捕された。当時の金解禁後の大不況の中で、團の率いる三井財閥がドル買い投機で暴利をむさぼり、私利私欲に走った財界の国賊として標的とされた。

 警察は血盟団の組織的犯行であることを突き止め、裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また帝大七生社系(東京帝大の右翼結社)の四元義隆ら他のメンバーも、それぞれ実刑判決が下された。しかし、同じく関与した海軍側関係者からは逮捕者は出ず、計画に関わった海軍将校古賀清志らが、血盟団の残党を集めて五・一五事件を起こすという禍根を残す。

 有罪実刑となった井上・小沼・菱沼・四元らも、皇紀2600年(1940年)の記念恩赦で出獄する。彼らの多くは、戦後も右翼フィクサーなどで活躍することになる。
 

○5.15 [東京] 海軍青年将校と陸軍士官候補生9人が首相官邸を襲撃、犬養毅首相を射殺する。16日、内閣総辞職政党政治に終止符が打たれる。(五・一五事件


 1932年(昭和7年)5月15日、武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、政友会の内閣総理大臣犬養毅を殺害した。首相官邸を襲った海軍青年将校のグループは、応接に入って犬養首相に銃口を向け、「話せば分かる」「問答無用」とのやり取りで射殺したことになっている。実際にはしばらくの時間があり、首相が説得を試みるが、実行を急ぐため指揮者の一人が「問答無用、撃て!」と指示したらしい。

 犬養首相は腹部と頭部を撃ち抜かれたが、犯人が立ち去ってからもしばらく息があり、駆け付けた女中に「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と語ったと言う。しかしやがて次第に衰弱し、深夜になって死亡した。


 この事件を計画・指揮をした海軍中尉古賀清志は、先の血盟団事件にも参画していたが逮捕されず、昭和維新の第二弾として、血盟団の残党や急進的な海軍青年将校たちを取りまとめ、農本主義者による愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織するとともに、時期尚早と考える陸軍の一部陸軍士官候補生を引き込むなど、襲撃要員を確保した。

 計画では、参加者を4組に分け、首相官邸など政府拠点を同時に襲撃し、要人を暗殺したあと、軍部の決起によるクーデターを目指した。5月15日午後5時30分を期して行動を開始し、首相官邸の犬養首相襲撃は成功したが、首相に次ぐ重要要人とした牧野伸顕内大臣の襲撃には失敗、他の襲撃目標でも大した成果は得られなかった。


 血盟団事件五・一五事件も、クーデターによる政権転覆を目指したが、自分たちの要人暗殺が起爆剤となり、軍部の決起に期待するというものであり、具体的に軍部を動かす組織的な計画は無かった。その意味で、4年後の二・二六事件とは根本的に異なり、要人暗殺テロに過ぎない事件であった。

 犬養首相暗殺後、後継首相の選定は難航し、その差配を任せられた最後の元老西園寺公望は政党内閣を断念し、元海軍大将の斎藤実を指名し、民政・政友両党の協力のもと挙国一致内閣を組織させる。かくして、政党内閣は犬養内閣をもって終焉する。

 また、首謀将校らの裁判も甘い判決となる。軍部の意向がはたらくとともに、民間も当時の政党政治の腐敗への反感が大きく、犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こるぐらいだった。結果、将校たちへの判決は軽いものとなり、このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたとも言われる。

 エピソードとしては、事件の前日にイギリスの喜劇俳優チャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養首相と面会する予定であったという。また「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間ではチャップリンの暗殺も画策されていたらしいが、たまたまチャップリンは当日の思いつきで相撲観戦に出掛けて難を免れた。
 

○3.1 [中国] 満州国建国宣言を発表。9日、溥儀が執政に就任する。
○10.2 外務省が、満州事変に関する国際連盟リットン調査団の報告書を公表する。


 張作霖爆殺事件を引き起こすなど、満州支配を進めていた関東軍は、柳条湖事件を陰謀工作で演出し、それを口実に満洲全土を占領して支配下に置いた。事件を主導した関東軍参謀石原莞爾らは満州の領有を企図していたが、本土陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。


 関東軍の工作で擁立されて、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、翌1932年、彼等関東軍寄りの支配者たちが組織した東北行政委員会により、満州中国国民党政府からの分離独立が宣言された。1932年3月1日、清朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀」を満洲国元首として満洲国が建国され、翌年1934年3月1日には、溥儀が皇帝に即位して帝政に移行する。


 一方、柳条湖事件が起こると、中華民国国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はイギリス人のリットン卿を団長とするリットン調査団を派遣した。1932年10月2日、リットン調査団は報告書を提出し、満州中華民国への法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲自治政府を建設させる妥協案を提案した。


