マインドフルネスについての応答01

(注記)長岡真意子さん主催『ユア子育てスタジオ』より、彼女とのコメント応答を転載させていただきます。五人の子供さんを育てながら、子育ての実践と探求のブログ連載記事です。

 その忙しい子育て生活の中で、自分や子供の健全な心の維持の方法を「マインドフルネス」というメソッドに見つけられているようです。メインの子育てには私にコメントする余地がないのですが、マインドフルネスに関しては、私にも思い当たることが多く何回かコメントさせていただきました。

 やりとりは昨年の今ごろのことですが、ブログでは奥に沈んでしまっているので、備忘録を兼ねてこちらに掲載します。本文については、冒頭にリンクを置きますので、そちらを参照してください。

 「マインドフルネス」については、記事の中で展開されているので自然に理解できるはずですが、日本の禅の考え方にも通じるところが多く、むしろ日本人には解りやすいメソッドではないかと思います。私個人としては、若い時の「鬱病」との対応で非常に役立ったと思っており、その時の体験などをコメントしています。

 なお下記『オールアバウト』でも「子育てガイド」として、実践ガイドを展開されております。
http://allabout.co.jp/gm/gp/1648/

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2014/09/13「誰もが手に入れられる幸せへの鍵? マインドを整える習慣」
http://kosodatekyua.com/2014/09/darenidemoteniirerarerushiawasehenokagi/

>>Sasaki,Nobuo
September 17, 2014 - 3:22 pm | Permalink
 マインドフルネスという言葉は初見ですが、おもえば若い時期に鬱状態を経験して以来、ひたすらこういう思考を追い続けていたと思われます。押入れの暗闇にこもって、鬱固有の超ネガティブ思考でもがいてた時、なんとかしようと手に入れたのが、「森田療法」という大正時代に開発されたという古くさい精神療法の本。

 あれもこれも自分が悪いせいだ、という根拠も無い自責の念から逃れようとあがくのだが、より蟻地獄にはまって行く心境の時に、森田の説く「あるがままの自分を認めよ」という言葉に、ほっとする思いがした。まさしく、「ワンダーするマインド」を放置して「プリゼントにフォーカスせよ」ということです。森田博士自身の参禅体験から編み出した療法だということであった。もちろん欝は器質的な病気でもあるので、心の持ち方だけでは快癒せず薬や物理療法も併用したが、精神的な支えになったのは確かです。

 その流れから、禅仏教にはまる時期があった。「大法輪」という佛教雑誌を講読して、部屋で線香たいて座禅の真似事。しかし知れば知るほど、自分に「さとり」なんかとうてい無理という気持ちの方が強くなった。そこであっさり全部おっぽり出して、その次がニーチェだったのです(笑)

 勝手よみのニーチェだから詳細は省きますが、ようするに「勝手気ままにふるまえ!」というメッセージをニーチェから受け取ったわけです。我がままを通せば世間から排除されるという不安はぬぐえず、自然のままに出来るわけも無く、当初は世の中の当たり前に反発するという、意志的な方法でしたが、やっているうちに、思ったほどのバッシングもなく、むしろ面白い人間として相手にされる方が多くなった。

 それまでは、自分でも間違いなく、何の興味ももたらさない人間だと思っていたので、これは痛快な出来事でした。「我がまま」と「自分勝手」とは似て非なる部分があると思っています。我がままは、他人の我がままを許せないのですが、自分勝手は、他人の自分勝手も、しょうがないなあとおおらかに受容れてしまいます(笑)

 つまり、自在にマインドはワンダーしながら、必要とあらばいつでもプリゼントにフォーカスするという手法を、なんとなくデタラメに実践していたわけですね。そんなわけで、いまでは歳をとればとるほど、なんとなく日常を楽しむようになってます。さすがに霞を食べて生きるわけには行きませんが、必要な分だけあれば十分、雲の上で寝ころぶ久米の仙人みたいに、たまには地上の女の太ももを見て落っこちたりするのもいいかな、といった心境で過ごしてます(笑)

 女性は、自分の心と身体の関係が密接で、さらには子育てと、いやでもプリゼントに向き合わされる機会が多いでしょうね。そのぶん、心身のストレスも多いと思います。女性の生涯は、昆虫の「変体」のように、その時期ごとに分節されていると、とある女性が言いました。その状況に合せた耐性を得るための必然なんでしょうね。これからも大変でしょうが、それなりに脱皮分節しながらプリゼントしていってください。
 

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>>長岡真意子
September 18, 2014 - 10:39 am | Permalink
佐々木さん、コメントありがとうございます!

