『Get Back! 80’s / 1984年(s59)』

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『Get Back! 80’s / 1984年(s59)』

#そのころの自分#
 三度目の転勤地となった姫路には、なかなかなじめなかった。仕事にも意慾が起きず、転職することも考え出した。転職に向けて資格でも取ろうと、中小企業診断士の勉強をし出した。所沢でパソコンをマスターしたように、外回り営業職を利用して、昼間自宅に帰って参考書を開き、夕刻になると退社のタイムカードを打ちに行く毎日。この夏に一次試験に合格した。一次資格だけで採用するという経営コンサルティング・ファームが京都にあり、好条件として転社することにした。
 サラリーマン生活も11年を超え、転勤も3度で関東での生活も経験、その間に2年保育予定の長男は、3ヶ所転園することになった。会社員として経験することは、もうこの程度でいいなという気になった。11月に娘が誕生、生れて1ヶ月ほどの娘を車に乗せて、年の末に退社し、新しい住まいの宇治市に移動した。車の震動で気が立ったのか、娘は3日ほど泣き続けていた。3年ごとに生れた3人の子供は、京都・所沢・姫路とそれぞれ誕生地が異なることになった。
 

○3.18 [兵庫] 江崎グリコの江崎勝久社長が誘拐される。21日、自力で脱出する。

○5.10 [大阪] グリコ製品に毒物を混入との脅迫状が報道機関に届き、スーパーなどで同社製品の販売中止が広がる。
○9.25 [大阪] グリコ事件の犯人が、森永製菓脅迫の犯行声明を報道機関に届ける。[グリコ森永事件]
 
 3月18日、西宮市の自宅で入浴中の江崎グリコ社長 江崎勝久(42)が、家に押し入ってきた2人組の男に拉致された。犯人は江崎社長を人質に大金を要求したが、犯人は指定した場所に現れず。やがて3日後、離れた場所の倉庫に監禁されていた江崎社長は自力で脱出した。

 4月に入ると、江崎家やグリコ本社に脅迫状と金銭要求が複数回あり、報道機関や警察署には挑戦状も届く。さらにグリコ本社や関係複数個所に放火や放火の脅迫があった。やがて大手新聞4社宛に、「かい人21面相」を名乗り「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」との挑戦状が届いた。これを受けて、全国のスーパー店頭からグリコ製品が撤去される事態となり、全国的な大騒ぎに発展した。

 6月22日、今度は大阪府高槻市丸大食品に、グリコと同様の事件を起すという脅迫状が届く。数日後に犯人からの指示があり、要求に応じるかのように、大阪府警刑事らが丸大社員になりすまして、犯人の指定した京都行電車に乗る。その行き帰りの車中で、社員を装った刑事らの気配をうかがう「キツネ目の男」が確認されたが、駅で降りると雑踏にまぎれて見失う。

 丸大食品への脅迫は伏せられていたが、この事件と並行して、グリコによる不思議な新聞広告が掲載された。何らかの裏取り引きが為された可能性があり、この広告掲載の直後に報道機関に通知が届き「グリコ狙うのもうやめたる」と休戦宣言、ターゲットを丸大に変更したとされる。

 9月には森永製菓脅迫事件が起こり、青酸ソーダが混入た菓子がスーパー店頭から見つかる。さらに11月ハウス食品脅迫事件が発生、ハウスは要求の金を用意し、社員に扮した刑事らが指定場所に向う。何ヶ所か変更される場所の途中、あの「キツネ目の男」が目撃されるも姿を消した。また現金を落せと指示された高速道路下では、偶然付近をパトロール中のパトカーが不審車を見つけるも急発進で逃げられる。

 その後も年をまたいで、不二家脅迫事件・東京愛知青酸入り菓子ばら撒き事件・駿河屋脅迫事件などが続く。8月になると、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした責を問われた滋賀県警本部長が焼身自殺をするという悲惨な事件もあり、そのすぐ後、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられ、犯人側の動きはなくなった。

 一連の事件は、犯行の目的・動機・犯人像など多くが謎のままに終った。すべて同一グループの犯行であるかも定かではない。脅迫と多額の金銭要求をしているものの、どこまで本気で現金を受け取るつもりだったかも疑問が残る。犯人像も、一枚の「キツネ目の男」の似顔絵だけで、複数犯であるのはたしかだが具体的な像を結ばないし、そのバックにいる組織などもさまざまに想定されている。すべてが「藪の中」を思わせる極めて奇怪な事件であった。
 
○7.28 [アメリカ] ロサンゼルスで第23回オリンピックが開催される。(〜8.12)

 第23回夏季オリンピックは、1984年ロサンゼルスで開催された。近年の五輪開催は開催都市に多額の費用負担を強いるようになっており、この大会の開催に立候補したのはロサンゼルス市のみであった。そのため、ピーター・ユベロスを委員長とする大会委員会は、開催都市の費用負担をゼロにする目標をかかげた。

