010.近所の人々1

「横手」入り口にあるお地蔵さん

【010.近所の人々1】

 「ひょうたん屋」(と呼んでいた)には、老夫婦が住んでいた。借家だったと思うが、主人一人で住んでいたところに、いつのまにか後妻といわれる少し年下の女性が住み込んだようだ。ほとんど近隣との付き合いもなく、隣家からの話として伝わってくるところによると、深夜にガタンガタンとマイペースで機織(はたおり)をする音だとか、夫婦でぼそぼそ語り合ってる声が聞こえてくるとか、その程度の情報しかなかった。

 「ひょうたん屋」は「横手」と呼んでいた細い道とT字型に交わる接点にあった。横手は車も通らない細道なので、我々の恰好の遊び場であった。ドッヂボールの投げっこなどをしていて、玉がそれると「ひょうたん屋」の竹垣にぶつかることになる。半分腐りかけたぼろぼろの竹に当ると、条件反射のように「こらぁ!」と主人が怒鳴りに出てくる。少し腰が曲り気味で、ほとんど抜けた前歯の隙間から空気が洩れるのか、怒鳴る声にもさっぱり迫力が無い。

 子供たちは一応逃げるが、いささか滑稽でもある主人の怒る様子を愉しんでいる気配もある。ほとんど効果が無いのを意識しているのか、老主人は一声怒鳴ったあとはすごすごと家に戻る。まるでチェーホフの短編に登場する市井の人物のようなペーソスただようその後ろ姿は、今でも目に焼きついたように思い出される。

 時々、奥さんが買い物籠をさげて買い物に出かける姿なども見かけたことはある。仲むつましい老夫婦という感じであったが、二人の間となると様々な事があるのであろう。ある時、救急車がひょうたん屋の前で止った。奥さんが自殺を図ったという話だったが、一命は取り留めたとか。いきなり手元にあったベンジンを飲んだらしく、胃洗浄すれば、いきなり死ぬようなものではなかったわけだ。

 特別な付き合いも無く、たまたまひっそりと近くに住まわっていた老夫婦、具体的な生活の様子も分らないのに、子供心にこのような印象が深く刻みこまれてのは、不可思議でもある。