現代伝説考28 第六章.美女と湖水のフォークロア

深泥池には・・・

第6章.美女と湖水のフォークロア
 この最終章では幅ひろく「水」に関係する話題を集めた。現代の伝説を取りあげるにあたって、まず第1章「異空間伝説」を中心として現代人の生活空間に焦点をあてた。また第3章「人体と人格のメタモルフォーシス」を核としては、現代人の肉体と精神の関係をひろく取りあげた。ここで取りあげる「水」は、そのような現代人の体内を流れる血液であり、また都市生活者の相互間をとり結ぶ神経系統のネットワークともたとえられるであろう。

 水をいかに解釈するかによってさまざまな視点が考えられる。水に対する伝統的な心性や文明史的な観点などをふまえて論じるとなると、この小論の射程には納まりきらないであろうし、またわたしの手の及ぶところでもない。

 今回の試みではさまざまな噂話の投稿ばかりではなく、投稿者相互のあいだで熱心な議論考察もくりひろげられた。それらの見解はこの拙論でも各所で参考にさせていただいたが、とりわけ「水」に関しては次の「その筋」氏の考察が示唆的であった。本題にはいるまえに、その考察のなかの「流れる水と淀む水」の一部分を引用させていただく。

『#380-1流れる水と淀む水』
《流れる水は,物を運ぶ働きを持っています。日本の農村は,谷間である扇状地の中腹から上の方にかけて位置しているのが普通のようです。ちょうど,山にへばりつく形で農家が展開しているものが多いように感じます。
(私がすんでいる地域に特有の事であるのかも知れませんが)
 としたら,流れてきた水が<淀み>かけるその境に,その淀みを見下ろすような形で家がたちならんでいて,<淀み>から,田圃に水を引くことになっていたのでしょう。つまり,一本の川を,下の1,2,3の繰り返しで利用していたのではないかということです。新田といわれるものがだんだん下流域に作られていくという形で展開しているのではないかと考えます。
\3
  \1 2
    ----          1,集落
       \3        2,淀み
         \1 2     3, 田
           ----
# この辺は,詳しい方に教えて頂かないと解らないのですが,平野の中に都市
#が展開するのは,比較的近年の事ではないのでしょうか。
# この仮定が正しいかどうかは全く自信がありません。参考書などを教えて
#いただきたいところです。
 その農村に山から運ばれてきたものが,<肥沃土>と,利用可能な淀みの水なわけで,農村はそれにたよって生活してきたわけです。このとき,<肥沃土>の所有者は問題となりません。山から流れてくるものは,誰の物でもなくたまたま堆積した土地の所有者のものとなります。桃太郎も,川を運ばれてきて第一発見者の所有物となるわけです。
 さて,上に述べた仮定が正しいものとすれば,<淀み=淵>は,<何かが流れてきて,そこに留まる>場所と定義できることになります。また,農村の生活からみると,そこは生活するための基盤であることになります。淀みがなくなることは,直ちに<水不足=飢饉>を意味するからです。また,下流の村からすると,上流の<淀み>は,水不足となる原因であるのは勿論ですが,豊かでありすぎれば洪水を引き起こすのですから自分たちの生活を脅かす<悪>ということになり,ここに,<淀み>に対する<2重価値>が生じてくることになります。善であり同時に悪であるものが,<淀み>なのではないでしょうか。
 とすれば,ここに潜むものが善神と悪神の<2重価値>をおわされるのも必然的なことです。<河童>は,淵に人を引きずりこむと同時に,律儀に妙薬を人々に与える存在ですし,<龍神>は,人に害を与える神であると同時に,雨をもたらしてくれる神でもあります。》

 この考察にある「流れる水と淀む水」という概念を念頭において、以下の水にちなんだ話題をながめていってみようとおもう。

1.水と女
 この項の分類で中心となる話題は、「現代カー伝説」の章でも紹介した「消えるタクシー女性客」の系列のものが典型的である。都会の道路を現代の川にたとえれば、そこを走るタクシーなどの自動車は「川を流れる水」と解釈できるだろう。そして女性客の消えさる場所は、池や湖のそばであることがおおい。ここで、その筋氏の「流れる水/淀む水」という解釈を借用すれば、女性は「流れる水」にのってやってきて「淀む水」のところで消えるということになる。

