(’98/04/06)『「内面」の終焉 』

    「内面」の終焉

 ――酒鬼薔薇少年にみる現代の精神風土――

 これは1998年の4月に書いたものです。『文芸春秋』3月号に検事調書が掲載され、メディアのあり方について論議を呼びました。直接そのことの可否には言及していませんが、その調書記事に触発されて書いたものです。
 あえて活字メディアとの関連でいえば、主意は「テクストの終焉」といったところでしょうか。

【少年Aの内面と外面】
 神戸児童連続殺人事件の犯人、少年Aの検事調書が『文芸春秋』三月号誌上に公開され、四月号には何人かの識者による考察が掲載された。調書の誌上公開の是非を問うものをのぞけば、やはり関心は少年の犯行動機をめぐるところにあつまっている。そして共通してうかがえるのは、少年Aの内面心理の不可解さへのとまどいである。
 供述調書は、犯行の具体的事実とその動機をあきらかにする目的をもつであろうし、その方向をめざして質問はおこなわれている。そして具体的行為事実に関しては、少年Aは隠すことなくたんたんと語っているようにみえる。
 しかし、心理的動機となるととたんに曖昧な供述となってくる。これは少年が意図的に隠そうとしているのではなく、問われるまではそのようなことをまったく考えたこともなかったからだと想像される。
 小学生のとき親しんでいた祖母が亡くなり、それから死について考えるようになったという。身近な死に遭遇し、それを契機に死を見つめはじめるということはよくあることだ。しかし、この少年が見つめはじめその後追求し続けた「死」は、われわれ一般が考える方向とはまったく違っていた。
 通常われわれが死というものを考えるとき、「誰もが死ぬ。自分が死ねばどうなるか。死後の自分とは……」というふうに内面化させていくものだ。ところがこの少年は、徹底して死の「外面」をたどっていくことになる。
 人間が死ぬときどのように反応するか、その後死体はどのように変化していくか、このような「死の外面」に対する好奇心が少年Aに宿った。手はじめにナメクジを殺してみる。次にはカエル、そして猫……。
 このような好奇心の延長上で、現実に複数の小学児童を死に至らしめる犯行が行われてしまった。通り魔的に女子児童たちを襲った犯行では、ハンマーやナイフなど、凶器をいろいろと意図的に変えて手ごたえの違いを確認してみたという。
 そしてついには、男子児童を殺害して首を切断するという猟奇的な犯行に至るが、このときは首を絞めて殺すという行為を試したかったと供述している。
 その後の被害者の男児の首を切り落とす場面では、すくなくとも供述書にみるかぎり冷静そのものだ。首を切る作業は解剖医の手際であり、切り落とした頭部を観察する視線は科学者をもおもわせる。
 このような少年の冷静さは、むしろわれわれをして冷酷と感じせしめる。なぜなら、少年の心理には行為の異常さにたいする躊躇や懸念がいささかもみられないからだ。そして人はおもう、彼には「人間の心」というものがないのであろうかと。
 そう、人々の想いにぴったり収まるような「内面」が欠落しているのである。それが人をして恐怖に追いやる。自分の身辺にもこのような内面を欠落させた人間が何食わぬ顔で生きているとすれば……。
 しかし考えてみればいい。人々が想定するような「内面」をもった人間というものが、太古から普遍的であったのかどうか。罪の意識だの良心の呵責といったものを、いつの世の犯罪者ももったのであるかどうか。むしろそのような「内面」こそ、「われ思う」というデカルトの一節とともに、われわれ近代人が獲得したひとつの思考パターンにすぎないのではないか。
 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、「内面の発見」ということについて書いている。近代文学に描かれる人間の内面性というものは、けっして普遍的に存在したものではない。近代文学の誕生とともに「発見」されたものである、と。
