『Get Back! 50’s / 1958年(s33)』

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『Get Back! 50's / 1958年(s33)』
(9-10歳)小学校4年生になった。長袖を着ているから秋かも知れない。家の前で撮った写真で、戸口は狭い引き戸、開け閉めするとガタピシした。もたれ掛っているいるのは木組みの垣根、戦前には鉄の垣だったが戦時中に供出させられ、戦後は竹の垣から、さらに木組みになったと聞いた。前面の壁面には出窓格子があった。昭和の初めに建てて越してきたというから、この時点で半世紀以上経っている。典型的な織屋建京町家で、庭の奥に別棟の機場があった。
 

○2.8 [東京] 日劇ウェスタンカーニバルが開かれ、ロカビリー旋風が吹き荒れる。

 この日、有楽町の日本劇場で「第1回日劇エスタンカーニバル」が開催された。ロカビリーは若者の間で爆発し、初日だけで9500人、1週間で4万5000人を動員した。ロカビリー三人男と呼ばれた山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチスらが舞台に登場すると、興奮したハイティーンのファンたちにもみくちゃにされて、第1回日劇エスタン・カーニバルは大成功となった。その後も三か月ごとにウェスタンカーニバルは開催され、小坂一也、坂本九飯田久彦井上ひろし 水原弘 かまやつひろし弘田三枝子、尾藤イサオジェリー藤尾ダニー飯田パラダイスキングらの人気歌手がこの舞台から育っていった。

 実は当方、ロックンロール、ロカビリー、リズム&ブルース、カントリー&ウェスタン、ジャズに至るまで、ほとんど区別がつかないのだが、これらの顔ぶれを見る限りさほどこだわる必要もないように思われる。実際この時期の日本では、駐留軍がもたらしたジャズのほか、これらは未分化のまま取り込まれて、おおむねロカビリーと総称されていたと考えてよい。

 日劇エスタンカーニバルの企画に参画したのは、「渡辺プロ」の創業者渡辺晋渡辺美佐夫妻、「ホリプロ」の創業者堀威夫、後に「マナセプロ」を継承する渡辺美佐実妹曲直瀬[まなせ]信子など、のちの音楽シーンをリードしてゆくそうそうたる人物が関わっていた。渡辺プロは、従来の手配師的な芸能プロを、タレントを育成しプロデュースする近代的な芸能プロを目指し、テレビの歌謡番組の草創期には、ザ・ピーナッツクレージーキャッツほか多くの多彩なタレントを擁し、多くの歌謡バラエティの番組を、ほとんどナベプロのタレントで占めるという時期を築いた。

 日劇エスタンカーニバルは、1977年第57回まで開催された。50年代のロカビリーブームに続き、60年代後半から70年代にかけてはグループサウンズ全盛期で、この時期観客動員的には最盛期となった。やがてGS退潮とともにアイドルショー的な展開となり、日劇老朽化に伴う複合ビル計画とともに終焉を迎えた。
https://www.youtube.com/watch?v=rBfgwjN7-xE
 

○3.9 [山口・福岡] 世界初の海底道路、関門国道トンネルが開通する。(全長3461m)

 関門海峡を通るトンネルや橋は、現在4本ある。戦前に着工され1942年に開通した鉄道用の海底トンネル「関門トンネル」。これは在来線用として現在も活躍している。次に1958年、この国道2号用トンネルとして「関門国道トンネル」が開通した。さらに1973年、「関門橋」(正式名称「関門自動車道」)が、中国自動車道九州自動車道をつなぐ高速自動車道として開通した。そして1975年、新幹線専用「新関門トンネル」が完成開通した。国道トンネルは人が歩いて通れるため、この4つのルートによって、関門海峡は陸続きに近い通行環境となっている。

 関門海峡は最も幅が狭まる場所で600mと、一望すれば大きな河川かと見えるぐらい近接している。海上交通では、産業が集積する瀬戸内海地域から、中国や韓国とつながる東シナ海を結ぶ重要な航路であり、急激な海流と航路の複雑さに加えて船舶通航量の多さから、海上交通の難路でもある。

 他方、陸上交通からすれば、本州の西端と九州の北端を陸上交通で結ぶのは悲願だった。日本の四島間で、戦前、最初に関門鉄道トンネルで結ばれたことからもその重要さが分かる。関門国道トンネルも、実は鉄道トンネルの翌年に着工され終戦直前には貫通していた。しかし戦局のひっ迫から中断され、戦後復興政策の中で工事再開、この年3月やっと開通にこぎつけたのであった。

