『Get Back! 30’s / 1931年(s06)』

『Get Back! 30's / 1931年(s06)』
 
○1.- 田河水泡の漫画「のらくろ二等卒」の「少年倶楽部」への連載が開始される。人気を博し、以後連載は10年9カ月続く。


 講談社少年倶楽部』にて1931年から連載が始まる。当時の少年雑誌は「読物(少年小説)」が主流だったが、人気小説を連載中の人気作家佐藤紅緑のアドバイスなどから漫画を掲載するようになったという。それまで漫画は「ポンチ絵」と呼ばれて、時事的な問題の風刺画が主であった。時期的には、現在のようなコマ割りや吹き出しという形式は登場し始めたころだった。


 文筆家志望で落語作家などを手掛けていた田河水泡は、自らの軍隊経験、たまたま飼い出した犬などから、物語性のある「のらくろ」の連載につながった。戦前の漫画としては稀有な長期連載となり、太平洋戦争の始まる直前に編集長判断で打ち切りになった。内務省筋から、時節柄、漫画というふざけたものの掲載を許さないという通知があったからだという。

 当初は、志願兵でドジばかりしながら、後半は少し手柄を挙げて2年満期で除隊という構想だったが、人気沸騰のため継続連載となる。最初は四足で歩く犬として描かれたが、昇進するにつれて擬人化され見慣れた「のらくろ」となってゆく。階級も、二等卒(二等兵)だったが徐々に階級を上げ、最終的に大尉まで昇進する。予定では、少佐に昇進させるつもりだったが、軍からさすがに佐官はだめだと苦情があり、やむを得ず大尉で除隊させたとされている。


 田河水泡は戦後も長く活躍し、平成元年90歳で没した。そのため単行本、全集版、様々な職業の外伝、戦後新シリーズなど多岐ににわたり、その姿の変遷や軍隊の位も変更されているものが多い。1930年代の子供雑誌には、『のらくろ』や『冒険ダン吉』『タンクタンクロー』などの人気漫画が連載され評判を呼んだ。

 一方でこの時期、「絵物語」というジャンルが成立した。これは紙芝居から発展したもので、戦後の劇画などにもつながる。大分割された紙面で、絵と文字の説明部分が同じスペースを占めたものが基本で、文字部分が多く物語表現に適し、絵も漫画よりリアルな表現であった。軍部の検閲を意識して、軟弱とみられた漫画から絵物語に形式を変えたものもみられた。

 紙芝居の大ヒット作『黄金バット』や『少年ケニヤ』が絵物語として連載され、『冒険ダン吉』『タンクタンクロー』なども当初絵物語が、のちにコマ割りされ漫画となったものも多い。私自身、昭和30年前後の少年雑誌にはまった世代だが、『少年ケニヤ』は絵物語、『冒険ダン吉』や『タンクタンクロー』は漫画化されたものを読んだ記憶がある。
 

○2.11 [東京] 米映画『モロッコ』(スタンバーグ監督)が初の日本語字幕入りで封切られる。


 『モロッコ』(Morocco)は、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の米映画で、当時まだ少ないトーキー映画として制作された。日本では、初めて日本語字幕が付されたトーキー作品としても知られている。英語の台詞を日本語に翻訳し、スーパーインポーズでプリントに焼き付ける方式を採用した。
『モロッコ』>https://www.youtube.com/watch?v=JWUdHJwiEHY

 当時の日本ではサイレント映画が中心で、楽隊と活動弁士が音声を担当していたが、日本語トーキー映画だとそれらが不要になる。外国語のトーキーではそうも行かず、弁士がセリフを追いかけて解説したり、音を消してサイレント映画と同様に弁士が対応したり、吹き替え版を作成したりと様々な試行があった。しかしそれぞれ一長一短があり、日本語字幕方式が登場すると、以後これが外国映画の日本上映スタイルとして定着する。

 外国では吹き替えが主流だと聞く。たしかに英語などアルファベット字幕の場合、かなり冗長になって意味も追いかけがたくなるのではと想像される。漢字仮名混じり文の日本語だと、漢字部分をたどるだけでほぼ意味が取れるという特性があり、さらに日本人の識字率の高さも字幕方式が定着した理由なのではないか。

 戦後テレビが普及してアメリカ製テレビ映画が大量に放映されるようになると、視聴者の大衆化や音声技術の進化などもあり、テレビ放映では日本語吹き替えが採用された。近所のお婆さんがテレビ西部劇を観ながら、「最近の外人さんは日本語がうまいねえ」などとつぶやいた場面が思い出される(笑)


 マレーネ・ディートリッヒパラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡っての映画初出演であり、売り出し中のゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』は、米本国だけでなく、欧州・日本でも大ヒットした。ヒトラーマレーネがお気に入りでドイツに戻るように要請したが、マレーネはそれを断って米市民権を取得したため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。第二次世界大戦中にはヨーロッパ前線の米兵士を慰問、戦地で兵士が口ずさむ「リリー・マルレーン」などを歌った。

 『モロッコ』で舞台とされた北アフリカの植民地のエキゾシズム、外人部隊などの特殊部隊、米人とフランスなどの欧州女性との恋などのモチーフは、その後『外人部隊(1933仏・1954リメイク)』や『カサブランカ(1942米)』などで何度も登場した。「カサブランカ」はハンフリー・ボガートイングリッド・バーグマンの競演で、今でも不滅の人気を誇るロマンス・フィルムとなっている。また、字幕版では「君の瞳に乾杯!="Here's looking at you,kid."」という名(迷?)訳も生まれた。
 

○9.18 [中国] 奉天の郊外、柳条湖で、関東軍の陰謀により満鉄の線路が爆破される。(満州事変)


