『Get Back! 50’s / 1955年(s30)』

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『Get Back! 50's / 1955年(s30)』
(6-7歳)4月小学校入学。道を挟んで50mほどの地域に、5人も同時入学する生徒がいた時代だ。写真では1名入院中で写っていない。制服とかは無かったが、男子は入学時だけ制服制帽らしきものを着せられているし、入学後一か月ほどはこの服装でランドセルをしょって通学した。
 
○4.18 [インドネシア] アジア・アフリカ会議バンドン会議)が開かれる。24日、平和10原則を採択する。(〜4.24)

 1855年4月、インドネシアのジャワ島バンドンで第1回アジア・アフリカ会議(AA会議・バンドン会議)が開催された。議長国インドネシアスカルノ大統領は、この会議を「世界人口の約半数を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と意義付け、第三世界の存在を世界に誇示する会議とした。4月18日から24日まで開催され29ヵ国が参加、日本もオブザーバーとして参加した。

 先立つ1954年印中首脳会談でネルー周恩来が平和五原則を発表、さらに同年4月28日から南アジアの5ヵ国により、スリランカ(当時セイロン)コロンボコロンボ会議が開催され、アジア・アフリカ会議を開催する構想が生まれた。AA会議は、これらの首脳を中心に、インドのネルー首相、インドネシア大統領スカルノ中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ナセルなど、新興国の当時の卓越した指導者たちのリードで実現したが、その後の中印の対立などから第2回以降は実現しなかった。

 バンドン会議では、反帝国主義、反植民主義、民族自決の精神が強調された。これは第二次大戦後のアジア・アフリカ諸国の民族自立の希望をうたい上げたものである。次にバンドン会議は、戦後の米ソ2極による冷戦構造下で、いずれにも与しない「第三世界」の存在を世界にアピールし、米ソの対立を緩和する立場(バランシング・ブロック)を作る契機を提供した。

 会議は「世界平和と協力の推進に関する宣言(バンドン十原則)」を採択して終了したが、参加諸国の経済的政治的安定はバラバラで、会議を主導したリーダーの死去や失脚もあい次ぎ、その理念の実現は遠いものとなった。結局第2回の会議は開かれず、その理念の一部が第1回「非同盟諸国首脳会議」に引き継がれる流れとなった。その後、バンドン会議50周年記念会議が開催され、定例化が決定され理念は継承されることになっている。
 

○7.- 石原慎太郎が、戦後の新しい若者像を描いた『太陽の季節』を「文学界」に発表する。

 文芸雑誌『文學界』7月号に掲載された石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』は、裕福な家庭に育った若者たちの無軌道な生活を通して、既成の価値や倫理にに反逆する若き戦後世代の虚無感と葛藤を描いて脚光を浴びる。文學界新人賞を受賞するとともに、翌年の芥川賞をも受賞して、一橋大学在学中の石原慎太郎出世作となった。

 文學界新人賞芥川賞の選考過程では、選者たちの評価は真っ二つに割れた。若々しい情熱をみなぎらせる新しい若者像が評価される一方で、粗雑な表現と身勝手な若者の反倫理性が批判された。しかしそのセンセーショナルな内容や、二十歳すぎの若い学生作家であったことなどが話題を呼び、世間でも大きな反響を引き起こすとともに賛否が論議を呼んだ。

 当時の芥川賞は、さほど社会的話題にはならず、受賞式も出版業界関係者らによるささやかなものであったという。前々年・前年の受賞者吉行淳之介遠藤周作らは、その扱いの小ささにいささか拍子抜けの感想を述べている。昨今のような社会的な現象になったのは、翌1956年石原慎太郎太陽の季節」の受賞からであった。

 湘南海岸に集う金持ちの息子・娘たちの不良仲間が繰り広げる乱痴気騒ぎの模様は、弟の石原裕次郎が慎太郎に話して聞かせた話が素材になったという。マスコミにも大きく取り上げられ、「太陽族」「慎太郎刈り」などの流行語も生まれ、まもなく映画化されることになった。日活作品として長門裕之南田洋子という、のちにオシドリ夫婦と呼ばれるカップルが主演したが、石原裕次郎のデビュー作でもあり、慎太郎自身ゲスト出演している。

