『小野小町と小町伝説について』1/2

花のいろは・・・

(S47年度前期、国文学特殊講義レポート/23歳)

 なぜ小野小町を取り上げるか、ということから始めようと思う。
 小野小町という名を聞いて、まず私の頭に浮ぶのは絶世の美女というイメージである。何々小町と言えば美女の代名詞となっており、いつの世の男性にとっても憧れの対象となった女人像であろう。そしてこの理想の女性像は、決して良妻賢母とか貞女の鏡といったもう一方の理想的女性像とは結びつかない。その結びつかないところが魅力の所以である、と私には思われる。小野小町という名は、世慣れた男をニタリと喜ばせ、純情な青年の心をときめかせるような魅力をもっているのである。そして、私の中のミーハー精神もまたその魅力に感応した、というわけだ。これが、ここで小野小町について愚考してみようとする動機である。

 「をのゝこまちは、いにしへの衣通姫[そとおりひめ]の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり。」
 これは古今集仮名序に紀貫之が記している有名な一節である。古今集撰者としての貫之は、ここではもちろん小町の歌そのものについて述べているのであって、必ずしも容色について云々しているわけではあるまい。しかし素直な気持で読んでみると、どうしても小町は美女でなければならないというような響きが感じ取れないだろうか。「衣通姫」というのは、躯[からだ]の色が衣を通して光り輝くほど美しかったのでその名が付いたと言われているそうだから、この当時の美女の代名詞だったと解することができる。その衣通姫にたとえられる小野小町が、実のところ醜女であったということになれば、小町の歌そのものがグロテスクな様相を帯びてきて具合の悪いことになるのではないだろうか。また、「いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり」とある「よきをうな」とは、「美き女」という字を充てるのが適当な気がする。やはり小野小町という女性は、「美[よ]き女[をうな]」でなくてはいけないのである。
 一方、小町の歌才については、貫之が六歌仙の一人に挙げているという事実だけで十分であろう。したがって、「才色兼備の女人」という小町のイメージが成立していたと推定してよいと思われる。多くの小町伝説が後世に語られるようになったその原動力を、私はこのイメージに求めたいと思う。それはまた、初めに書いた小野小町という名の持つ魅力として、現代の我々の空想力を刺激するのである。
 種々の小町伝説が形成される原動力は想定された。次に問題となるのは、その原動力が展開していく方向を規定したものは何かということである。結論的に言うと、その方向付けに重要な作用をしたものとして、古今集その他に残されている小野小町自身の歌を挙げたい。要するに、才色兼備の女人というイメージを結んだ小野小町の魅力が原動力なり、彼女自身の歌がその展開を方向付けた、という乱暴な仮説を立ててみたわけである。
 以上によって、このあと私に残された仕事は明らかになってきた。巷間に残されている種々の小町伝説なるものを、何らかの形で歌人小野小町の歌と結びつけてみせるという仕事である。ところが遺憾ながら、私にはその能力もないし根気もない。したがって、以下の文章は実証的研究とは程遠い出鱈目な考察となってくることと思われるので、その点は予め御了承いただきたいものです。

 まず、小町の歌を手っ取り早く片づけてしまおう。と言っても、歌の出来栄えについては私に云々する資格がない。ここで問題とするのは、その内容についてである。さて、数少ない小町の歌を内容的に見ると、次のような三つの系統のものが見出せる。
(A)遂げられぬ想いを嘆く歌。
(B)我が身の容色の衰えを悔む歌。
(C)言い寄る男をうまく受け流す歌。

 分類Aの例。
うたたねに恋しき人をみてしより 夢てふものは頼みそめてき

 分類Bの例。
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに

 分類Cの例としては、安倍清行とのやり取りを挙げておこう。
  あべのきよゆきの朝臣
つゝめども袖にたまらぬ白玉は 人をみぬめの涙なりけり
  返し 小町
おろかなる波だぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれば

 なお、この小町の返し歌については、抑制しえぬ激しい恋心を詠んだものとする説があるが、それではこのやり取りの妙味がなくなってしまう。ここはやはり、小町の機知が清行の戯れの求愛歌を、白々しい間の抜けたものにしてしまった、という所に解釈の焦点を置いておきたい。
 以上に例として挙げた三つの歌からだけでも、小町と言う女人像が朧げに浮び上がってくる。試みにそれを考えてみよう。
 何よりもまず、絶世の美女という但し書きがある。それだけでも、世の男性としては小町に対して好意的にならざるを得ない。花の色の衰えを悔むにしても、これが醜女であれば、何と浅ましい女だということになる。ところが絶世の美女ということになると発想の展開の仕方が、ぜんぜん異なってくる。容色だけにしか頼ることのできない女の性[さが]の哀しさ、という同情的な方向に考えが向いていくのである。
 男を突っぱねるにしても、そこに機知の閃[ひらめ]きがあるだけに、決して非情な女とは映らない。その突っぱね方で、多少の冷酷さを感じさせる程きっぱりした調子であるいことで、むしろ第三者的立場に在る男にとっては痛快であり、よりいっそう魅力をつのらせるものである。
 このような驕慢とも思える強さを示す女性が、いったん恋に身を置く立場に陥ると、夢をも頼みとするような弱々しい女に変貌する。この落差が、小町の読者たる男性諸氏を一挙に小町ファンに仕立て上げてしまう。少なくとも、多少ロマンティックな要素を持った男性であれば、まずはひとたまりもないであろう。あとは、各自の頭の中にある具体的な美女のイメージをそれに当てはめて、空想のおもむくままに楽しめばよいというわけである。
 いづれにしても、空想の展開するのに十分な条件は整ったことになる。かくして、様々な空想を経て種々の小町伝説が流布することになったとしても、そこに不思議はないであろう。

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