 1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道が爆破された。日本の関東軍は張学良軍の犯行であると断定、鉄道防衛の目的と称し軍事行動を拡大した。真相は戦争中は伏せられたが、戦後になって関東軍の謀略であることが明らかになっている。蒋介石国民党軍は、抗日よりも共産党との内戦に主力を割いていたため、関東軍はわずか5か月の間に満州全域を占領した。


 満州事変は、政府や軍中央の承諾なく、関東軍中枢の一部軍人によって計画された謀略であった。 関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作であると発表し、これを口実に直ちに軍事行動に移った。これらの一連の計画は、関東軍参謀の石原莞爾板垣征四郎らが推進したものであることが、戦後のGHQの調査などから明らかにされている。

 帝国陸軍の異端児と呼ばれた石原莞爾は、後年に『世界最終戦論』で展開されたような独自の軍事思想と世界観を持っていた。「世界最終戦」とは、高度に発展した大量破壊兵器により、一気の殲滅戦が引き起こされ短期に決着がつき、世界は統一され戦争は消滅するというものであった。そしてその最終戦を戦うのは、ヨーロッパを凌駕したアメリカと、日本の天皇を盟主とする東亜連盟とされた。


 満蒙は日本の生命線であるという陸軍伝統の発想に加え、石原は満州を核として、大東亜連盟の盟主として、来るべき最終戦に備えるという構想をもっていた。中国本土まで支配する発想はなく、やがて突き進んだ泥沼の中国侵略戦争には大反対した。かつて孫文辛亥革命の一方を聞いて歓喜したように、中国本土には孫文の「中華民国」のような連盟できる安定政権を望んでいたが、事実上は軍閥割拠、共産軍も入り混じる内戦状態となっていた。

 日本政府は不拡大方針を発表し、「満州事変」と称して侵略戦争ではないとしたが、関東軍は軍中央や政府の方針を無視して戦線を拡大し、軍首脳もこれを追認するなどで、若槻内閣はもはや関東軍を統制できないところに追い込まれ総辞職、犬養毅内閣に代わった。これ以降、関東軍満州問題について専行して国策を進め、やがて満州国傀儡政権を成立させることになる。この満州事変は、1937年には全面的な日中戦争に突入し、太平洋戦争終結まで続く「十五年戦争」の始まりとなった。

 満州国成立以降、石原は中国戦線の不拡大方針を主張し続けたが軍強硬派を抑えられず、太平洋戦争に突入する年には東条英機と対立し、現役を退任させられることになる。大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦に反対し、戦争末期には東条暗殺計画や早期終戦工作に関わった。これらの東條との対立が有利に働いたのか、石原莞爾極東国際軍事裁判において戦犯指名から免れた。戦後は病にふせることが続き、1949年8月15日死去する。
 

○12.31 [東京] 新宿にムーランルージュが開場。12月16日に開場した浅草オペラ館とともに、コメディを売り物にする。


 この年の暮に、「ムーランルージュ新宿座」が開館した。本家パリのモンマルトルにある「ムーランルージュ」から名前をとった「赤い風車」という意味で、本家同様、建物の上に大きな赤い風車があった。浅草では「浅草オペラ」が隆盛していたが大震災で壊滅、震災後復興した浅草ではレヴューや軽演劇が中心となり、榎本健一らの「カジノ・フォーリー」や古川緑波らの「笑の王国」が花開いていた。その浅草オペラでテナー歌手として活躍した佐々木千里が、浅草オペラを継承する形でムーランルージュ新宿座を開いた。

#映画『ムーランルージュの青春』>https://www.youtube.com/watch?v=3uh52M8OAwg

 当時の新宿の街は、震災で大きな打撃を受けた浅草に代って、山の手を代表する歓楽街になりつつあった。当初は浅草軽演劇の焼き直しでしかなかったムーランルージュも、昭和モダンの流れを取り入れた軽演劇・レビュー・コメディで独自のタレントを輩出し、独自のカラーの演劇を確立して、1933年あたりから全盛期をむかえる。ムーランは、早稲田大学の学生や近辺に住む文化人にも親しまれ、新宿の芸能文化に触れる上で欠かせない存在となった。


 ムーランルージュ新宿座は、戦争末期には敵性語として改名させられ、さらに空襲で劇場が消失、戦後再建が試みられるも、焼け跡での軽演劇の復興はむつかしく、1951年に閉館となる。だがここで育った人材は、戦後の映画・放送界に流れ、草創期のテレビ界では、コメディドラマやバラエティショーを築いたタレントを多く輩出している。以下、かつてムーランに所属した俳優・歌手で、私自身がテレビや映画で観たタレントをランダムに挙げてみる。

 左卜全有島一郎宮城けんじ由利徹益田喜頓・春日八郎・水谷八重子(初代)・若水ヤエ子三木のり平藤原釜足楠トシエ森繁久彌谷幹一
 

*この年
労働争議件数998件で戦前最高を記録/産業界の操業短縮相次ぐ/映画トーキー化のために失業した楽士たちがチンドン屋に転業/学生の左傾思想事件がピーク
【事物】賃貸デスク/コンテナ輸送/ブラスバンド応援/チェーンストア
【流行語】いやじゃありませんか/テクシー/生命線
【歌】侍ニッポン(徳山蓀藤本二三吉)/丘を越えて藤山一郎
【映画】瞼の母稲垣浩)/東京の合唱(小津安二郎)/巴里の屋根の下(仏)
【本】金田一京助アイヌ叙事詩ユーカラの研究」/野村胡堂銭形平次捕物控」(オール読物)/平凡社「大百科事典」全28巻