 現代人たちは、都会という川に流されて生活している。そして流されながら、どこかゆっくりと定着する場所をさまよい求めている。そのような都会人の心性を、これらの噂の背景に想定してみることができようか。とするとシートに残される水は、現代人の汗であり涙であり、かつまた唯一の危うい存在の証であるのかもしれない。

 一方で、ヒロインたる「消える女性」の解釈もやっかいなしろものである。彼女たちは、けっして母親や既婚女性の気配を感じさせず、ある種の処女性のイメージを漂わせている。あるいは、あとに残される水から妊娠出産を想定するとしても、「水子」のようなこの世に定着できないはかなさにしか結びつかないところがある。源氏物語の夕顔のような、あやうい女性像へのベクトルをもっているとも考えられるのである。

1-1.深泥池(みぞろがいけ)伝説
『#106-1深泥池のタクシー女性客』
《深泥池(みどろがいけ)の消えるタクシーの女性客
深夜、京都市北部の深泥池の先を指定する女性客が、深泥池付近を通りかかると消てしまいシートが濡れている、という話。
 類似の話は、各地にありますね。》
 「深泥池伝説」は、まず典型的な「タクシー伝説」として投稿にあらわれた。そしてそれに現代の舞台背景と今日的な解釈をしめす投稿がつづく。

『#114-1深泥池のタクシー女性客』
《「深泥が池」は、名前からしておどろおどろしいですね。古代からの植生群などが残っていて、底無し沼のような不気味な雰囲気が漂っています。あそこに生えているジュンサイ(字が判らないが「純妻」ではない(^^;>純さん)は、トコロテンのような透明でヌメヌメしたものが茎のまわりに付いていて、味噌汁のミにするとオツな舌ざわりがなんともいえません。この水草を採りに池に入って、「泥」に引き込まれてしまった人が多いとも聞いています。夏の夜など、その「ヒトダマ」が植生群の間を漂うそうです。(蛍の見間違い、という説もあり)
 池の縁に沿った坂道を、北部の岩倉方面に向けて登っていくと、ひっそり閑とした病院があります。かつては結核療養患者の専用病院だったと思います。この病院で亡くなった人の亡霊が、深泥が池に「出る」という話しも聞いた事があります。「タクシーの女性客」は、病院が懐かしくて帰って来られるのかもしれませんね。シートが濡れているのは、もちろん「おもらし」ではなくて(^^;、池の水のせいでしょうね。》
 幽霊ということから、いまでも不気味な雰囲気をただよわせる深泥池とその付近にある結核病院が結びつけられる。この付近の地理を知っている人々にとっては、さしあたって妥当な結びつきであろうとおもわれる。

 ここでまた、その筋氏の「水」の解釈を援用させていただこう。陰陽五行説にもとづく解釈である。

『#351-1<壬,癸>ということ』
《この世界解釈では,水を産みだすものは金
          水が産みだすものは木
          水を妨害するものは土
          水が妨害するものは火
 という基本原則があります。五行配当表によると
<水>を表すいろいろなものは 黒色,北方,冬,聴覚,智,塩味
 時空系は 亥 21−23時  10月
      子 23−1 時  11月 北
      丑 1−3  時  12月
                (旧暦)
水の陽(壬)みずのえ  海洋,大河,洪水の水 生命の種子が妊まれる 1
水の陰(癸)みずのと  水滴,雨露,小流の水 種子の内部に生まれた 6
                       ものが揆(はか)れるぐらいにそだった。
 ということになり,基本的に<暗く冷たい,妊娠状態>を表しているということになります。丑三時が,草木も眠ると言われているのは,まさに,発芽直前の状態を表しているからでしょう。したがって,この時間に出現するものは<生命体>となり得ない<生命現象>と捉らえることができます。
 そういえば,死体が水の中に捨てられる事の,心理的原因をここに求めてみても,いいのかもしれません。
 その意味で,丑寅の方位(北東)が,表鬼門であるのは,生命の誕生の時にあたるからで<生命誕生>が,一つのけがれであったとする先のご隠居さんの説明にもよくあてはまります。(ついでに言えば裏鬼門(南西)とは,生命の真っ盛りに忍びこむ衰えへの移行の時期にあたるからのようです。)
 また,北西の方角は<死>そのものを表すことになり,ここが一つの<妖怪>の発生しやすい地帯であることも,思い当ることです。
 この観点から,<深泥が池>のきえる女性は,ぴったり説明が効きます。場所は京都の東北,<形をとりきれない生命が儚く表れ,再びその本来の性質である水に戻る>のです。》

