「長崎小6少女殺人事件」について

 このところ「蕩尽伝説」という文学・思想系研究者らしき人のブログ日記を愛読してるが、ド・チャット[06/26 01:31] 〜[06/26 02:00]で思いつき言及したら、それを当人にフィードバックせよというコメントがあった。チャット掲示板での数行言及ではあまりにも失礼だろうから(笑)、あらためてそれなりに考えてみた。
 他人の血(1〜7)長崎小6少女殺人事件 」という考察であるが、私自身、この事件の情報に接した当初、比較的「古典的な事件」だなと感じた。詩や小説を齧ってるところからして、実年齢より多少オマセな子がキレてやらかした事件という印象だった。もし中3程度の生徒の起した事件だったとしたら、いまや誰も驚くこともないだろうし。
 神戸児童殺傷事件のA少年の場合には性格的な特異性に配慮が必要だが、この少女の場合どうであるか。少女の場合「バトルロワイヤル」という小説への傾倒などが指摘されてるが、それは「オマセ」な部分に収斂させることが可能だし、それ以外に散見する情報からは特異な部分は見かけられない。神戸事件と共通するのは、事件への意識的な計画性および事前事後の当人の「冷静さ」である。
 これを性格の「冷酷さ・残忍性」とすりかえて、精神鑑定等で"アッチの人"に押しやってしまってはいけない。と同時に、私が当初、キレてカッとなってやったと考えた部分も棄却される。もっとリアルな要素が孕まれているわけで、その意味で蕩尽伝説氏が文学・思想的側面から考察したのは正鵠をえている。文学・思想は、世の中が見ないで済ませようとするものを、常に「現実の問題」として向き合うものだからね。
 ただし、さすがの蕩尽氏も、いささか文学・思想側面に引きずられすぎた感もする。そこが冒頭のドチャット言及になったわけですが、これだけではドチャットから一歩も進んでないわね。アタマの体力が尽きてきたので、とりあえず(つづく)としておきますです(笑)。