 そのため、テレビ放映料・スポンサー協賛金・入場料収入・記念グッズの売上を4本柱とする収入計画を立て、最終的に400億円の黒字で終了かつ大成功をおさめる画期的な大会となった。しかし一方で、オリンピックの商業化、競技のプロ化を方向付ける大会となり、ミスター・アマチュアリズムと呼ばれたアベリー・ブランデージの方針を大幅に転換して、フアン・アントニオ・サマランチ会長がこれ以降の華やかな五輪を展開していくことになる。

 前回のモスクワ大会は、ソ連のアフガン侵攻に抗議して西側諸国がボイコット、ロス五輪はその仕返しとしてソ連をはじめとする東欧諸国が不参加となり、競技的にはさびしい大会となった。開会式は、軽飛行機や飛行船による空の演出とともに、ジェット推進ロケットベルトを使って飛行する「ロケットマン」の登場が観衆の度肝を抜き、多数のピアノを使用したガーシュウィンラプソディ・イン・ブルーが会場をおおった。


 競技の主役は何といっても陸上競技カール・ルイスであろう。彼は、100m・200m・走幅跳・男子4×100メートルリレーの4種目にエントリーし、全種目で金メダルを獲得した。これは1936年のジェシー・オーエンスの偉業に並ぶものであった。

 日本選手では、柔道の山下泰裕が記憶に残る。2回戦で軸足右足の肉離れを起し、必死の気迫で決勝まで進む。エジプトのモハメド・ラシュワンとの決勝戦では、積極的に攻めてくる相手に対し山下は冷静に対応し、相手が体勢を崩した隙をとらえ横四方固めで勝利した。
 

○9.4 [関西] 京都市で元西陣警察署巡査部長が警官を襲い、奪った短銃で射殺。3時間後大阪のサラ金に押し入り従業員を射殺、60万円を奪って逃走する。(5日、千葉県で逮捕)

 9月4日の白昼、京都市北区船岡山公園山上付近で、西陣署派出所勤務の巡査が血まみれで死亡、拳銃を奪われるという事件が発生した。更に、事件発生から数時間後、大阪のサラ金を襲い、奪ったピストルで店員を射殺して現金を強奪した。犯人は、西陣書に勤務したことのある元警察官 広田雅晴であると判明。翌日広田は、千葉県の実家に電話をいれたことを探知され、戻ったところをあっさり逮捕された。

 たった二日で事件が解決、被害者は現役警察官と民間人の二人、ある意味単純な強盗殺人事件とみられた。しかし広田は、護送される新幹線内で、手錠で拘束されたまま報道陣にくって掛かるなど、すこぶる凶暴性を発揮した。6年前の西陣所勤務時、派出所勤務の移動通知を屈辱的な左遷と受け取り、これ以降、署を逆恨みするようになる。そして署内から同僚の拳銃を盗み郵便局強盗をやるも失敗、署を困らせるのが一番の動機だったと供述している。そして、7年の実刑判決を経て、6年後に刑務所を仮出所すると即刻署への「復讐」を実行したのであった。

 最初の警察官殺人は船岡山公園の頂上付近で実行された。船岡山西陣署の管轄内にあり、かつての勤務時に知りつくした場所だった。標高100m程度の小山であり、山内には信長公を祀った建勲神社も創設され、市民の公園として整備されている。しかし、ひと気少なく木々が生い茂り昼間でも薄暗い場所もあり、事件が起ってもおかしくないとも思われる。

 船岡山は、いにしえ平安京朱雀大路を北に延長した中心線上にあり、平安京の四方を守る四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)の「玄武」に擬せられる。『枕草子』では「岡は船岡」と挙げられ、『徒然草』でも鳥部野と並べて葬送の地として言及されている。「応仁の乱」では西軍の陣地で「西陣」の発祥となるが、激しい戦闘の地ともなった。のちには刑場でもあり、森鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』でその切腹の状況を描いている。

 子供の時期から高校生時代まで、そんな曰くの地などとは露も知らず、ひたすら遊び場として駆け回った場所である。事件の当時は、仕事で転任して姫路に住んでいたが、のちに事件を知ってこの地を歩いた時には、さすがに背筋に寒いものを感じることもあった。
 
○10.31 [インド] インデラ・ガンジー首相(66)が暗殺される。

 10月31、インド首相インデラ・ガンジーは、首相官邸での執務に向かう途中、2人のシーク教徒の警護警官により射殺された。シーク教分離主義者への弾圧に対する報復であると言われている。シーク教は我が国ではあまり知られないが、キリスト教イスラム教・ヒンドゥー教・仏教に次いで、信徒数は世界第5位とされる。宗教・言語・民族・文化さらにカーストという、複雑に入り組んだインドの内部事情がひき起こした事件といえる。

