(’90)芥川龍之介――『羅生門』と『鼻』にみる「意識」

芥川龍之介――『羅生門』と『鼻』にみる「意識」

 (1990年ごろに書いたものです。今ならこういう書き方はしないと思うが、一つの思考過程として。)

 芥川龍之介は『鼻』を漱石に激賞され、当時の文壇に認められる機縁を得たとされている。漱石は龍之介にあてた手紙の中で、「落着があって巫山戯(ふざけ)てゐなくって自然そのままの可笑味(おかしみ)がおつとり出てゐる所に上品な趣があります」と述べている。この「自然そのままの可笑味」はどこから来ているのか。
 ここでは、この「可笑味」を「ユーモア」という意味に理解しておこう。漱石は別のところで「ヒューモアとは人格の根底から生ずる可笑味であるという事になりはせぬかと思ふ」(文学評論)と述べている。「人格の根底から生ずる可笑味」を『鼻』の中にみとめたからこそ、漱石はこの作品を評価した。俗にいわれる「傍観者の利己主義」などには、彼はもうすでにうんざりしていたはずである。
 同時期に書かれた龍之介の処女作とされる『羅生門』においては、このようなユーモアはみられない。「利己主義の心理分析」はあるが「人格の根底から生ずる可笑味」はない。この相違は、作者自身を相対化する視点の有無にかかわってくる。
『鼻』と『羅生門』を分析し、「作者自身を相対化する視点」を明らかにすること、それをこの叙述の課題とする。

1.『羅生門』における下人の「正義」と「利己主義」

 或日の暮方「一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた」という書き出しで『羅生門』は始まる。この下人はすでに主人から暇を出されており、「行き所がなくて、途方にくれて」いる。この状況をどうにかするには「手段を選んでゐる暇はない」という所で彼の考えは停止し、その先へ進む「勇気が出ずに」いる。
 下人は門の上の楼に上って、そこに死人の髪の毛を抜く老婆を見つける。最初に感じた恐怖が薄れてゆくに連れて、下人の心には「老婆に対する激しい憎悪」の感情が動いてくる。老婆に対すると云うより「寧ろ、あらゆる悪に対する反感」である。下人には「何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった」。したがって「合理的には、それを善悪の何れに片づけてよいか知らなかった」。
 しかし「この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事」は、「それだけで既に許す可からざる悪であつた」。下人は、憎悪に燃えて老婆に迫ってゆく。

 訳もなく「憎悪」が出てくる所には、唐突な飛躍がある。筆者はそれを説明するために「あらゆる悪に対する反感」と言い換えている。さらに補足して、合理的にとはいえなくても下人にとっては「既に許す可らざる悪」であったとする。
しかし、これは論理的ではない。論理であろうとすれば次のようになるであろう。
 まず、下人は「あらゆる悪」を憎む正義の人であった。その彼が、自らの正義に照らして老婆の行為に「許す可らざる悪」をみとめる。そこで、老婆の悪に「激しい憎悪」を抱く。
 しかしこれでは、この小説は成立しない。下人は、正義の人でも利己の人でもないという設定でこの小説は始まっている。そうでないと、下人の心理の移り変わりは展開のしようがない。だからといって、人間は訳もなく突然に「憎悪」を抱くものだ、などという不条理がテーマでもないであろう。とすれば、下人の憎悪の出所が問題となる。
 恐怖が去っていったとき、下人がこの老婆に感じたものは「醜悪に対する不快」にすぎない。下人は目の前の状況に、単なる不快を感じただけだ。にもかかわらず、それがなぜ「はげしい憎悪」となってたち現れてくるのか。それは対象物の有無にかかわっている。
 物語の冒頭から、すなわち「羅生門の下で雨やみを待つて」いるところから、下人はすでに不快である。「行き所がなくて、途方にくれて」いる状況がそもそも不快である。「不快」自体が「行き所」なくて漂っている。しかし「不快」は、その対象物を見つけることによって「憎悪」となり得るし、「快」に転ずることもできる。下人は、醜悪な老婆に恰好の「憎悪の対象」を見つけたのである。この憎悪のもとにはルサンチマンがある。持っていきようのない不満がある。それが、対象を見いだし憎悪となって現れ出たのである。しかし作者の心理学からは、その視点は出てこない。