 「形をとりきれない生命」ということに注目したい。「消える女性客」は、なにか「形」をとりきれなかった怨念から現れるのであろうか。

 さてここで、さらに「深泥池の古伝説」が登場する。

『#261-1深泥池の古伝説』
《中世から江戸期に盛んだった説教浄瑠璃に「をぐり」というのがあります。小栗判官の物語でその一部を紹介しますと、
 小栗殿は、つひに定まる御台所のござなければ、・・・鞍馬へ参り、定まる妻を申さばやと思ひ、二条の御所を立ち出でて、市原野辺の辺りにて、漢竹の横笛を取り出だし、・・・・半時がほどぞ遊ばしける。深泥池の大蛇は、この笛の音を聞き申し、・・・・十六・七の美人の姫と身を変じ、・・・・
と、深泥池には、昔からこういう類が住んでおったということです。
なお、深泥池は天狗でお馴染みの鞍馬への途中であるだけでなく、現在も丑の刻参りに訪れる人がいる貴船神社、憑き物を落とすことで知られる岩倉観音の道でもあります。ちなみに、岩倉観音の周囲には、憑き物を落とす人を止めたり、あずかる所が立ち並び、後に近代医学の導入にともない、それらの宿は病院に商売変えしたということです。
 深泥池はそういう所です。》
 「現代の深泥池伝説」を語りあう人々には、かならずしもこの古伝説が意識されているわけではないだろう。しかし民衆の意識の底にある古伝説が、現代深泥池伝説と重なりあって噂の重層的な立体感をかもしだしていると考えることはできる。

 「深泥池の大蛇」は何を意味するのであろうか。深泥池は、かつての都の東北部に位置し洛外にあたる。かつて都から排除された一族の、なれのはてなのかもしれない。いずれにしても、「形をとりきれない生命」であることはまちがいないであろう。

 引用の後半にあるように深泥池の後背部には、都から排除されたものどものまさに魔界の巣窟といってよいような空間がひかえている。すぐ奥の岩倉には戦前から精神病院があり、京都の住民にはよく知られている。すぐそばの結核病棟よりも、さらにいっそう排除された人々が押し込められたことであろう。

 ここでまた現代の「肉体と精神」の主題が回帰してくる。「形をとりきれない生命」は、かつて「肺病やみ」とされ遠ざけられた肉体や、「気ちがい」として排除された精神であった。しかし現代ではもはや「排除」という手法はかぎりなく無効化されつつある。エイズや癌はいわばわれわれの細胞そのものの病いであり、排除するならば原理的にはわが身そのものをも排除しなければならない。精神の病いにおいても、正常なはずのわれわれの精神との境界はほとんど取り払われつつある。

 M・フーコ流にいえば、近代理性は「狂気」を排除することにより、はじめて明瞭な形をとり得た。「明瞭な形」をとるためには、排除が不可欠であったのである。そしてその手の内が暴かれつつある現代では、安直な排除の手法は使えない。さらには上述したように、現代人にとって排除は原理的に不可能な手段であることもあきらかになりつつある。

 となれば、われわれ現代人は「形をとりきれない生命」として大都会をさまようほかないのであろうか。小栗判官の笛の音にさまよいでる深泥池の大蛇は、われわれ自身のうつし身かもしれないのである。

