(’97/12/30)『マルチメディアがもたらす私たちの暮らしの変革』

マルチメディアがもたらす私たちの暮らしの変革

――技術やシステムから人々の生活へ――

(これは1997年12月に、さる投稿用に書いたものです。 その後どのように変わったか、比較してみるために掲載します。)


 1980年、アルビン・トフラーの『第三の波』がベストセラーになり、ニューメディアと来たるべき社会の関係が話題になった。このころ我が国でもベーシックを搭載したパーソナルコンピュータが市販され、われわれ一般人でもコンピュータを所有できる時代になった。その後もエレクトロニクス技術の進展はめざましく、われわれがニューメディアを利用する場面が増え続けていることは間違いない。
 しかしそれから20年近くになろうという今日、はたしてトフラーが描き出した「エレクトロニック・コティジ」での生活が具現しているかというとそうでもない。今日でも一般的なサラリーマン家庭では、夫は毎朝満員の通勤電車で出社するし、妻はいそいそとパートタイマーに出かける。そして子供たちは学校で一日の大半の時間をすごすというのが現状である。
 たしかにオフィスではパソコンが何台も導入され、本支店間のネットワーキングなども進んでいる。他方で在宅勤務が唱えられ、一部専門技能をもった者は自宅で業務をこなす場面もでてきている。しかしわれわれ一般人の家庭はというと、いまだ電話とテレビジョンが主要な情報メディアであって、パソコンも普及したとは言えいまだ充分に使いこなされているとは言い難い状況であろう。
 1990年代前半にはマルチメディアが取りざたされ、CDドライブを搭載したマルチメディアパソコンと称するものが店頭に並べられた。たしかに音と画像が処理できるパソコンは、それまでの文字処理が主体のものと比べると画期的ではあった。
 しかし画像処理能力は静止画像を表示するのが関の山で、大量のデータ処理を必要とする動画は既存のテレビジョンやVTRには及ぶべくもなかった。目玉として囃されたビデオ・オン・ディマンドなどは、なによりも情報通信インフラの未整備により夢の夢におわり、パソコンメーカーの口実に利用されただけであった。
 その後、1995年のウィンドウズ95のリリースとともに、一挙にインターネットブームがやってきた。マウス操作で使いやすさを売り物にするウィンドウズと、画像音声を文字情報とともに扱えるインターネットWWWの登場は、相伴ってインターネットをわれわれに親しみやすいものとした。
 光ファイバー網などの大量情報通信媒体の全面普及を待つまでもなく、既存の電話線などを縦横に活用して各家庭が世界中とネットワーキングしてしまった。居ながらにしてホワイトハウスのホームページにアクセスし、クリントン米大統領に電子メールも送れてしまうのである。
 インターネットそのものの使用料は無料であり、必要な通信費用は電話料とプロバイダー接続費用等せいぜい一分間あたり数十円程度。しかも世界のどこと接続しようとも一律であり、このコスト面での世界の一体化はきわめて大きい。使用言語の問題を除けば、インターネット上では世界との距離感が消失してしまうのである。
 このようにして、とにもかくにも世界とのネットワークが身近になった今、私たちの暮らしの周辺でマルチメディアはどのように展開してゆくのであろうか。

 言うまでもなく、私たちの暮らしのマルチメディア化で要石となるのはパーソナルコンピュータであろう。
  テレビ・VTR・電話・ファクシミリワードプロセッサー、これらの画像・音声・文字情報処理機器が一体化するためには、パーソナルコンピュータによるデジタルネットワーク化が不可欠である。また、そのように一体化したコントロールができなければ真のマルチメディア化とは言いようもない。
 パーソナルコンピュータは、画像・音声・文字といった異種類の情報を統合して処理可能な「汎用性」をもつ。また、ハード的な機能だけではなくソフトウェアによりどんどん機能が増加するという「進化性」をももつ。
 この二つの特性が相伴ってマルチメディア化のコントローラーとしての重要な役割を担うのである。ところがこの両特性こそが、パーソナルコンピュータの「家庭化」をはばむ原因ともなっている。
 電話は受話器を取りダイヤルするだけで相手につながる。テレビは電源を入れてチャンネルを選択するだけで見たい番組が登場する。このような簡便化は、それぞれが単機能に特化しているからこそ可能である。
 ところが汎用性・多機能を前提とするパーソナルコンピュータではそうはいかない。100以上ものキーがあるボードから複雑な入力をしなければならない。マウス操作が標準となったウィンドウズでも、幾つものアイコンボタンをクリックしたりアプリケーションソフトの操作をマスターする必要からは免れることができない。
 パーソナルコンピュータの「進化」も、扱い慣れていない人には厄介なしろものである。ハード面での急速な進化でしょっちゅう買い替えなければならないという脅迫観念をもたされるのも問題であるが、それ以上にアプリケーションの進化に悩まされる。
 常にソフトのバージョンアップを心がけねばならないし、新しいアプリケーションもどんどん出現する。このままの機能で充分だと考えていても、嫌でも対応を迫られることが多い。たとえば、旧いインターネットブラウザだと表示されないページが主流になってきた場合、これはバージョンアップしないで済ませるわけにはいかないだろう。
 このような「汎用性」と「進化性」はパーソナルコンピュータの宿命でもある。しかしながら、電話をかけるために「電話送受信教室」に通う人がいるだろうか。テレビを見るために、複雑なメンテナンスの負担を担おうという人がいるだろうか。そういう意味では、パソコンは「便利な機械」ではあるがけっして「使いやすい機械」ではないのである。
 一般家庭人がマルチメディアの提供する利便・娯楽を享受しようとするとしても、パソコンを操作したり使いこなしたりすることそのものは目的にはなり得ない。一般人はパソコンそのものには何の関心もない、ということを前提にしておかなければならないであろう。

