【17th Century Chronicle 1631-35年】

【17th Century Chronicle 1631-35年】
 

キリスト教鎖国政策

*1631.6.20/ 幕府は海外渡航の貿易船に朱印状のほか、老中による奉書の公布が必要であると定める。(奉書船貿易)
*1631.閏10.20/京都 京都所司代板倉重宗が、キリシタン・浪人の隠匿、新寺建立を禁止する。
*1633.2.28/肥前 奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止。(第一次鎖国令)
*1634.5.11/江戸 幕府はイエズス会宣教師セバスチャン・ビエラらを処刑する。
*1634.5.28/肥前 幕府は長崎に、外国船の来航・奉書船以外の渡航を禁止する高札を立てる。(第二次鎖国令)
*1634.-.-/ 各地で踏絵がさかんに行われる。
*1635.5.20/肥前 外国船の入港・貿易を長崎一港に限定し、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止する。(第三次鎖国令)
*1635.-.-/ 全国で、キリシタンでないことを証明する「寺請制度」が広がる。


 キリスト教禁教と鎖国政策は、切り離しては語れない。織田信長は京都などの仏教勢力に対抗するため、積極的にキリスト教を取り込んだ。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、当初は信長同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、長崎がキリシタン大名大村純忠からイエズス会に寄進され、長崎がキリスト教布教の拠点となるなどして、西国のキリシタン大名が貿易の利益を独占するのを危惧した秀吉は、天正15(1587)年、長崎を直轄領にするとともに「バテレン追放令」を出して宣教師を国外追放とした。


 秀吉は貿易を独占するため朱印船貿易を始めたが、宗教統制と経済とを分離する政策を採ったため、キリシタン取り締まりは、それほど厳しくなかった。ところが慶長1(1596)年、京都のフランシスコ会の教徒たちを捕らえて長崎で処刑するという「二十六聖人殉教事件」が起こる(1596年の禁教令)。これは、同年にスペイン船が土佐に漂着し、その乗組員がスペイン王国の征服意図を誇大に吹聴した「サン・フェリペ号事件」が原因といわれるが、ポルトガルのイエスズ会と、後発のスペインのフランシスコ会の布教競争も背景にあったとされる。


 関ケ原で勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朱印船貿易を活発に行い、貿易の利益を上げようとした。旧教国ポルトガル・スペインとの南蛮貿易を盛んに行い、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認した。しかし後発の新教国であったオランダやイギリスが平戸に商館を開くと、先行したポルトガル・スペインと抗争し、これらカトリック国が布教を通じて日本征服を企んでいると、幕府に吹き込んだ。

 大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあって、キリスト教禁教に傾いた。やがて肥前キリシタン大名有馬晴信ポルトガル・スペイン船の抗争で、マードレ・デ・デウス号爆沈事件が起こされ、その事後処理で仲介役のキリシタン岡本大八収賄事件が発覚した。


 キリスト教布教とは直接関係ない事件だったが、これをきっかけに慶長17(1612)年、家康は「慶長の禁教令」を発布する。この禁教令では、京都や長崎など全国の教会を破壊するとともに、高山右近内藤如安など有力なキリシタン武将をマニラなど国外に追放した。その背景には、中国産の上質生糸(白糸)を輸入する際に、それに関わるポルトガル・スペイン船やキリシタン大名有馬晴信らの勢力を排除し、幕府が直接に貿易を統制するという狙いがあった。

 当時の重要な輸入品である白糸(中国産の生糸)は、ポルトガル商人により独占的価格で持ち込まれており、幕府は、京都・堺・長崎の有力商人に糸割符仲間を作らせて価格統制をする「糸割符制度」を導入して対抗していた。このような幕府の貿易統制策は禁教と結びついて進められ、宣教師を先兵に進出する旧教国ポルトガル・スペインの「南蛮人」に対して、キリスト教布教にこだわらない新教国オランダ・イギリスの「紅毛人」にシフトしていく流れができてきたのである。