 報告書を待たず同年9月15日に日本政府は満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は、満州国政府を傀儡政権と断定した報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。

 翌1933年2月、国際連盟総会でリットン報告書に基づいた「中日紛争に関する報告書」が採択され、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)で議決された。松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月に国際連盟脱退を決定、日本国内世論は拍手喝采をもってこれを迎えた。

 リットン報告書や国際連盟報告書は、必ずしも一方的に日本の大陸政策を否定したものではなく、「主権」という面子は中華民国、「権益」という実利は日本へと振り分けたいわば"大岡裁き"であり、これは西欧列強が中国を蚕食している現状をそのまま是認するものでもあった。にもかかわらず日本政府や軍部は、大陸政策における満州の特別な位置付けに拘泥し、ブレーキ無きアクセルを踏み込み、さらなる孤立化を進めることになった。

 満州国皇帝溥儀の生涯は「The Last Emperor」として映画化されている。(1987)
#映画【ラストエンペラーhttps://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg
 

○5.10 [神奈川] 大磯の坂田山で慶大生と心中し、仮埋葬された女性の死体が盗まれ、センセーショナルな話題に。(「天国に結ぶ恋」坂田山心中)


 昭和7年5月9日神奈川県大磯町の通称坂田山の山林で、若い男女の心中死体が発見された。二人の衣服などから、一見して裕福な男女だと思われた。遺書から二人は、男爵家の子息で慶応義塾大学3年生の調所五郎(当時24歳)と静岡県駿東郡の大資産家令嬢湯山八重子(当時21歳)であることが判明。付近にあった瓶から、昇汞水と呼ばれる塩化水銀水溶液をあおって心中したことが確認された。

 警察が両家に連絡し事情を聴取したところ、二人は結婚を誓いあっていたが、女性側の両親が結婚に反対だったため、死んで天国で結ばれたいと心中したとされ、警察署は事件性はなしと判断、近くの寺の境内に仮埋葬をした。翌日10日の朝、仮埋葬されている土盛が掘り起こされ付近に女性の衣類が散乱しているのが発見され、二人のうち女性の遺体が無くなっていることが判明した。


 捜索の結果、大磯海岸の砂の中から全裸の女性の遺体が発見され、10日後に火葬場職員橋本長吉(65)が犯人として逮捕された。令嬢の遺体が盗まれ全裸で発見されるという猟奇事件として、新聞はセンセーショナルに書きたて、世間は大騒ぎとなった。当時の記事見出しは、「怪異の謎解ける、令嬢死体泥棒は65歳の隠亡、10日目にやっと自白、おぼろ月夜に物凄い死体愛撫、美人と聞いて尖った猟奇心」などというものであった。

 警察署では両家の意向を汲んで「令嬢は清く汚れのない処女であった」と異例の発表をした。すると今度は、新聞各紙は二人が純愛を貫いて心中したことを強調し、手のひらを返したように「純潔の香高く、天国に結ぶ恋 大磯心中の麗しい結末」などとの見出しで純愛心中をあおった。この「天国に結ぶ恋」は名文句となり、事件をロマンチックに美化した同名の映画や歌が製作公開され人気を博した。
+映画「天国に結ぶ恋」https://www.youtube.com/watch?v=986nGOqRol4


 この事件と映画のヒットをきっかけに、マスメディアに「心中」「情死」「天国」などの言葉が溢れ、翌年の三原山女学生心中事件など、多くの自殺騒ぎを誘引した。当時は「プラトニックラブ」という言葉がもてはやされ、旧制高等学校の生徒らさえも『若きウェルテルの悩み(ゲーテ)』や『ロメオとジュリエット(シェークスピア)』を愛読する時代、「純愛」という言葉は不可侵であったのかも知れぬ。
 

○12.16 [東京] 日本橋白木屋百貨店で初の高層ビル火災が起こる。死者14人、重軽傷者130人。


 1932年(昭和7年)12月16日午前9時15分頃、日本橋白木屋百貨店本店の4階の玩具売り場で火災が発生。地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して午後12時過ぎに鎮火した。火災による死者が1人、墜落による死者が13人、重軽傷者130人という、日本初の高層建築物火災となった。

 関東大震災で本店が火災消失して以来、仮設店舗を経て本格的に復興し、華々しく全館オープンしてから約1年が経過したところであった。この時期はクリスマスセールに加えて歳末大売り出しの最盛期、店内はクリスマス一色で飾りつけられ、各階には商品が山積みになっていた。