 さてホームユースのマルチメディアを考えるにあたって、パーソナルコンピュータの機能は必須であるが一般家庭人にとってパーソナルコンピュータは扱い難いという問題が浮上した。一般家庭にいまのような形態のパソコンを持ち込むには無理があると考えた方が間違いないであろう。
 人間の生活感覚はきわめてアナログ的なものである。腕時計の文字盤でさえ、数字によるデジタル表示は減少している。時針によるアナログ表示の方が直感的に時間が把握しやすからであろう。となれば、人間が係わるインプット・アウトプットのインターフェイス部分は極力アナログ的であることが望ましいと考えられる。
 ここで近い将来のマルチメディア・コティジを俯瞰してみよう。ちょっと広めのリビングルームにはテレビジョンがあり電話機がある。ひょっとしてステレオ装置もあるかもしれない。一見してみて今とほとんど変わらない居間である。
 テレビを見るには、直接受像機のパネルをいじるか今と同じようなリモコン端末で操作するだけ。電話をかけるにも、当然ながら電話機のプッシュボタンを押す。せいぜい液晶パネルが付いていてテレビ電話機であることがわかる程度の違いである。部屋にはパソコンの姿は見えない。部屋の隅の簡易デスクにそれらしいものがあるが、よく見ればワープロ入力用のキーボードであって文書処理をしない家庭ではこれも必要ではない。
 キッチンやダイニングルームも特別な変化は見られない。ようするに、今とほとんど変わらない生活感覚でのホームライフが行われている。この「急激に変わらない」ということが近未来のマルチメディア化の要諦である。テレビジョンや電話が登場したときのような余程ドラスティックな利便性ないし娯楽性を提供するようなメディアでないと、安直には家庭人の保守性を変革させることはないからである。
 ではパソコン本体はどこへ行ったのであろうか。ホーム・コントロールサーバーとしてのパソコン(もはやそうは呼ばないだろうが)は家の玄関口あたりのボックスに収納されたままで、家人が直接手を触れることはほとんどない形態となっている。サーバーのメンテナンスは専門の保守会社がすべて担当する仕組みである。
 基盤の取り替えなどのハード保守以外ほとんどがソフト操作で済み、必要に応じて保守会社のオペレーターがオンラインで済ませてくれる。もちろんハード進化でサーバー本体の入れ替えサイクルも短いであろうから、すべて3年から5年程度のリース契約となっている。
 もちろんデータ処理から各端末機器のコントロールまで、実質的な統合処理はこのサーバーが「目に見えない所」で行っている。しかし、マルチメディアホームで生活する家族はそんなことを意識する必要はない。いままで通りテレビに向かってのスイッチを入れ、受話器を取って電話をかけるという生活スタイルを大幅に変更することはないのである。
 変わっているのは、受像機であれ電話機であれすべてサーバーと接続されており、デジタルデータ処理が目にみえないところでサーバーによって行われている点である。人間が直接対面する家庭内の機器は文字通り「端末」として、入出力のヒューマンインターフェイス部分と機械的駆動部分だけに特化しているのである。特化・分化すればこそ、「人に優しいインターフェイス」が実現できるのである。
 出力機能には、それぞれのメディアによって特性があるが当然である。テレビ・VTRはディスプレィ・モニター出力が当然であろうし、電話器は送受話器を通して行う。スイッチオン・オフなどの入力操作においても、それぞれの端末によって重宝な様式があろうし、利用する機器に直接向かって行う方が分かりやすいはずである。
 当然、リモート端末からも基本的な操作はすべてできるようになっている。携帯電話機程度の入力端末であり、キーの数も電卓や電話機のテンキー程度に限定されている。もちろん電話の送受話機能は付いているから、寝転びながらでも携帯電話と同じ感覚で使えるだろう。
 もちろん風呂場・トイレ・空気調節設備などの家庭諸設備から家庭用電化製品まで、すべてホームサーバーで統合コントロールされる。エアコン・洗濯機・冷蔵庫・電子レンジ・照明器具などもソフトコントロール機能はサーバーが担っており、各メーカからオンライン供給されるソフトのバージョンアップにより「進化成長する家電」になっていることであろう。

