マインドフルネスについての応答10

2014/11/15「日常に新鮮さを取り戻す、意識的に気づいている状態とは?」
http://kosodatekyua.com/2014/11/nichijounisinnsensawotorimodosu-ishikitekinikiduiteirujoutaitoha/

>>Sasaki,Nobuo
November 17, 2014
 読んでいて、これは俳句的な「気付き」の手法だなと思っていたら、やはり後段で触れられてましたね。

 私が思い出したのは、フーローベルとそれに師事したモーパッサンの逸話でした。これといって具体的に教わるわけでもなく、毎日フローベール宅にまで同じ石畳の道をテクテク通って、そこで茶飲み話などして帰るだけ。唯一フローベールが指示したのは、毎日毎日、通ってくる石畳の道の様子を書けということだけだった。

 同じ道を同じ時間に通って、毎日変わったことなど書けるわけがない。それでも石畳にあたる日の光の微妙な変化の様子や、めずらしい形の小石を見つけたり、石畳に具体的な動物に似た形を見出したりと、その気になれば、毎回新しい発見があったということです。

 思いだしてみれば、子供時代の時間に比べて、大人になってからの時間は年々速く過ぎ去っていきます。パターン化した日常のなかで、なんら経験・発見をしなくなってるからでしょう。子供時代には、それこそモーパッサンの石畳のように、毎日、毎瞬間ごとに新たな発見の連続だったはずです。記憶の内的な時間は、時計で測るようなものではなくて、そういう経験の瞬間の連続によって刻まれるものでしょう。

 俳句も、そのような瞬間の発見、経験を、五・七・五の文字に乗せるような作業ですね。写真で言えば、すばらしい瞬間のスナップショットを撮るようなものでしょうか。そして、その瞬間が全体と繋がっているような時間ですね。実存といい、現象学的還元といい、純粋経験といい、みなそういう難しいものではなく、瞬間の隙間から垣間見る「あるがままの世界」に肌を接するようなことを指しているのだと思っています。
 

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>>長岡真意子
November 19, 2014
佐々木さん、コメントありがとうございます!

昨夜は「マインド・バランスな夕べ」の集まりでは、友人達と「するモード」と「あるモード」の話や実践をしてみたのですが、佐々木さんの前のコメントにあった「海泳の話」になりました。素晴らしく分かり易い喩えだねと。佐々木さんのブログにある若かりし頃の詩が好きだとおっしゃっていた方もいましたよ。「落ちる」ということに特別な思いがあるのだろうかとも。私も佐々木さんの記事だけでなく詩のアップも、楽しみにしている1人です。

この「レーズンにマインドフルに向き合ってみる」エキソサイズ、取っていたクラスでも体験し、マインドフルネス関係の本にもちょこちょこ出てきます。それでも「俳句的」とはこちらでは話に出ず、どこにも書かれてはいないわけですが、まさしくですよね。(笑) 

写実主義」を確立したとされるフローベルとモーパッサンの間にはそんなやり取りがあったんですね。いつも勉強になります。同じ石畳の道を毎日行くにも、「その気になれば、毎回新しい発見があった」と。光の当たり具合も、肌に感じる空気も日々違い、季節も移り変わっていきますものね。

ウォルドルフ(シュタイナー教育)のプレスクールの手伝いをしていた時のことを思い出しました。森の中を毎朝散歩するんですが、先生が「日々風景が移り変わるということを体感させたいんです」とおっしゃっていました。まつぼっくりや小枝を拾ったりと道草しながら湖までたどり着き、同じ道ですが続けていると、色彩も、風も、土の様子も、移り変わっていくのをしみじみと感じるんですね。

身体に感覚を澄ますといったエキソサイズも、えーまた同じこと繰り返すわけーとも思うのですが、実はその都度その都度新しい発見があったりするんですよね。過去の映像や体験を当てはめて目の前のものを見るのではなく、今この瞬間を捉える開かれた感覚や、初心者の心持ち、大切にしていけたらなと思っています。

「子供時代には、それこそモーパッサンの石畳のように、毎日、毎瞬間ごとに新たな発見の連続だったはず」
本当ですね。子供達に囲まれる毎日、彼ら彼女達の姿勢に多くを学んでいると感じています。

「瞬間が全体と繋がっているような時間」
そんな瞬間瞬間に、より直接的に触れていくことができたら、そう思っています。昨夜は、「考え」を通して「知る」だけでなく、より直接的に「身体感覚」を通して「知る」、というエキソサイズを友人達としてみました。普段いかに「考え」を通して物事に接しているか、まずはそこを自覚してみること、そこからだねと。

ありがとうございます。佐々木さん、今週もどうぞ良い日々をお送りください!
 

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>>Sasaki,Nobuo
November 19, 2014
 ほとんど読者のないブログも読んでいただいてるそうで恐縮です。

 「落ちる」とか「沈む」とか「溺れる」とかの、やたら多い青春期でした(笑) とくに自覚的だったわけではないですが、当時読んだ坂口安吾堕落論』の「生きよ堕ちよ」という言葉に感応してたからかもしれません。まわりは中途半端に上昇志向の強い学生たちばかりでしたので、その反発というか一種のデカダンスで、孤独感いっぱいの時期でもあったと思います。

 そしてやはり、鬱体験が尾を引いていた時期でもありますね。地の底まで沈みこんで行くような鬱の独特の心理状態、怖れてもがくほどさらに落ち込むような底無し沼のような感覚。それなら、とことん落ちていく状況を見つめ続けてやろう、といった気持ちが働いていたのかも知れません。小石を井戸に放り込んで、かなりの時間差があってから、ポチョンと水面に当たる音で安心するような感覚だったと思います。
 

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>>長岡真意子
November 20, 2014
随筆もエッセイも詩も、楽しみにさせていただいています。

「落ちる」といったイメージに特別の思いがあるのかしら、と言った友人の言葉、はっとさせられました。青春期に目を通した本、時代背景、またマジョリティーに反するといったような姿勢が表れていたんですね。

鬱体験が写し出されていたということでもあると。果てしなく落ちていく様子、何とか落ちないでおこうともがくほどずるずると下降していく。とことんまで落ち、水面に至る音、水下へと沈む石、水底の静寂さ。そんな様子を言葉で表すことで、また少し空を見上げる気持ちを手にされたのでしょうか。

シェアしてくださってありがとうございます。これから、村から出てきているネイティブアラスカンの「両親」のお見舞いに行ってきます!「父」に会うのは、15年ぶりなんです。佐々木さん、どうぞ今日も良い日をお送りください。