 この日の開店直前、4階のおもちゃ売り場のクリスマスツリーの電飾の故障に気づき、修理を始めたとたんに電線がショートしツリーに転火した。当時のおもちゃはブリキかセルロイド製が主流、セルロイドは火薬の原材料になるほどの可燃物質であり、あっという間に炎が店内をつつんだ。

 軍も出動するなどあらゆる手段で救出が試みられたが、当時の消防のハシゴ車は4階までしか届かず、救助を待ちきれない客や従業員が飛び降りたり、紐を結び合わせて降りようとして墜落した。開店直後の火災で客は少なかったため、死者14人のうち、1人が客で、残りの13人は従業員だった。死因は、過失で火事を発生させた男性社員1人だけが焼死、それ以外は全員転落死であった。

 火災規模の割にしては死者が少ないのは、開店直後で客が少なかったこともあるが、もう一つは建物の内装などの材質によることも大きい。近年のビル火災での死亡者は、化学性の猛毒ガスにまかれての窒息死が大半を占める。当時は木や布など天然炭素系の素材が多く、完全燃焼すると無毒の二酸化炭素で、不完全燃焼で一酸化炭素だけが毒ガスとなる。火災発生のおもちゃ売り場のセルロイド製品も、基本的には木材由来の物質である。

 白木屋火災と言えば、連動して「白木屋ズロース伝説」なるものが人口に膾炙している。当時の女性店員は和服を着て下履(ズロース)を履いていなかったため、裾の乱れを気にして転落死した、というものである。そして白木屋の火事が女性のズロース着用を促進したという、もっともらしい都市伝説となっている。

 センセーショナルな当時の新聞記事見出しに「女性に警鐘/生死を分けた下ばきの有無」といったものが見られたり、白木屋専務の談話として、裾の乱れを気にして転落したものが何人か居り、以後女店員には下履きを履かせるようにしている、といった情報が通説の根拠となったのだと思われる。

 しかし実際に転落したのは2階程度の低層からであり、死亡した者はいない。転落死した女性は8人で、全員が高層からであって、裾を気にしたことも確認されていない。さらに、ズロースが普及し出したのは10年ほど後になってからで、これは戦争が深まるにつれて男子と同様の職に就く女子が増え、それとともに洋装ズボン姿が普及し、家庭内でも空襲などに備えてモンペ姿が多くなったのが影響したのではないかと考えられる。


 白木屋は、江戸時代に京都で材木商として始まったが、江戸に出て徐々に呉服店に移行してゆく。江戸末期には、越後屋三越)や大丸屋(大丸)と並ぶ江戸三大呉服店の一つとなっていた。明治になると全面増改築した店舗で、飲食店や遊具を配したり、従来の呉服店の座売りを廃止して陳列式に切り替えたり、土足入場を導入したりと、他に先んじた進取の百貨店店舗展開をとった。

 今のスーパーやコンビニを先取りするような小規模多店舗展開も進め、関西にも進出した。しかし急速な出店の行き詰まりに加えて、関東大震災による日本橋本店の全壊、そしてこの大火災という相次ぐ被災により、経営不振に陥る。戦中戦後も、多くの制限に堪えてかろうじて継続したが、戦後になっても、戦後の経済混乱で従来の百貨店業への復興はままならなかった。

 その白木屋の暖簾に目をつけて買収に乗り出したのが、後のホテルニュージャパン火災で批判を浴びた、あの乗っ取り屋横井英樹だった。しかし白木屋側の抵抗で行き詰まり、結局、東急の総帥五島慶太に泣きつき尻拭いをしてもらうことになる。こうして白木屋は東急日本橋店となり、老舗白木屋の名が日本橋から消えた。さらに1999年、その東急百貨店日本橋店も閉店することになり、江戸時代から続いた歴史は完全に閉じられた。
 

*この年
青年に心中への共感「天国に結ぶ恋」大ヒット/ラジオの人気番組上位は浪花節・講談・落語
【事物】鉄道弘済会売店/女性円タク運転手/ダイヤル式公衆電話機/国産農業用トラクター
【流行語】話せばわかる・問答無用/王道楽土/挙国一致/欠食児童/時局
【歌】銀座の柳(四家文子)/天国に結ぶ恋(四家文子徳山蓀)/涙の渡り鳥(小林千代子)
【映画】生れてはみたけれど(小津安二郎)/三文オペラ(独)/自由を我らに(仏)
【本】旺文社「受験旬報」創刊/大塚文彦「大言海」/谷崎潤一郎「盲目物語」/堀辰雄「聖家族」