’69/11/25『バッハはわらう』
――バッハはわらう――
まっ黒な影法師の
口のあたりがニッと裂け
やつは走り去った
無意味な謎をのこして
――バッハはわらう――
ぼくは何かを理解しようと
思いつめてあゆむ
靴に下ではプラタナスの葉が
ひとあしごとに厚くつもり
ついに一面の雪景色
おもわずぼくは立ちどまる
足跡だけがなにもなかったように
パクパクと新雪に印を押してすすむ
影に逃げられ足跡に先をこされ
定められた路をゆくしかない
このぼくは一体だれなのか
――バッハはわらう――
そう 少し思い出した
コンサートから吐きだされたところだ
一歩でたとたんに方角が回転し
地面がうらがえってしまった
ぼくはどこへ行くのですか
たずねようと声をかけたその人の顔
ぼくはなにも見なかった
見ようにも目鼻がなかったから
ぼくが驚いたのはそのせいではない
その目も口もない顔がわらったのだ
――バッハはわらう――
その顔はわらった
ぼくもわらった
するとバッハもわらったのだ
ぼくの凍りついた心臓が
とけて流れる
ぼくは小躍りしながら掛けだして
足跡と影法師をねじ伏せた
ぼくはテクテクと歩きだす
まだだれも行ったことのない方向へ
(雑記帖より/21歳晩秋)