 もう一つ、指摘しておくべきことがある。
「はげしい憎悪」というたんなる心理の事実を、「あらゆる悪に対する反感」、「許す可らざる悪」という善悪の観念に転化させていることである。作者は「憎悪」と「悪」を、同じ心理のレベルに並べてみせる。そこに読者は、下人の正義を「感じて」しまう。しかし憎悪が下人の心に現れたとしても、そこから直ちに悪を導き出すことはできない。にもかかわらず突然、下人の心に悪が登場している。この悪についても出所を問ってみる必要がある。
 この「悪」は、下人の問題ではなく作者の必要から来ている。「憎悪」の唐突さを補うための必要である。しかし、悪だからこそ憎悪したという論理だと、先に指摘したように、下人を元からの正義の人にしてしまう。したがって論理としては展開し得ず、「はげしい憎悪」と「あらゆる悪に対する反感」を並置するしかない。出所不明の憎悪に、さらに出所不明の悪が重ねられるという結果になっている。
 出所が作者の都合からだとしても、問題はそこにあるのではない。悪が、倫理とは関係なく登場してきているところに留意すべきであろう。なぜこのように安易に悪が出てくるのか。それはこの作者の悪が、たんなる美学上の概念にすぎないからである。それが、心理の合理的説明に拘泥した結果、倫理の問題にすりかわってしまった。そこから混乱が起きる。
 作者の混乱は、たんなる「美醜」の問題を「善悪」の問題として展開したところにある。作者のモチーフは「美醜」にあったはずなのに、以降は下人の「正義」と「エゴイズム」の物語となってゆくのである。

 下人は老婆につかみかかり、簡単にねじ倒す。まもなく老婆の生死が「自分の意志に支配されていると云ふ事を意識」すると、先ほどの憎悪の心は冷め「安らかな得意と満足とがあるばかりである」となる。
 やがて老婆の自己弁護を聞くうちに、次第に盗人になる勇気が生まれてくる。

 下人の正義はたんなる不快から生じた憎悪であった。それは「ルサンチマン=弱者の欲望」の現われにすぎない。老婆が自分の意志の支配下に置かれると、憎悪は「得意と満足」に変わる。「支配の欲望」が満たされたからである。弱者の欲望が、より弱いものを支配して自足しただけである。「あらゆる悪に対する反感」などでなかったことは明白である。下人の正義など、どこにもなかった。ここにあるのは、相対的な強者と弱者の相克という事実性のみである。
 やがて老婆の自己弁護に媒介されて、下人の利己主義が登場する。下人は「一時の正義」を感じてしまったから、利己主義を悪と「感じ」なくてはならない。利己の行為に、自己弁護が必要となる。

 下人は老婆に言う。
「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、餓死をする体なのだ。」

 下人の正義が自足し利己心と移ってゆく心理は、いかにも自然に見える。読者は、この心理の移り変わりに、周囲の条件にあおられて動く生の弱さを見いだす。そして、その生の皮が剥がされたあとに現れてくる醜悪なエゴイズムを見る。しかしエゴイズムとは、それほど醜悪なものなのか。生とは、それほど弱いものなのか。
 心理だけを見れば、たしかに危うく移ろっているかのようである。しかし、その背後にある「作者の意識」をも見なければならない。そこでは作者の意識自体が、美醜から善悪へと怪しく移行している。作者の意識が下人の心理に善悪の観念を挿入したのだ。作者には心理を見る目だけがあって、「意識」自体を批評する視点が欠けている。
 エゴイズムそのものは醜くも美しくもない。正義という美しいベールをかぶせておいてから、それを剥がして見せるから醜悪に見える。生それ自体は弱くも強くもない。心理というベールを、生それ自体と見間違えるから弱々しく思われるにすぎない。

 下人の心理は、一見自然に映る。しかしそこには、作者には自明でない二重の構造が見られる。
 一つは、下人に投影されている作者の意識のレベルである。それは、次のように表現できる。