 元和2(1616)年に家康が死去すると、徳川秀忠キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策を急速に進めてゆく。同年に貿易港を平戸と長崎に限定し(二港制限令)、元和6(1620)年には「平山常陳事件」が起こり、英蘭がポルトガルの交易を妨害し「元和の大殉教」に繋がる。

 元和6(1620)年、平山常陳が船長をつとめる朱印船が、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された。この朱印船には、スペイン人宣教師2名が商人として乗船していたことが発覚し、この年7月、長崎で平山常陳および2名の宣教師が火あぶり、船員12名が斬首とされた。

 これが江戸幕府キリシタンに対する不信感を決定づけて、翌月には長崎で、それまでに逮捕されていた宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑された。これが「元和の大殉教」と呼ばれ、以後、諸大名もこれにならって、各地でキリシタンに対する迫害を強化徹底した。

 翌元和9年(1623年)には、幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ渡航の禁止などを次々に公布し、江戸幕府の対外政策の方向性を決定付けていくことになる。同年、イギリスがオランダとの競争に敗れて平戸商館を閉鎖、さらに元和(1624)年にはスペイン船の来航を禁止、寛永8(1631)年には、朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要とする「奉書船制度」を開始した。


 寛永9(1632)年大御所徳川秀忠の没後も、引き継いだ三代将軍家光は、さらに鎖国政策を徹底していく。寛永10(1633)年、奉書船以外の渡航を禁じ、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた(第1次鎖国令)。寛永11(1634)年、第1次鎖国令の再通達と長崎に出島の建設を開始(第2次鎖国令)。寛永12(1635)年、中国・オランダなど外国船の入港を長崎一港に限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた(第3次鎖国令)。寛永13(1636)年、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す(第4次鎖国令)。

 そして寛永14(1637)年から寛永15(1638)年にかけて、「島原の乱」が勃発する。この乱の鎮圧に幕府は半年を費やし、オランダから武器弾薬の援助を受けるなどして、やっと幕府開闢以来の叛乱を収めた。キリシタンにすっかり懲りた幕府は、寛永16(1639)年、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、新教国オランダのみが西洋の交易国となる。これをもって「鎖国の完成」とされるが、さらに2年後の寛永18(1641)年に平戸からオランダ商館が移設され、オランダ人も出島に隔離された。


(この時期の出来事)
*1631.5.-/甲斐 将軍家光の弟徳川忠長(国松)が甲斐に幽閉される。
*1631.9.21/関東 関所の通過規制を強化し、通行手形のない不審者・女性は厳重に差し止められた。
*1632.1.24/ 大御所徳川秀忠(54)没。
*1632.12.17/ 水野守信・柳生宗矩ら4名が「総目付」に任命され、幕政に関わる大名や諸役人の不正を監視する。(「大目付」の初め)
*1633.3.15/筑前 幕府が黒田藩の騒動を裁断し、家老栗山大膳を南部藩預けとする。
*1633.3.23/ 将軍家光が松平信綱など「六人衆」を起用し、幕政の刷新・若返りを断行する。(「若年寄」の初め)
*1633.12.6/ 乱行により、高崎に幽閉されていた徳川忠長(28)が自刃する。
*1634.7.1/京都 将軍家光が上洛し、朝廷との関係修復をはかる。
*1634.8.4/ 譜代大名の妻子の江戸居住を命じる。
*1634.11.7/伊賀 荒木又右衛門の助太刀で、伊賀越えの仇討が成就される。
*1635.3.11/ 係争中の対馬藩国書偽造事件柳川一件)に、将軍家光が処断を下す。
*1635.6.21/ 武家諸法度の改正により、諸大名に「参勤交代」が義務付けられる。
*1635.11.9/ 寺社と遠国の訴訟を管轄する「寺社奉行」が設置される。
*1635.11.10/ 幕府は、老中・若年寄寺社奉行町奉行・勘定頭などの職務権限を定める。