 実は慎太郎主演の映画が三本あり、写真は司葉子との一シーンである。本気で映画スターをも目指したようだが、さすがに弟裕次郎の様にはいかず、大根との評とともに打ち止めとなった。その後、政治家に転身して活動の場を得たのは周知の通り。「太陽の季節」の"迷"場面、障子をペニスで突き破るシーンそのままに、自身を貫き通した人生とは言えるかも知れぬ(笑)
 

○8.- [岡山] 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。

 1955年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。

 当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。

 かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。

 さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動にねを上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。
 

○11.13 [東京] 社会党統一大会が開かれ、左派と右派に分裂していた4年間に終止符を打つ。(衆議院156、参議院118)(社会党再統一)
○11.15 [東京] 自由民主党自民党)が結成され、衆議院298、参議院115の単一保守党が成立する。(保守合同

 サンフランシスコ講和条約をめぐって左右両派に分裂していた社会党が、優勢となった左派に右派が合流する形で4年ぶりに再統一された。一方保守系は、戦後のGHQによる公職追放などで弱体化していたが、社会党の再統一に危機を感じ、日本自由党日本民主党の2つの保守政党が合同して自由民主党が結成された。この「保守合同」と「社会党再統一」により、いわゆる「55年体制」が確立された。

 まがりなりにも二大政党制が出現したとされるが、英米のように二大政党が交代で政権を担当するのではなく、日本においては、常に与党第1党は自由民主党が占め政権を維持し、野党第1党を日本社会党が占めるという変則体制であった。国会の議席数では自由民主党日本社会党の勢力比はおおむね2:1であったため、「一と二分の一政党制」などと呼ばれた。

 ひたすら「護憲と反安保」を掲げ続けた日本社会党は、戦後一定の期間が過ぎ新憲法が定着してくるとともに、日米安全保障条約で国防は米にゆだね、経済政策に重点に置いた政策で安定した高度成長が続くと、その支持基盤を失い長期低落傾向に陥った。1975年ごろに民社党公明党日本共産党らの野党が分立伸長すると、社会党はもはや一党で自民に対抗しうる野党ではなくなり、「75体制」などと呼ばれた。

 55年体制下で長期政権を維持し続けた自民党は、その内部に「派閥」と呼ばれる対抗グループを持ち、各派閥が切磋琢磨し随時交代で政権主流派になるなど、疑似的な政権交代をすることで、長期的に政治活力を確保したと言われる。しかしさしもの自民党も、ロッキード事件などを契機に、長期政権下での汚職や政治不信などが重なり、保守サイドからの新党分立などで弱体化し、1993年には日本新党を中心とする細川連立内閣が成立するとともに下野することになる。

 国内だけをみれば、自民党による一党長期政権というだけのことだが、実際は米ソ冷戦対立世界の中での、それに対応した日本の政治状況であったと言える。実際にソ連が崩壊し米ソ冷戦が終わると、すでに55年体制は意味を持たなくなっていた。古代ローマ史を知り尽くした作家塩野七生は、55年体制ローマ共和国元老院に例えて評価したとされるが、ならば今は「帝政」に向かっているのであろうか(笑)
 

*この年
家庭電化時代到来/「神武景気」始まる/マンボスタイル流行
【事物】トナンジスタラジオ/アルミ貨(1円)/リコピー101型
【流行語】ノイローゼ/兵隊の位になおすと/モノセックス
【歌】この世の花(島倉千代子)/月がとっても青いから(菅原都々子)/ガード下の靴みがき宮城まり子
【映画】野菊の如き君なりき(木下恵介)/夫婦善哉豊田四郎)/暴力教室(米)/エデンの東(米)
【本】「世界大百科辞典」(平凡社)/新村出編「広辞苑」(岩波書店)/遠山茂樹藤原彰今井清一「昭和史」