 インデラ・ガンジーは、インド独立運動の指導者でインド初代首相となったジャワハルラール・ネルーの実の娘であった。なお独立の父マハトマ・ガンジーとは血縁関係はなく、夫がインデラとの婚姻の都合で、ガンジー家の養子となったため同姓となったという。暗殺の後、インデラの長男のラジーヴ・ガンディーが後任に就いたが、彼も1991年に暗殺され、「ガンジー家の悲劇」とも呼ばれる(マハトマ・ガンジーも暗殺されている)。それとともに、ネルー・インデラ・ラジーヴと三代続いた政権を、「王朝支配」という批判があったことも知っておくべきである。

 インデラ・ガンジーは父ネルーの政策を継承、米ソ対立から距離をおく「非同盟・中立」「第三世界」重視政策をめざすが、宿命のライバル隣国のパキスタンとの関係悪化で、パキスタン支援の米と距離をおくようになり、ソ連側に近付いて社会主義的計画経済政策を進めた。さらに東パキスタン独立運動に武力介入、「第三次印パ戦争」をひき起こした。結果、東パキスタンは「バングラデシュ」として独立した。

 父ネルーは戦後日本との関係も良好に保ち、象が見たいという日本の子供たちの希望にこたえて、1947年、上野動物園に一頭のインド象を贈った。当時上野動物園では、戦時中に『かわいそうなぞう』で描かれた象の花子の結末のように、象は一頭もいなくなっていた。この象は、ネルーの娘と同じ「インデラ」と名付けられた。なお娘インデラ・ガンジーは、1957年、父ネール首相の訪日に随行し、上野動物園で直接、象のインディラと対面している(写真)。 
 

○11.30 [首都圏・近畿圏] キャプテンシステムが実用化となる。

 この頃、繁華街の街角に写真のようなATMを思わせる機器が見られるようになった。すでに個人的にはパソコンをいじっていたが、それと結びつくことはなく、むしろテレビとファックスが複合したようなものかと思っていた。キャプテンシステムは、当時の電電公社(現在NTT)が、一連のニューメディアサービスのひとつとして大都市圏を中心に開始したサービスの一つであった。

 一般的にはビデオテックス(画像と文字情報の複合)と呼ばれ、ビデオモニターとキーボードから専用電話回線を使ってセンターに接続し、双方向の対話式でチケット予約やオンラインショッピング、天気予報などの各種情報提供サービスを受けることができる。ニューメディアを象徴する通信テクノロジーとして、鳴り物入りで登場した。とは言え、出先で天気予報みたりチケット予約したりって、何の意味あるの?という認識で、一向に普及しなかった。これらは今のように、スマホで家で寝転びながらできたり、出先でその場面でタイムリーな情報が得られるからこそ意味があるものであるはずだ。

 当時はパソコンは高価で通信技術も未発達であったので、キャプテンシステムは公共端末設置方式をとったが、これでは普及するはずもない。当時唯一の双方向通信回線、つまり電話回線をもつ親方日の丸 電電公社がシステムすべてを統括したのも最悪の選択だった。まもなくパソコン價格は急激に低価格化、通信技術も格段に発達した。そして「パソコン通信」なるものが登場した。さらにWindows95が発売され、インターネットの接続も解放され、GUIブラウザが開発されると、それまでの蛸壺型パソ通から、世界につながったインターネットが標準的なグローバル・ネットワークとして展開された。

 キャプテンシステムも、発展的に解消したと言えば聞こえがよいが、やはりシステム自体は無残な失敗であった。そこには時代の流れの不運もあるだろうが、やはり、「日の丸プロジェクト」という基本的な失敗因を忘れてはならない。以下、そのようなプロジェクトを羅列しておく。

トロン(世界標準OS)、シグマ計画(ソフトウェア開発の生産性向上ネットワークを目ざすも、参加したのはハードウェア・メーカーばかり)、ハイビジョン[アナログ](技術的には高水準なるも、米提唱のデジタル方式に乗っ取られる)、エルピーダメモリ(国内メモリ産業を統合するも、負組み連合でしかなかった)
 
*この年
働く主婦が全体の50.3%で専業主婦の数を超える/国民の9割が「中流」意識/エリマキトカゲが人気
【事物】しつけ箸/チケットぴあ
【流行語】イッキ、イッキ/○金○ビ/ピーターパン症候群/くれない族
【歌】北の蛍(森進一)/ワインレッドの心(安全地帯)
【映画】お葬式(伊丹十三)/麻雀放浪記和田誠)/Wの悲劇(沢井信一郎)/ライトスタッフ(米)
【本】「FRIDAY」創刊/「日本大百科全書」(小学館)・「大百科事典」(平凡社)同時刊行開始