 これまで、テレビ・電話を中心に家庭情報メディアを述べてきた。それは、現時点でほとんどの家庭で受けいれられているメディアであるからである。インターネットのようなオープンネットワークも、既存の両メディアから独立した形で「すべての家庭」に割り込むことは考えにくい。というのは、それがパソコン操作を前提にしたメディアとして発展してきているからである。
 インターネットがテレビ・電話を取り込むというより、むしろ既存のテレビ・電話の補完機能として連動してくることが考えられる。もちろん事実上はオープンネットワークに入り込むことになるのだが、一般家庭人としてはテレビ・電話という既存のメディアを操作しているという意識のまま「いつの間にか入り込んでいる」という形になるであろう。
 言うまでもなくテレビジョンはマスメディアとして発展してきた。電波を通じて配信される情報はあくまでも一方向性が基本になっている。そこでCATVなどの双方向性が注目されてきたわけであるが、一般家庭から発信する情報としてどれだけのものがあるかということが問題になる。
 WWW上にホームページをあげればそのまま世界に発信していることになるのだが、それにはかなり能動的でクリエイティブな意識が必要である。ところが一般人がテレビを見ているときというのは、なんとなく流れてくる番組を眺めているといったきわめて受動的な状況が多い。さしあたってこちら側から発信しようという意識は少ないのである。
 したがって事実上一般家庭から発信される情報というのは、きわめて単純な情報が大半を占めると思われる。たとえばテレビショッピング番組でふと買いたいと思ったときに、TV画面に向けてリモコン端末のボタンを押すだけで買えるというような簡便性であったり、あるいは、番組がおもしろいと思ったときにボタンを押すと自分の投票が「一票」として即時に画面に反映された表示が出るとか、そのような単純な参加の仕方が中心となるであろう。
 もちろん番組製作者側にも、オープンネットワークでの視聴者参加を意識した番組作りが要請される。たとえば、クイズ番組などでタレントが解答者として出演して賞金とギャラを両方もらっていくのを眺めているよりも、インターネットを通じて即時に解答者として参加できる方が楽しいに決まっているし、現時点のインフラでもすぐにできるはずである。
 あるいは、深夜の長時間討論番組などで電話・ファックスでの視聴者意見を受け付けているが、オンラインチャットでリアルタイムに参加させればもっと面白い「視聴者参加」になるに違いない。視聴者が番組を見ながら商用パソコン通信やインターネットwwwなどのチャットボードでやり取りをする仕組みにして、それがテレビモニターの一部に表示させるようにすれば、現時点の技術でも充分可能なはずである。
 退屈な国会議事中継を延々と放送するのなら、同様にチャットボードから議事への意見が即時にモニター表示できるようにすれば、それこそ飛躍的に視聴率は上がるに違いないであろう。現状ではそのように双方向性を積極的に取り込もうとする意識が、決定的にテレビ放送製作者側に欠けているとしか言いようがない。

 一方電話はもとより「双方向通信」であるが、あくまでも一対一の私信の範疇にあり公開性がない。インターネットやパソコン通信のように見知らぬ人と知り合いになるという機会はまったくない。
 これには逆にチャットボードのように多人数同時トーキングのような「場」を提供すればよいだろう。たとえば「本日の料理」などという場があれば、夕食の献立にこまった主婦(夫)がそこに電話をかける。そこでは同じような主婦(夫)があれこれ検討している。それに参加して話している内にヒントを得れば、即座に惣菜の買い物に出かければよいのである。こういう利用法であれば、テレビ電話のように顔が見えるという機能も役に立ってくる。
 ようするに井戸端会議とテレビ会議が融合したような場が即座に成り立ってしまうのである。もちろん、ローカルのCATV局などが積極的にそのような「場=番組」を提供し、そっくりそのままTV番組として流すならば、その公開参加性はさらに広がるであろう。


 加速度的な技術発展をベースにした近未来のマルチメディア化予測が巷に氾濫している。しかしそれらには、普通の人間が普通の家庭で自然に使いこなすメディア、という視点が欠落しているものが多いのが現状である。
 「普通の人間」はパソコンを使いこなすことを目的としてはいない。あらたなマルチメディア機器が登場しても、今までの生活様式を大幅に変革するという苦痛を担ってまで飛びつくわけでもない。いつの間にか自然にデジタル統合環境とオープンネットワークが生活に入り込み、自然にその利便性と娯楽性を享受しているという流れが必然とされるであろう。
 マルチメディアは、我々の家庭生活にドラスティックに割り込んでくるのではない。静かに入り込み、静かに家庭生活を変革する。そのような流れの中で、自然に我々の生活様式も変わっていき社会も変化していく。喧騒なハイテクノロジー情報とは裏腹に、我々の生活に密着して「静かな革命」を引き起こすものこそ、手に届く近未来の「真のマルチメディア社会」の見取り図を提供するであろう。

(了)
1997.12.30 nani記