【長崎小6少女殺人事件】-2

【長崎小6少女殺人事件】-2

 若者たちが、突然キレて引き起こす事件は散見される。かつて、学校でなにか注意されてカッとなった少年が、持ち込んでいたバタフライナイフで女教師を殺傷した事件などもあった。しかし、今回の加害少女Aは、報道の断片などから知るかぎり、事件の事前・事後とも比較的に冷静であるように見える。むしろ、自分の行った行為そのものには「醒めている」といった気配がうかがえるのである。あの神戸児童殺傷事件の加害者少年の場合もそうだった。

 もし一時的にキレて行った行為であったら、事後的に醒めたとたんに、おのれの引き起こした事件の重大さに恐れおののき、狼狽して取り乱すはずである。しかし、A少女は被害者の返り血を浴びた姿で教室に戻ってきたときも、問いたずねる教師に対して「これは私の血じゃない、もう一人はあっちにいます」と答えたそうだ。むしろ、担任教師の狼狽ぶりの様子の方が伝わってくる。

 この冷静さは、どこからくるのか? 凶行直後の放心状態とか虚脱状態というわけではない。翌日以降の弁護士の接見や事情聴取にも落ち着いた様子で対応しているという。オウム真理教事件のような確信犯でもない。おそらく少女には、自分の行った行為に対する実体感が伴ってこないのではないだろうか。やったことは明確に憶えている。それが社会的にどのような意味を引き起こしたのかも、理屈ではそれなりに理解できている。にもかかわらず、自分の前に横たわった親友の姿は、あたかもガラス越しに眺めるように、実在感が伴ってこない。神戸事件の少年にも同じようなことが言えるようだ。

 心理学・精神病理学的な側面から、これを乖離人格とか離人感とか分別することは可能だろうが、それだけでは、ことの本質に迫ることにはならない。加害少女とわれわれが同じ地平にいるという前提に立ってはじめて、問題の核心にアプローチ可能になるはずである。「自他の境界があいまいになっている」と考え、それがこの加害少女などだけに特異なものではなく「むしろ逆に、自他の境界が本来曖昧なのが人間という存在なのである」とする方が理解の手掛かりとなる。

 生まれたばかりの赤ん坊は、ほとんど母親と未分離の状態であろう。やがてひとりで動き回るようになるにつれて、自分と自分以外の他のものが区別されるようになる。さらに家族や友達関係、学校や一般社会での役割・位置関係などから、一応の「自分」というもの領域がはっきりと画定されているかのように思えてくる。これで一応「自他の区別」がついているということになるのであろうが、実は、これは単に「自分」が入っているはずの箱が用意されたことに過ぎない。

 たとえば、長年の会社勤めを終えて定年退職した会社人間が、仕事上の役割や人間関係・利害関係などのしがらみから解放されたとたんに、はたして今までの「自分」とは何であったのかと途惑う。自分が入ってたはずの「箱」が無くなるとともに、いままで明確だったはずの自己というものは、実は曖昧模糊としたものであったことに突き当たるのである。あとに残された自己らしきものは、あちこちガタのきた自分の肉体だけというのでは、ごしょう大事にしてきた玉手箱を開けた瞬間にぱあっと白い煙が出て爺ぃになってしまったという笑い話にもならない。

 多かれ少なかれ、大半の大人たちは(被害加害の少女も含めて)、この程度の「自他の区別」の中で日常をすごしている。ここまで、わたしは常識的なレベルでの自己理解をなぞってきたに過ぎない。それを「発達心理学に依存した記述」とするなら、そんな「心理学」ってナンボのもんじゃい、ということになるわね(笑)。

 わたしが言及しようとする「自他の境界」とはそんなものではなく、もっと別のレベルの「自他」である。あえて言うならば、文学的な「自他」であり、哲学的な「自他」の領域に踏み込むことになるのだろう。大半の大人たちはそこまで踏み込むことなく「日常性」の下だけで一生を終えるのだが、事件の加害被害少女たちは、幼くして「パンドラの箱」を開けてしまったのかも知れないのだ。
(つづく)