私が佐々木さんにお会いした二十年ほど前とは、この「超人」ニーチェ時代を謳歌されてからのことだったんですね。当時、様々なことを教えていただき感謝しています。

「自分勝手」というのは、「我がまま」とは違い、自身と他者の「あるがまま(プリゼント)」を受け入れることにもなり、「自分勝手」に振舞ってみることで、「自在にマインドはワンダーしながら、必要とあらばいつでもプリゼントにフォーカスを実践していたとも言えるかもしれない」というの、なるほどーと思いました。

「バッシングより、かえって面白いと相手にされた」というの、まさしく!と佐々木さんの当時の様子を思い出します。

そこに至るまでの、「森田療法」や仏教雑誌を読むなど禅仏教にはまられたという若かりし頃の様子、佐々木さんが、そういうところを通られているとは全く知りませんでした。佐々木さんの奥深さの所以を見させていただいた気持ちです。シェアしてくださってありがとうございます。

米国のマインドフルネスの流れというのは、いわゆる「さとり」とも呼ばれることのある「プリゼントにフォーカスした状態」というのが、「ヒトの心身にとってヘルシーである」という科学的研究に基づいているようです。

「さとり」というと、どこか遥か遠いところにあるようで、長い間修行を積んだ特別な者のみがたどり着ける境地と感じますが、もし「さとり」を「プリゼントにフォーカスした状態」とするならば、五感や呼吸にフォーカスしてマインドワンダーにはまり込んでない状態に自ら整えるということは、誰もがちょっと集中すればできてしまう。それこそ仕事の合間や台所で料理中やの「リフレッシュメント」として用いていきましょうよというのが、マインドフルネスでもあると感じています。

宗教的で深遠に感じる「さとり」の世界が、医療機関やカウンセリングの場などで、「よりヘルシーになるために有効」と合理的に切り取られ用いられ。二分間瞑想でプリゼントにフォーカスし、今日も朝からすっきりクリエイティブに仕事に向かいましょうと、現代の流れを引っ張る様々な企業(グーグルやインテルや)が、雇用者にマインドフルネストレーニングを用いていたりもする。

科学的に効果が証明されたのなら、どんどん使ってみましょうという欧米。対し日本では、やはり長い間歴史を持つ禅思想や「さとり」や「解脱」といった概念が根付いているので、なかなかこう「ポップ」にはいかないかもしれません。

「このプリゼントにフォーカスすることで心身ともにヘルシーになる」についての科学的データは多くあり(トレーニングを経て何人の○○な症状が何パーセント改善といったもの)、瞑想時の脳の仕組みへの変化などの研究もありますが、ではなぜそうなるのか?

「プリゼントにフォーカスした状態が心身ともにヘルシー」というところまでは、エビデンスが多くあり、それでも後の「ではどうしてか?」の説明部分は、個人的な体験を通した言葉の問題ですね。

アインシュタインの「ヒトは自身の体験や思考や感情、それは意識の錯覚(optical delusion)のようなものなのだけれど、それらを通し、全体から隔たれている」という言葉などを用いて説明されているのを見かけたりします。「プリゼントにフォーカスした状態」というのは、この「意識の錯覚」から抜け、全体を感じている状態であると。そこにヒト自身のヒーリングパワーもあり、深い安心感を得るソースがあると。

この「ではなぜそうなるのか?」という問いへは、今のところ「不可知な領域」であるため、こうした宗教的な説明しかできない。ここから、「なんだかとっつきにくい」なども生まれるのでしょうね。

実践体験を通し私自身は、「ソースに至る深い安心感」という感覚、とても納得しています。

もらいコメントでとめどなくつらづらと思いを綴ってしまいました。

「女性の生涯は、昆虫の変体のように、その時期ごとに分節されている」、そうかもしれません。卵から幼虫、さなぎ、成虫。子供が成人するまでというのは、母親はさなぎ期間なのかもしれませんね。ぱーと自ら開くわけでもなく、それでも同時に内側でこつこつと自ら成虫となる準備を続けられる期間でもあり。5人が成人するまで・・・長いですけどね。(笑)
 
読んで下さりありがとうございます。佐々木さん、今日もよい夢を!
 