1-2.水と女性の霊
 ここでは、明確には「消える女性客」の形をとっていないが、水と女性の霊に関連した話題をひろく取りあげてみよう。

『#24-1霊を感じる池』
《近くに大谷池というキャンプ場があります。ここはフィールドアスレチック、キャンプサイト、サイトごとに木で作ったベンチとテーブルなどがあり、サンコウチョウという珍しい鳥が営巣するほど自然に恵まれたところなのですが、なぜかキャンプする人がほとんどいない。昼間はバーベキューや宴会で賑わうのですが、夕方になるとみな帰ってしまうのでした。
 その原因というのは昔その池で髪の長い女性が自殺したらしく、その亡霊がときどき出るからだそうです。教えてくれた女の子は霊感が強いらしく、その池に行くと「感じる」そうです。》
 キャンプ場も一種の宿泊施設であり、人のたまり場である。そしてそこにある池となれば、「淀む水」のある場所でもある。この池で自殺した女性はタクシーにこそ乗ってこなかったにしろ、死に場所をもとめてさまよってきたことであろう。「流れる水」のごとくただよってきて「淀む水」に消えた。強引な解釈とはいえ、やはりひとつの「形をとりきれない精神」が、はかなくさまよい消えていった足跡をしめす逸話ととらえてもよかろう。

 「髪の長い女性」としかしるされていないが、影のうすいうら若い美女と想像するのが噂にはふさわしい。そのような聞き手のかってな願望が、噂の伝播をささえ恐怖のロマンを形成していく。形の定まらない透明な水には、先行き不定形な処女性がなじみやすいであろうし、そしてまたその霊を感知するのも若い女性がふさわしいのであろう。

『#33-1狭山湖の幽霊』
《十数年前、埼玉の所沢市に住んでいたんだけど、郊外に多摩湖狭山湖という「貯水池」があります。(関東の人のいう「湖」って、どうみても「池」なんだよなぁ。ボクなんか、湖て言われると琵琶湖ぐらいのを想像してしまう。)
 そこの堰堤に、以前に飛び込んだ女性の幽霊が出るとか出ないとか(野郎の幽霊って聞かないなぁナゼダロウカ?)。「感じる人」が、そこで実際に「感じる」かどうかは知らないですが、堰堤に止めた車の中で「感じている」アベックさんはたくさんおりましたどす(笑)。
 そこの水源からは、東京都のかなりの地域に飲用水を供給してるんですね。で、この手の「池」は、普通、年に一度くらい水をほして底を浚ったりするのですが、ここの池の底を見た人はいないらしい。
 この貯水池では何人もの自殺者が出てるのですが、死体が上がった事がないそうな。んで、東京都が管理してるらしいが、絶対にここの水をほさないんですって。だって、水がなくなると貯水池の底から、白骨死体がうじゃうじゃと・・・。てなことになるとまずいでしょう(^^;。
 (東村山浄水場からの水道水を飲んでる人、この項読まないように(^^;)》
 ここでも、なぜか女性の幽霊である。水辺の幽霊には男性のもつイメージがふさわしくないのであろう。水辺に消えた女性と、そんなこと露にもおもわずロマンスをたのしむ男女を乗せた幾台もの車。亡くなった女性も、かつてはそのようにしてこの湖畔を訪れたのかもしれない。しかし、そのなれのはては水底にしずむ白骨でしかない。

 その水が、大都会の飲用水として供給されるのは皮肉である。「淀む水」に沈んだ女性は、あらためて清浄な水道水として「流れる水」に変えられていく。ひとつの「形をとりきれなかった命」などとは関係なしに、世界はまわりつづけてゆく。

『#109-1松山城の女の幽霊』
松山城の堀の内には、現在は図書館をはじめいろいろな文化施設がありますが、太平洋戦争前は陸軍歩兵(だったと思う)連隊がありました。その当時の話。
 あるとき門番をしていた兵士が外を見るとひとりの女が立っている。何度か誰何したが返事がない。しかたなく規則にきまっている通り銃剣で刺し殺してしまいました。
 実は、この門番、急用ができたた他の兵士の代わりに当番をつとめていたのです。女は、その急用のできた兵士の恋人で、当番にあたっている日に示し合わせて、会いにきていたのでした。誰何を冗談だと思ってはにかんでいたのです。
 その後、女の幽霊が出るようになったといいます。》
 兵営は兵士のたまる場所であり、また城郭の掘という「淀む水」の場所でもある。恋する兵士に引きよせられて来た女性は、当然「流れる水」にたとえられる。戦前の、ひとつの「形をとりえなかった恋」の悲劇である。