 もちろんこれは、以前からあった「内面」を見つけ出したということではなく、近代文学をになう口語文、口語文学の誕生とともに「創り出された」ものだという意味だ。われわれがあたりまえの前提としている「内面性」というものは、じつは歴史的な起源をもつものであって、それはたかだか近代という最近の出来事でしかないというのである。
 いまこの説を子細に検証している余地はない。しかし、われわれが、「内面性」という歴史特殊的な枠組みの中で思考し判断していると想定してみることはできる。そして、われわれが普遍的に同等な「内面」を共有していると考えるのは、たまたま同じ文脈上で思考しているからにすぎないのではなかろうか。
 とすれば、少年Aに「普遍的なこころ」が欠落しているのではなく、たんにわれわれが誰にでもあると思いこんでいる「歴史特殊な内面」が欠けているというだけのことになる。そして少年は別な内面をもっているのだと考えてもおかしくはない。
 当然ながら、少年に心理過程がまったく無いなどいうことはありえない。さまざまな行動目的にそってあれやこれや思いめぐらし、そのつどわれわれよりも的確とおもえるようほどの判断をくだしている。おのれの行為の異常さに慄きうろたえるかも知れないわれわれよりも、少年はきわめて合目的な判断にもとづいて行動しているとおもわれる。
 「殺している時の気持ちはどうなのか」ということに興味があったと少年は言う。これはすでに観察者の視線だ。自分の気持ちを、オブジェとして外面から眺める目付きである。人を殺すことの意味や殺される相手の気持ちなどには、少年の関心は向かわない。なぜなら、そのような意味での「内面」などはそもそも少年の側にないからだ。
 となれば、われわれが自分の心を「内省」することによっては、少年の「内面」と出くわすことはありえない。逆に、少年の行動や言動という「外面」から再構成してみるしかないだろう。
 「バモイドオキの神」だとかナチスドイツのハーケンクロイツェルをもじったマークだとか、たぶんにマンガやテレビゲームからの連想が考えられる。それらに散見される死の映像は、ふんだんに彼の頭に定着していたであろう。それらと、他方で祖母の死からはじまった具体的な肉体の死とのイメージのギャップが、彼をして「実験」に向かわせたと考えられる。そして、現実の犯行によって具体的にダメージ度や手応えを確認することになる。
 ここで、殺される相手や殺す自分への思慮はまったくみられない。小さな子供がカブト虫の頭と動体を引きちぎるとき、カブト虫のココロや自分のココロの痛みとは無縁なのと同じである。それを人は子供の無意識の残虐性と呼ぶが、それはすでに「われわれの内面」から想定したものにすぎない。
 むりやりに少年Aの内面というものを想定してみると、そこにあるのは、インプットされたさまざまなイメージと、それを現実化させる好奇心と、そして目的指向的な思考とでしかない。そして、人は通常それらだけでは「内面性」とは呼ばないだろう。
 かように、少年Aはわれわれが想定するような「内面性」とはまったく無縁なところで思考している。それでも人は、彼の供述の中から「内面」の断片でも読み取ろうと努力する。
 「もう一人の僕」の中で被害者男児が文句を言っているように感じた、というような供述がある。そこに、わずかながらも彼の良心の呵責が残っていると期待することができるかもしれない。しかしこのような少年の「感じ方」自体が、すでにわれわれの「内面」とは位相が逆転しているのだ。
 供述では、殺されたB君の心の内を想像するのではなく、「僕の中」にB君の魂が登場してきて文句を言うという形をとっている。彼にとって現実感をもてるものは、目の前にある「死体とその魂」であって、被害者の「内面」というようなものは想像すべくもない。