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>>Sasaki,Nobuo
September 18, 2014 - 5:33 pm | Permalink
 「全体から隔たれている」という状況を、佛教では「大我(たいが)」と「小我(しょうが)」という言葉で説明してましたね。われわれが普通に思っている「エゴ・自我」といったものは小我とされます。「全体から隔たれている我れ」ですね。そのエゴを突き詰めていくと、必ず他者との葛藤が現われます。それを調整するのが宗教であったり法(law)であったりするんですが、どちらもなかなか馴染めません。

 そこで佛教では大我というのを持ち出してきます。大我とは、他人も自己も一緒に飲み込んだような我れであって、世界全体とつながっている我れなんですね。仏性とか悟りとかいろんな言葉で言われますが、はてどんなものか経験してない限りさっぱりわからない。もっと単純に、狭いケチな利害に捉われてる我れ(小我)をおっぽり出して、自分勝手にやって出てくるものにその都度対応すればいいじゃないか、と考えるようになりました。固定的な善や悪などないし、その都度のより善なことを選ぶ感性の方が大事だと思いました。

 カッコよく言えば、その都度の今あるがままに同期するってことでしかないんですねw そのときに素晴らしい大我が顕現してくる。思っているよりもっとすごい自分があるってことです。これは事前に説明する方法がないし、その「自分」を信じて遂行していくしかないでしょう。おっしゃるように、実践体験を通し「ソースに至る深い安心感」という感覚を得るしかないでのしょうね。

 もちろん、その結果をトレースすれば、それなりのエビデンスは得られると思います。とまあ、こんなことを考えてたりします。
 

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>>Sasaki,Nobuo
September 18, 2014 - 9:32 pm | Permalink
日本語サイトでもマインドフルネスの紹介記事が出始めました。ビジネスユースの初歩的紹介のようですが、ご参考までに。
http://blogos.com/article/94737/?p=1
 

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>>長岡真意子
September 19, 2014 - 11:12 pm | Permalink
佐々木さん、コメントありがとうございます!

「真我」と子供に名づけた知り合いがいたのを思い出しました。「真我」は「大我」と同じような位置づけと聞きます。仏教では、「世界全体と繋がっている我」こそが、真の我ということになるのですね。

「小我であるエゴを突き詰めると、他者との葛藤が現れる」、それでも宗教や法がそれらを解決するかというとそうもいかない、そこで仏教では、「大我」という全体と調和した存在が、己の内に本来存在するという世界観が持ち出されてくると。

一人一人の内に、個人を超え全体と調和する場が本来備わっているという世界観は、私自身感覚的にとてもしっくりきます。古代から様々な宗教のコアにある教えですね。

過去未来と貫く「絶対的な善悪」などなくて、あったとしたら、それは確かに、観念的な思考の中のこと。今瞬間その都度の善による、それが「あるがままに同期すること」でもあり、そこに自分でもびっくりするようなびっぐな大我が現れると。

この「一寸先の分からなさ」に不安感が生まれもするのですが、確かに、そこに「ソースに至る深い安心感」があるのならば、前にも後ろにも足場の見えない瞬間へと、飛び立っていけますね。

とても深い感覚を、言葉にしていただいた気持ちです。

blogosの記事の方、読ませていただきました。同じ筆者の方が、「米財界で禅が主流になった?教育、ビジネス、社会を変える「マインドフルネス革命」の兆し」 Blogos http://blogos.com/article/94073/というようなものも少し前に書かれているのですね。次のこちらでの記事にも少し紹介させていただきました。

こうして一気にブームのようになってしまうと、すたれるのも一気になってしまうのではないかと思ったりもしますが、マインドフルネス自体は長い歴史を持つもの、波の満ち引きに関係なく、進み続ける人々の群れがあるのでしょうね。

ありがとうございます! 佐々木さん、週末、ゆったりとお楽しみくださいね。