’69/12/08『空間が笑う時』

笑う

  『空間が笑う時』

君は知っているだろうか
空間が笑うことを


最終まぎわの電車の
外界から切り取られた空間
表情を失った仮面たちは
口をきくすべも忘れている
風の吹き抜けてゆく停車場で
モーターの音が止まったときの
奇妙な沈黙の一瞬
そのとき カラカラと
空間が笑うのだ


また ラッシュ時の
息づまるような満員電車の中に
押し縮められ
ねじ曲げられて 窒息した空間
だれもが叫びだしたくなる瞬間
君の耳にも聞こえるはずだ
あの歪んだ笑いが


あてもなく歩く繁華街
寒さに耐えかねて
ふと入った映画館
ここにも 切り離された
空間がある
無限にたちこめた闇
光の帯が束になって放射し
画面だけが 生きもののように
巨大にうごめく
アップされた男と女の顔と胸
荒い息づかいが 左右のスピーカーから
とびこんでくる
フィルムの回転する音のみが
ジージーと鳴いている
じりっとも動かない影法師たちの
そっと唾液[ツバ]を呑む音がする
ほら 覆面をした空間が
クスクスと 笑っているではないか


がらんとした大講義室
さむざむと散在する
無機的な聴講者たち
教壇では 老教授が
ガスのきれてしまったライターを
むなしく カチャカチャと
いつまでもくり返す
彼の目は もはや
何物をも見てはいない
大教室用のマイクが
彼の声を 食い尽してしまっている
今すぐに彼が消えても
スピーカーはひとりでに話すだろう
こんな所にも 人間的な声が
あることはある
それは 狂気を装った空間の
絶望的な笑いなのだ


眠りがやってこない冬の夜の
下宿のベッドに仰向いて
君は 空間とにらめっこをしている
窓をあけると
凍った空気がとびこんでくる
そのひとかけらを齧ってほっと一息つくと
意識が とろけたように
君の頭から流れ出す
どろどろしたその液体が
床板の隙間にしみ込むのを確めて
やっと君は 夢の世界の
住民票を受けとれる
四方にたちこめた霧に招かれて
君が 夢の世界に第一歩を
踏み出すときに
あの空間の微笑みを
手にすることができる


君は知っているだろうか
この空間の微笑を


('69/12/08 21歳の雑記帖より)