 被害者の「内面」を思いやれば、それを自分の「内面」に取りこむことになり「良心の呵責」という方向にすすむだろう。しかし、少年から相手の心の内に入り込んでいくことはなく、目の前にある死体の「魂」の方から文句を言ってくると感じられるのだ。この場合の「魂」は、被害者の「心」や「内面」とはまったく別のものである。

 これは少年にとっては物理的現象に近いものであって、いわば彼は「外面性」とだけ向かい合っている。だから「死体にまだ魂が残っているので文句を言う」のだと思い、死体から「魂を取り出せば黙るだろう」と考える。
 現に彼は被害者の血を飲むという形で、徹底して外面行動で対処する。「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められる」と考えて実行するのである。物理的な「血」が汚れているのであって、けっして自分の「心=内面」が汚れているとは考えないところに注目すべきだろう。
 「幼い子供の命を奪って、気持ちよいと感じている自分自身に対する嫌悪感」というのも、そのまま良心の呵責の顕われなどと受け取ることはできない。そこには取調べ官の無意識の誘導というものが介在していると考えられる。聴取検事やわれわれ読者が前提とする「内面の物語」と和解させるために、そのような供述が必要だったというだけのことであろう。

【われわれの「内面」の行方】
 さて、このような「内面の不在」は、このA少年だけに特殊なものであろうか。A少年の異常性格というふうに、この事件をわれわれの「あちら側」に置いてしまえばいささかの安心はできる。
 たしかに殺すことや死体への彼の関心は異常なものである。しかしそれは関心の方向性の違いだけであって、「内面の不在」そのものはわれわれの身辺にあまねく存在しているのではないか。
 たとえば、栃木県の中学校で女性教師を刺殺してしまったバタフライナイフの中学生はどうか。多くの教師たちが、これはいつ自分の学校で起こってもおかしくない事件だと感想を述べている。それほど、現場教師にとっては普通の状況だと考えられているわけだ。
 この中学生は、普段は「普通の少年」だったと報じられている。ところが教師の忠告に、突然キレて事件を起こしてしまった。普段はかろうじて維持していた「内面性」が維持できなくなりキレてしまった、と一応は考えられる。しかし、そのように簡単にキレてしまう内面性とはなんだろうか。
 そこには、われわれが想定するような善悪の判断といった倫理に結びつくようなものはなにもない。彼らにとってそのようなものは一向にリアリティをもたず、たんにルールを踏み外すと面倒だといった、まわりの目に対する意識でしかない。したがって、周囲の目や事後の面倒さを考える余裕がなくなるとさっさとキレてしまうのだろう。
 それはわれわれが思っているような「内面」などではなく、外面的な規制に対して取り繕っているだけのたんなる「体面」だと考えたほうが間違いない。
 このような状況は、学校や教師に対する関係だけではない。中高生一般の交友を観察してみると、お互いの内面に深く入り込むような関係をもつことはほとんどない。彼らは、かつてのように思春期の悩みを語り合い共有するといった交友を拒否しているようにみえる。
 興味や関心が共通する部分だけで付きあっているのだ。交友関係までもが、さしあたっての「体面」だけで維持されている。というより、立ち入りあうような「内面」など、そもそもが彼らにはあり得ないのであろう。
 では、大人たちはどうか。たしかに現実社会と直面しているだけに、生徒・学生とはちがって維持しなければならない「体面」は多いだろう。企業人であれば企業人として保たなければならない体面があるだろう。
 しかし企業や組織からはずれて体面が不要になったとき、はたしてそれでも残る「内面」というものがあるかどうか。会社人間が長年勤めあげて定年退職したとき、はたと突き当たるのが自らの「空虚な内面」だろう。
 人は、向かい合っていた外面がなくなったとき、自らの内面を覗き込む。そして、その内面の空虚さと直面する。しかし自らの「内面」があると信じて生きていて、いざとなれば「内面」を参照して行動指針を見出せるという信仰こそ、無意識にうながされた「内面の思考」に沿ったものだといえる。
 また、自らを規制する「外面」が消えさったときだけではなく、外面的な物事がうまく行かなくなったときにも「内面」と相談することになるだろう。しかし、そのような場合に「倫理とは、善とは何か」と考えたところで現実の役にたつことはほとんどない。むしろ、現実的・外面的な努力をかさねて打ち勝っていくしかないことを経験上知っているはずだ。
 われわれは日常生活のうえでは、さほど「内面」を重視しているわけではない。自動車を運転しているとき、まわりの車の流れにそって走れば自動的に速度オーバーになるし、所用で車を止めれば駐車違反になる。そのようなときに、いちいち罪の意識をもって煩悶しているわけではないだろう。となれば、何のために内面性を信じているのか。
 結局は、どこかで分かり合える「同じ人間」だという安心を得たいためではないか。毎日顔をあわせる家族や職場の同僚は、同じような内面性をもちなんとなく分かり合えるはずだし、突然に突拍子もない行為にでることはないだろう。そのような、安心のもとに日常を生きている。