 個人的な記憶では、この時期小中学生の間で切手の収集が流行り出していた。ちょうど関門トンネル開通記念切手も発行されており、切手額面の十数倍で取引されていたのを憶えている。ブームになる直前の発売で、発売枚数が少なかったため、希少価値があって高額になっていた。
 

○2.3 [東京] 若乃花幹士横綱に昇進する。(栃若時代の始まり)
○7.6 [愛知] 大相撲が6場所制となり、初の名古屋場所が開かれる。

 この年の初場所後、初代若乃花若乃花幹士)が、第45代横綱に昇進した。身長179cm・体重107kgの戦後最軽量横綱で、土俵の鬼と呼ばれる猛稽古でその地位を築いた。先輩横綱で、こちらも小兵で技巧派の栃錦と並び立ち、「栃若時代」と呼ばれた。世間にはテレビが普及し始め、栃若を擁した大相撲は戦後第一次のブームを迎えていた。

 ちょうどこの年、長嶋茂雄読売巨人軍に入団して弾けたプロ野球ブームとともに、子供たちの二大人気スポーツは大相撲とプロ野球だった。学校の昼休みには運動場に円を描いて相撲をとり、放課後や休日には日暮れまで野球(といってもソフトボールで三角ベース)に明け暮れるという毎日であった。

 戦後の大相撲は、一、五、九月の東京場所に、三月の大阪場所が加わり、春夏秋冬四場所制となっていたが、1957年十二月に九州場所本場所に昇格、そしてこの年、七月の名古屋場所が加わって、現行の年六場所制が確立された。名古屋場所は愛知県の金山体育館で実施されたが、夏場の真っ盛りにもかかわらず空調設備が無く、扇風機に氷柱、霧の散布に加えて花道にしつらえた酸素ボンベから酸素を放出などあらゆる対策が取られた。それでも今なら熱中症が大量発生しそうな状況だった。
 

○12.23 [東京] 港区芝公園内に東京タワーが完成する。

 東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔であり、1958年当時、自立式鉄塔として333mの世界一高い塔として完成した。2012年東京スカイツリーの完成後も、現在日本で二番目の塔である。総合電波塔として建設されたが、この時期に一気に普及したテレビ放送の電波発信塔としての役割が重要であった。その機能は2012年のスカイツリーの完成とともに、地デジ移行と並行して、その役割を委譲した。

 スカイツリー完成までの半世紀以上の間、日本一の塔として、富士山と共に日本のシンボル的存在であるとともに、高度成長を続け躍進する日本の精神的支柱の機能も果たしたと考えられる。修学旅行などで東京へ行くというと、東京のイメージとしては真っ先に東京タワーをイメージした。もちろん旅行土産にもタワーのミニ・レプリカやペナントが必ず含まれていたものである。

 意外に知られていないが、タワーの建設は、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時は産業経済新聞社などの社主であった前田久吉により進められた。現在でも東京タワーの管理ならびに運営は、独立した日本電波塔株式会社によって行われている。スカイツリーに主要電波塔としての機能を委譲したとはいえ、ラジオや緊急電波など、補完的な電波塔として役割を分担するとともに、いまでも二つの展望台からの眺望は、メガロポリス東京を鳥瞰する最適な場所の一つである。

 初代ゴジラの時は、まだ東京タワーはできていなかったので、ゴジラアンギラス大阪城で対決した。巨大都市を象徴する建造物を破壊するのは、怪獣映画の最大の醍醐味であり、東京タワー完成後の1961年に制作された「モスラ」では、さっそくモスラはその幼虫が東京タワーに繭をつむぎ、羽化するときにタワーをへし折るというシーンを見せてくれる。さらに翌年、アメリカからの助っ人キングコングを招聘しての「キングコング対ゴジラ」では、キングコングが美女を抱えて東京タワーに上るという、懐かしのシーンを再現してくれた。
 

*この年
映画館入場者数が11億人を突破/中性洗剤がさかんに使われ始める/8ミリ映写機に人気が集まる/フラフープ流行
【事物】1万円札/貸しオムツ/酒自動販売機/西洋野菜
【流行語】いかす/団地族/ハイティーン/ご清潔でご誠実/いやーな感じ
【歌】おーい中村君(若原一郎)/からたち日記(島倉千代子)/母さんの歌
【映画】楢山節考木下恵介)/炎上(市川崑)/死刑台のエレベーター(仏)/鉄道員(伊)
【本】「週刊明星」「週刊女性自身」が創刊/山本周五郎樅の木は残った」/坂本藤良「経営学入門」