「私は正義のために生きたい(と思う)」が、生きていくためには「利己的であるより仕方がない(と思う)」

 この意識は徹頭徹尾モノローグの世界に閉じ込められている。この意識の中では「正義」と「利己」のどちらを選ぶわけにもいかない。利己的であることが正義でもあるとき以外には、内部的には決定不能に陥ってしまう。

 もう一つは、強者と弱者の相対的差異に規定される事実性のレベルである。
 下人の正義は、彼が老婆に対して相対的強者であり得るかぎりにおいて実現される。また下人の利己的行為も、強者であるかぎりにおいて可能なのである。この事実性においてのみ、下人の正義も利己主義も成り立つ。
 しかし、このような状況がいつも保証されているわけではない。作者の必要に応じて設定されているだけである。下人がもし相対的に弱者ならばどうなるか。死体の髪の毛を抜く「鶏の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕」の老婆の代わりに、筋骨たくましい大入道でも想定してみればよい。下人の正義も利己主義も吹っ飛んでしまうに違いなかろう。作者の意識は、次のようになってしまう。

「私は正義のために生きたい(と思うが実現できない)」し、生きてゆくためには「利己的であるより仕方がない(と思うが、それも実現できない)」

 作者の意識を相対化すると、このようなイロニーが顕われてくる。しかし作者自身の意識には、このようなイロニーは隠れたままである。その意味において、『羅生門』には「作者自身を相対化する視点」が欠けていると言える。したがって「人格の根底から生ずる可笑味」は涌いてこないのである。

 それでは、禅智内供の『鼻』の「可笑味」はどこから来るのだろうか。

2.禅智内供の『鼻』と「意識」

「禅智内供の鼻」は近隣に知れ渡っている。「長さは五六寸」あって「云はゞ細長い腸詰のやうな物が、ぶらりと顔の真中からぶら下がってゐるのである」。「五十を超えた内供」は高僧の地位にのぼった今日まで、「内心では始終この鼻を苦に病んできた」。「内供が鼻を持て余した理由は」実際的の不便さだけではない。それより以上に「この鼻によつて傷つけられる自尊心の為に苦しんだ」のである。
 内供は「積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた」。
 鼻を短く見せる工夫をしてみたり、自分のような鼻の持ち主を見つけて安心を見いだそうとしたり、さらには積極的に鼻の短くなる方法を試みたりした。「しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと脣(くちびる)の上にぶら下げてゐる」のである。

 内供の長い鼻はそれ自体で滑稽だ。高僧たる内供が鼻に悩まされるという自意識のありようも滑稽である。しかし、それらが直ちにユーモアであるわけではない。内供の自意識が「鼻」によって批評されるところから「可笑味」が涌いてくるのである。
 作者は内供の意識全般にわたって書いてはいない。あくまで鼻に付きまとわれる自意識についてのみ書いている。したがって、『羅生門』の下人にあった心理の突飛な飛躍はない。内供の心理は一貫している。内供は一貫して不快であり続ける。しかし読者は内供の不快に付き合う必要はない。「作者の意識」に振り回されなくても良い。「おつとりとした可笑味」を眺めているだけでよいのである。作者に強いられて下人の心理に付き合わされるのと対照的である。

 「所が或年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする方法を教はつて来た」。「その法と云ふのは、唯、湯で鼻を茹でゝ、その鼻を人に踏ませると云ふ、簡単なものであつた」。この弟子の僧に勧められるという形で、それを実行に移すことになる。
 鼻は見事に短くなる。「かうなれば、もう誰も哂ふものはいないにちがひない」。
 翌朝、目がさめて鼻が依然として短いのを確かめると、内供は「幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のやうな、のびのびした気分」になる。

 鼻が短くなったので内供の不快ははれた。内供の自意識が「鼻の意識」から解放されたのである。しかし内供は、「鼻」から手酷い報復を受ける。「鼻」は以前にも増して自らの「存在」を主張し始める。長い鼻は短くされたことによって、より一層その存在を露わにするのである。

 短い鼻の内供を見て「池の尾の僧俗」たちは「前より一層可笑しさうな顔」をする。「同じ哂ふにしても、鼻の長かった昔とは、哂ふのにどことなく容子がちがふ。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると云へば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい」
「前にはあのやうにつけつけとは哂はなんだて」
 内供は「鼻の長かった四五日前の事を憶ひ出して」ふさぎ込んでしまう。