 そのような漠然とした安心のもとにあるとき、いとも簡単に内面を放棄してキレてしまう若者たちをみて不安に苛まれる。そして、なんら内面性のかけらも感じさせない少年Aの行為に遭遇して慄然とするのである。
 少年Aの通常でない死への関心は、性格の特異性として、われわれの埒外に排除してすますことはできるだろう。しかし、少年Aが純化モデルとして示してしまった「内面の欠落」という問題は、すでにわれわれの周辺に蔓延しているし、またわれわれ自身がその兆候をはらんでしまっていると考えるべきであろう。
 「内面の発見」ということで、それがけっして普遍的なものではなく歴史的始原があったと気づいたとき、それは同時に歴史的終焉があるものだということをも意味している。そもそもそのような「発見」は、その終末期におよんでこそ見出されるものなのだ。われわれはすでに、「内面の終焉」に遭遇しているのである。
 となれば、いたずらに内面のノスタルジーに逃げ込むのではなく、いま現前しつつある「内面なき世界」を前提にものごとを捉えなおしてみる必要があるだろう。
 このような前提に立つとき、むやみに教育の復権をとなえることの無力さが明らかになってくる。われわれが家庭や学校の教育力に期待するところは、とどのつまり社会性の内面化であり、それによって社会の安心と安全が確保されることであったはず。ところが、そのような「内面」の受け皿自体がもはや期待できないのであるから。
 家庭や学校の教育が無力であるのは、「内面性欠落」の原因ではなく、逆に「結果」なのである。となれば、いまや家庭の両親や学校の教師を人身御供としてやり玉にあげるだけでは問題は進展しない。むろんそれは彼らを免責する理由にはならない、とはいえ。
 もちろん「内面無き世界」というのは、ひとつの極端な仮定であろう。しかし、このような想定をすることによってはっきりしてくる問題がある。
 まず当面は「内面信仰」ではなく「外面」を重視せざるを得ないであろう。近代における法や契約という概念は、そもそも土着的な共同性がくずれて「何処の馬の骨か分からない」者とも付き合っていくために出てきたものだ。「内面」を期待できない相手でも、「外面」の一貫性が維持されれば折り合いをつけることができるわけである。
 他方、個の自立という方向で「内面」をもった近代の「人間」というものが誕生してきた。そのような人間が、ひたすらエゴのみを追求すれば「万人が万人にとって狼」となってしまう。そこで、法や規範を内面化した「人間」が必要とされる。そのような「内面形成」が期待されるのである。
 前近代の土着的共同社会では、このような「外面」と「内面」が未分化で一体化していたと考えられる。他方、両者を分化させてしまった近代では、それらの再統合が必要となってくる。そして、「子供の教育」という問題もそこに発生する。
 近代の教育は、アイデンティティの確立という「個の自立」側面と、「規範の内面化」という二つの側面を担ってきたのである。ところが生徒たちがそのような「内面」を拒否しだしたとすれば、そこに「教育の無力」という問題が噴出してくるのは当然である。
 これまでなんとか教育が成り立っていたのは、前代から持ち越された共同性が残っており、その上に学級経営というような共同性が組み立てられていたと考えられる。それは地域社会の共同性であり、家庭における共同性であったはず。その上に乗るかたちで「内面の教育」も可能であったのだ。ところが、それらの共同性がいまや崩壊しつつあるのである。
 アメリカのように校内で生徒が銃を乱射するといった状況になれば、これはスカートの丈を測るといった校則のレベルで対応できるはずがない。そして我が国でも、中学校に生徒がバタフライナイフを持ち込んでいるのである。「外面」は外面として規制を徹底しなければらないのは、緊急の要として自明であろう。
 他方で将来の展望として、「新たな内面形成」が可能かという課題が残される。前述したように、「純粋な個の内面」というようなものは幻想であって、それはなんらかの「共同性」のもとに形成されるものであった。
 歴史的に残存していた地域的な共同性はすでに風化しつくしている。唯一近代において存在をゆるされた「家庭」という最小単位の共同体でさえも、核家族化・共働き・離婚の増大という流れの中で、共同性を維持できなくなっているのである。
 となれば、ほかに共同性の基盤を見つけられるかどうか。既存基盤がないとすれば、まったくゼロの地点からなんらかの共同性が創り出せるのかどうか。われわれは、このような困難な課題を担っていく地点に立たされているのである。
 「内面の終焉」という視座をもち込んでみれば、連続児童殺人事件の少年Aがわれわれに突きつけた問題は極めて深刻である。それは事件の残酷さ・悲惨さだけのことではなく、われわれの社会自体が「少年A」を孕んでしまっているという深刻さなのである。
 あの事件がわれわれに呼び起こす不安と恐怖は、われわれの自身の「内面」における不安と恐怖なのである。

(了)
1998.04.06 nani記