マインドフルネスについての応答08

2014/10/16「シンパシーとエンパシーの違い、寄り添うということ」
http://kosodatekyua.com/2014/10/sympathytoempathy-yorisoutoiukoto/

>>Sasaki,Nobuo
October 16, 2014
 「少なくとも」という言い方、ついついよく使ってしまうなあ(笑)

 思うにこれは、論理で心情を説得しようとするスタイルなんですね。古くからあるロゴスとパトスの位相の掛け違い。鬱体験から、「論理で心情はコントロールできない」ということを痛感したはずなのに、対人関係ではついつい陥ってしまう陥穽です。

 本来的なシンパシーなどはできない。たとえば、他人の痛みを、同じように感じることはできない。そんなことできるのなら、戦争も殺人もあり得ないわけです。そこには深い実存の秘密が横たわってるはずです。

 エンパシーは、その気でありさえすればできる。問題は、自然から湧き出るような思いやり(たぶんそれを「愛」と呼ぶのだと思ふ)がないと、なかなか「その気」になれないで、ついつい批評的に対処してしまうことですね。本質的なシンパシーなどできない、という徹底したリアリズムこそが、エンパシーを可能にするんだと思いました。
 

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>>Sasaki,Nobuo
October 16, 2014
[補足] 「愛」などと表現したけど、別の言葉に置き換えると、「大我」を実装している状態か、深いところで全体とつながっている安心とか、同じようなことですね。
 

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>>長岡真意子
October 18, 2014
佐々木さん、コメントありがとうございます!

こんなにポジティブな面もあるじゃないと、「善意」だったりするんですよね。私も、相手を励まそうと「でもね、あなたにはこれもあれもあるじゃない」なんてこと言ったりすることあるなあと。これが有効なのは、まずは相手が穴から這い出てからのことですね。そしてこの言葉は、相手を穴から這い出させることになりはしない。

鬱体験で、「論理で心情はコントロールできない」と痛感されたんですね。私自身本当にきつかった状態にあった時、変化をもたらすのは、論理的な方法や手順を超えた、「感覚」のせめぎあいなのだと感じました。

対人関係で、「他人の痛みを、同じように感じることはできない」。それでも往々にして、自分は同じように感じてるし「分かっている」と思ってしまうところに、確かに行き詰まりがあるのかもしれません。

「同じように感じる」でなく、エンパシーは「共に感じる(feeling with people)」。同じではなく、違っているだろうけど、私なりに共に感じているよ、ということなんですね。

この「同じではない」という前提を「徹底的に」見つめていくことが、確かに、自身の枠内から、全く違うはずの相手を「同じように」コントロールしようという動きを、緩めていけるのかもしれません。

子育てについても、「この前提」を見詰めていくことが大切だなとしみじみ思います。子供側にも「共感されている」という土台があるのなら、論理的な導きも、その子自身の選択として身に着き、実りあるものになっていきます。

エンパシーの「その気」は、「愛」や「大我の実装」と呼ばれることのある、小さな自我を超えたものへの眼差し、深いところでの繋がり感、安心感のようなものに支えられる、私自身もそう感じています。まだまだまだ先は遥かに遠いですが。(笑) 少しずつ精進していきます。

いつもありがとうございます!佐々木さん、よい週末をお過ごしくださいね。
 

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>>Sasaki,Nobuo
October 18, 2014
》こんなにポジティブな面もあるじゃないと、「善意」だったりするんですよね。《

 そうそう、相手の善意は痛いほど分かってるんですね。でも鬱状態の励ましは、かえって苦痛にになってしまうんです。高校のときには、友人が様子見にきてくれたけど、会わずに帰ってもらったりした。

 しかし一方では励ましてもらいたいわけです。鬱というのは、そういうダブルバインドにはまり込んでいるのであって、意識が痙攣状態にあるってことですね。

 そういうときにシンパシーは機能しない、むしろエンパシー、すなわち寄り添ってくれてる人が居る、というのが唯一の救いになりましたね。自殺さえしなければなんとかなる、それが鬱から得た唯一の教訓でした(笑)
 

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>>長岡真意子
October 19, 2014
そうだったんですね。きっと頑張って無理をたくさんしたからこそ、そういう状態になっているところ、余計に「張る」ような言葉は苦痛を強めるだけなんですね。周りにもうつ病を体験した友人が何人かいます。もうとにかくだるくて「励まし」がきつくて、と言ってました。

それでも一方で声をかけてほしいという「ダブルバインド」だと。ほっと気持ちが緩まるよう、ただゆったりと傍で寄り添う、それがいいんですね。

アラスカは冬至をピークに日照時間が短く、氷と雪に閉ざされた日々が長く続くこともあり、特に冬になるとうつの症状を訴える人も多いんです。他州から来た人など参ってしまうんですね。太陽が恋しいと去る人にも今まで何人か会いました。佐々木さんの言葉、覚えておきます。

こうして佐々木さんが生きてらっしゃって、言葉をかけていただけること、感謝しています。

日本は新しい週が始まりますね。こちらは土曜日夜です。ちょっと体力的にきつい日々が続きますが、力抜いていきます。

佐々木さん、どうぞゆったりと日々お楽しみください!
 

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>>Sasaki,Nobuo
October 19, 2014
 ついでだから、昔の話をしてみます。忙しい中、無理なお返事はけっこうですよ。

 鬱状態というのは、一切の判断ができなくなります。極端な話だけど、歩道を歩いていて向こうから人が来る、どちらによけようかギリギリまで判断できない。で、ぶつかりそうになってからどちらかによけると、相手も同じ方によけたりして、ぶつかってしまう。そして、その原因は自分にあると自責して、さらに落ち込んでしまうという下降スパイラルなんですね。

 そんなわけで、自分で判断できない状態になったとき、たまたま信頼できる高校時代の友達がいたので、必要な判断はすべてお前がやってくれ、とか頼んだことがありました(笑)

 まあ、鬱状態というのは、外面的にはほとんど分からないんですね。そんなとこで、家族以外にもそういう風に寄り添ってもらえる人が居るのは、かなりの支えになりました。いま、そいつの父親の日記を、写経でもするつもりでデジタル入力してます(笑)
 

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>>長岡真意子
October 20, 2014
佐々木さん、昔のお話をシェアしてくださってありがとうございます。

鬱状態では、「一切の判断ができなくなる」ことがあるんですね。そして何とか判断して動いたとしても、少しでもうまくいかないと、自責して落ち込んでしまう。うつ病と診断されたことのある友人達も、普段から責任感が強く頑張り屋で、人を責めるよりも、まず自分の至らなさを思うようなところがあります。

「外面的にはほとんど分からない」にも関わらず、傍にいて、「判断」までをも引き受けてくれたご友人の存在、心に響きます。佐々木さんが今取り組まれていること、ある哲学者の日記のデジタル化というのは、そんなご友人さんを育てられたお父様のものだったんですね。当時寄り添い寄り添われながら、まさか何十年後かにこんな関係が生まれるとは、想像もされなかったことと思います。

穏やかに日々コンピューターに向かわれる佐々木さんの姿を想いつつ。ありがとうございます。
こちら嵐のような一日が、また終わりつつあります。明日から月曜日! 佐々木さんも、良い日々を!