018.交友など

伊勢修学旅行

【018.交友など】

 森鴎外に『ヰタ・セクスアリス』という自伝的作品がある。自伝といっても、その性的な部分に焦点をあてたもの。"VITA SEXUALIS"はラテン語だそうで「性的生活」とでも訳すのであろうか。その意味を知って期待して手に取ったが、少年期から青年期の淡い思春期の性の目覚めみたいな記述であって、がっかりした覚えがある。いわゆるポーノグラフじゃないので、為念。

 さてこの「日記」もそろそろ種切れ気味で、最後に小学校高学年での交友関係などを書いて、いったん休止したい。中学生以上のこととなると、性の目覚めなど「セクスアリス」風の記述も必要になる。そうなると書き方の手法も、記憶の断片を繋ぐこれまでの方法でなく、別の記述法を考えねばならないので、それは稿を改めることとする。
 


 写真は小学六年生での伊勢修学旅行で撮られたもの。小学校では伊勢、中学は東京、公立高校では九州というのが、当時のパターンだった。交友といっても小学生ではいわゆる「遊び友達」であり、さほど深い付き合いにはならなかった。その中で一人だけ、その後、深い付き合いをしたのがU君である。

 小学高学年の三年間は同じクラスで、いつも一学期の学級委員に選ばれた、前述の「優等生」がそのU君である。小学校では単に遊び仲間の一人であったし、中学では一度も同級になることは無く、彼が生徒会長になったとか間接に知る程度であった。高校一年生では、私は今でも交流のある終生の友を得たが、U君とは接点も無く、2,3年でやっと同級になった。

 高校では二人とも遊びに熱心で、いわゆる劣等生となっていたが、仲間も遊びの方向も違って、接点をもつことはなかった。何より、クラスで欠席率のトップがU君で、その次が私ということで、学校で顔を合わせる事も稀だった。やがて卒業だが、両人とも見事に受験浪人、そんな同じ境遇で、少し行き来が始まった。

 本格的な付き合いが始まったのは、私が大学に入った夏休みに二度目の鬱病を発症して、自宅でぶらぶら過すことになった時期からである。私は鬱からどう這い出すか、彼は二度目の受験もうまく行かず、親との葛藤も抱えていた。私は禅仏教などの考え方に道を見出そうとしていたが、彼はニーチェなどをかじって、親や社会への反発反抗を徹底するという方向をとった。

 彼から紹介されたのは、吉行淳之介をはじめとする「第三の新人」という小説家グループ、およびニーチェの反抗哲学であった。そんな中で、お互いのそれまでの世の中の常識を一から疑うことから始めて、徹底的に世間に逆らうことを始めた。彼に誘われて共同で手作りの詩集を出したり、個人でも作って、繁華街にへたり込んで売るという浮浪者のまね事もした。私の今の自我の確立は、彼の影響なくしてはあり得なかった。

 記憶に残っているのは、三島由紀夫が自決した日のことだ。そのころ両人とも文学にどっぷりつかっていたが、三島には距離を置いていた。とはいえ、毎年ノーベル文学賞の候補に上げられる作家に無関心ではいられないし、それなりの注目はしていた。自決を知ったのは夕刻に近かかったかもしれない。西日が差し込む我が家の部屋に彼がやってきて、「困ったことになったな」と話し合った。何が困ったか分らなかったが、とにかく「困った」わけで、これは両人だけに通じた会話だった。

 たがいに働くようになってからは、住む地域も異なり、音信が途切れがちになった。あるとき、共通の知人から電話がかかって来た。たまたま彼の家に電話して、彼が亡くなったのを知ったという。葬儀からすでに一週間が過ぎていた。二人で残された奥さんを訪問して、かつての数冊の彼の詩集を持参した。おそらく、そういう若いときの痕跡は残していないであろうという私の推測は正しかった。初めて見たその詩集を、形見としていただいておきます、と奥さんは頭を下げた。