阪神淡路大震災の記憶

JR六甲道駅

 20年前のこの日の夜明け方に発生した阪神淡路大震災の報道を観ているうちに、何か書いておかなければと思ってきた。地震当日は宇治市に住んでいたのだが、朝方までチャットにふけっていた。突然、大きな揺れに出会い、床柱にしがみついた。揺れが収まって何分もたってから風呂場をのぞくと、汲み置きの湯がいまだタップンタップンと揺れていた。

 震災のさらに20年ほど前になるが、学生時代に神戸の灘区や東灘区に下宿していた。震災の被害は市の中心部より、東西に数キロ離れた長田区や東灘区に大きかった。震災の1ヶ月近く後だろうか、JRが再開してすぐに、某ジャーナリストの取材に同行した。高架が陥落したJR六甲道駅や阪急六甲駅は通学経路だった。かつてその手前の東灘のJR摂津本山駅前に下宿していた。取材は長田区なので快速電車で通過したのだが、元下宿先はおそらく大破したのであろうか、すでに更地にされていた。そして母校の後輩に当たる貧乏学生たちも、おそらく同じようなおんぼろ木造アパートなどに住まっていたのであろう、倒壊の下敷きになったりして数十人が亡くなったという。

 長田の駅で電車を降りると、すぐに焼け焦げたゴムの臭いが漂ってきた。この地区は、合成ゴムなどの靴を製造する町工場の密集地である。それだけに、地震による倒壊とともに、その後の火災による被害が膨大であった。道端には、むき出しになって折れた水道管から、水がちょろちょろと洩れ出ていた。近くの朝鮮学校の校庭には、まだテント生活の被災者がひしめいていて、その前では、被災者やボランティア支援者たちが輪になって、廃材の焚き火を囲んで暖をとる姿が見られた。

 それ以降、まだ復興した神戸の街を歩く機会がない。神戸に住んだ時期には、まだポートアイランド等は埋め立て中で、巨大なベルトコンベヤが六甲山麓から神戸港にむけて、砂利土を流し込んでいる状態だった。三宮センター街元町商店街さらには懐かしい高架下商店街も、私の中では震災以前のままに記憶されている。はて、復興した神戸を観る機会はあるのだろうか。