 ここで「傍観者の利己主義」が登場する。

「――人間の心には互に矛盾した二つの感情がる。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこつちで何となく物足りないやうな心持ちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいやうな気にさへなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くやうな事になる」。
「――内供が、この理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない」。

 この説明は蛇足である。作者の心理主義が、欠点として現れている。
 内供の心理は、常に「鼻」によって対象化されていた。内供の意識は、一貫して「鼻」に批評されていた。しかし「池の尾の僧俗」の心理は、内供の鼻に「対して」のものであっても、「鼻」によっては対象化されない。池の尾の僧俗の心理は、「鼻」に拘束されず自由である。彼らの意識は「鼻」によっては批評されない。彼らの「心理一般」については語れない。
 にもかかわらず、作者は「心理一般」から説明する。「人間の心」にある「互に矛盾した二つの感情」から説明しようとする。あるときは「同情」となり、あるときには「敵意」となる感情があるとする。しかしこの二つの感情は恣意的である。鼻の不幸に悩む内供に同情する者が、鼻の不幸を切り抜けた内供を心から祝福(=同情)してもよいのである。かならずしも、同情が敵意に変わる必然性はない。心理一般は、恣意的であるほかはない。「傍観者の利己主義」とは、作者が恣意的な心理に与えた一つの名称にすぎないのである。

 池の尾の僧俗の心理を対象化するならば、高位者としての「内供の地位存在」を視なければならない。彼らの意識は、内供の前では抑圧された「弱者の意識」として現象する。内供が抑圧するのではなく、内供の存在自体がそのように作用する。相対的な弱者と強者の意識の問題である。
 内供の長い鼻は、両者を均衡させる結節点として機能していた。その鼻が消えると均衡が破れる。弱者の側に、不安が生じる。不安は必要以上の「哂ひ」を呼び寄せる。池の尾の僧俗の心理は内供の鼻からは自由でも、その意識は内供の鼻を必要としていた。彼らの意識は「鼻なき内供」を前にして、「傍観者ではいられない」のである。
 内供の意識にとって「鼻」は、居心地を悪くさせる物質として存在した。この物質性は、内供の意識にとって他者性として機能する。一貫して彼の意識を批評して意識に違和を唱える。内供はこの違和を排除したい。しかも鼻は、方法さえあれば排除し得る「物質」でもあった。
 池の尾の僧俗の意識においては、内供の鼻はたんなる「物質」ではなく観念性を帯びたものであった。内供との共存を居心地よく保ってくれる契機として機能していた。この「物象化された鼻」は、物質としての鼻が消えても、彼らの「必要」によって実在を主張する。内供の短くなった鼻の前に、彼らの「内供の鼻」はより一層リアルに姿を現わす。
 内供の意識と池の尾の僧俗の意識は、「鼻」を媒介として逆接している。その逆接のあり方は、内供の意識を「鼻」のもつ物質性にそって相対化してゆくとき、齟齬として顕われる。その齟齬を一般的に語ることはできない。内供の心理からも池の尾の僧俗の心理からも説明できないし、また説明する必要もない。齟齬を齟齬として表現することが作者の仕事である。そのとき、「ヒューモア」が出てくるのである。

「前にはあのやうにつけつけ哂はなんだて」
 この内供の独白に、すでに「人格の根底から生ずる可笑味」がある。「自然そのままの可笑味がおつとり」と出ている。「傍観者の利己主義」などは必要ないのである。

 以上、「作者自身を相対化する視点」ににそって述べてきた。『羅生門』では、「正義と利己主義」という観念性で下人の心理が捉えられていた。そこでは、作者の恣意によって下人の心理が翻弄されている。他方『鼻』では、「鼻」という「物質」のもつ他者性・事実性により、作者の恣意は介在しようがなく、内供の意識がリアルに客体化されている。むしろ、「鼻」からは自由な池の尾の僧俗の心理を説明するときに、「傍観者の利己主義」という作者の恣意性が登場したことが、その反証となるであろう。
 作者を相対化する視点とは、作品の中で他者性が機能する場を確保することである、と結論しておこう。

1990年 nani記