 もうひとつ、キャンプ場の話。これには水はでてこないが、キャンプ地そのものを「淀む水」ととらえておこう。

『#205-1ローソク女』
《これはぼくが早稲田大学に在学中の頃に聞いた話ですから、もう27年ぐらい前になりますが、当時学生の間ではかなり知られた話だったようです。ぼくの記憶のあいまいな部分を、どなたか補っていただけると幸いです。
 山で学生の一団がキャンプしていました。夜になって半分ほどの学生が眠ってしまい、あとの半分が起きているとき、着物を着た女性が訪ねてきて、「火を忘れてしまったので、ローソクを貸してほしい」と言うのです。起きていた学生たちが一本のローソクに火をつけて渡すと、女性は礼を言って帰りました。
 ところが暫くすると、またくだんの女性がやってきて、「火が消えてしまったので、もう一本貸してほしい」と言うのですね。結局、そういう女性とのやりとりが、とうとう4度も繰り返されたのでした。
 怪しんだ学生たちは翌朝、ぐうぐう寝込んでこの事件を知らなかったはずの学生たちに、その話をしました。すると、彼らは「何を言ってるんだ。寝込んでいたのはお前たちで、女性にローソクを貸してやったのはおれたちだ」と言うではありませんか。互いに「おれたちこそ起きていたんだ」「お前たちは夢を見ていたんだ」と、大騒ぎになってしまいました。
 不思議に思い、学生たちは打ち揃って、前夜女性がやってきたと覚しき場所へ行ってみました。すると、4本ずつ二組のローソクが重なり合うように、つまり8角の星型に並べられてあるのが、見つかったものの、そこにはキャンプの跡などどこにもなく、学生たちはきつねにつままれた面もちで帰ってきたそうです。
 という話を、ぼくは後輩の学生から、本人の体験した実話として聞き、ぞーっとしたのですが、別の学生にその話をしたら、それはよく聞く噂話だと一笑にふされ、自分がかつがれていたことが分かったというわけです。》
 水はでてこないかわりに、ロウソクの火が主題になっている。火もまた「明瞭な形をとりえないもの」ではある。消えてしまった生命の火を、何度も燃やしつづけようとするはかない努力なのであろうか。

 残るひとつは遊女たちの霊の話である。

『#165-1遊女の島』
三重県松阪郊外出身の母から聞いた話です。
 阿児の渡鹿野(わたかの)島という島に、昔、格式のない遊び女を集めた遊廓のような場所があったそうです。
 この島の近くを船で通る時、漁師さんや船頭さんが海面を見やると、水中に、島から逃げようとして海に飛び込んだ若い娘たちの顔が見えたりする…というような話が、母の子供/少女時代(昭和十年代頃)にはまだされていたようです。》
 今度は海の水に囲まれた島が舞台になっている。寄せあつめられた遊女たち自身を「淀む水」とたとえてもよいだろう。それぞれの運命を流れ流れてこの島に集められてきた逃げ場のない遊女たち。おそらくは、自らの意志とは関係なくこの島に流されてきたのであろう。

 話題は現代にもどるが、「天地真理伝説」のなかの代表的なものが「元ソープ嬢説」であった。ソープ嬢というのも現代の若い女性が都会の流れに翻弄されて流れついた「淀み」のひとつではあろう。とはいえ現代の風俗営業浴場の水は、かならずしも「淀む水」とはいえないだろう。彼女たち多くは、自らの意志でその世界に足をふみいれ、水子ならぬあまたの精虫を洗い流し、あらたな「流れる水」となっていくのかもしれない。その先には「アイドルタレント」があってもおかしくはないのである。

 ついでに、いままで別のところでとりあげた話題で「水と女性」に関連するものの小見出しをあげておこう。

 『#253-7井の頭公園の弁天様と縁切り』『#258-4用水池の口裂け女』『#395-1風呂でリカちゃん人形解体』

 これらからも、「水と女性」のもつ謎をつむぎだすことはできるだろう。とくに『リカちゃん人形解体』は、「流れる水と淀む水」の源流にある女性の原意識とでも呼ぶべき主題を含んでいるようにおもわれる。