【17th Century Chronicle 1626-30年】

【17th Century Chronicle 1626-30年】


◎幕府と朝廷の確執

*1626.9.6/京都 後水尾天皇が、徳川家の私邸二条城へ行幸し、幕府の権威が示される。
*1627.7.-/京都 幕府は、朝廷が出した紫衣勅許を取り消し、無効とする。(「紫衣事件」)
*1629.7.25/京都 幕府は、紫衣法度を批判した大徳寺の沢庵らを、流刑に処する。
*1629.10.10/京都 将軍家光の乳母お福(春日局)が後水尾天皇に拝謁し「春日」の名号を贈られる。幕府が、朝廷との関係修復の試みるも、無位無冠のお福の派遣には、朝廷は逆に不満を募らせる。(金杯事件)
*1629.11.8/京都 後水尾天皇が幕府への抗議の意を込めて譲位し、女一宮が践祚明正天皇として即位する。
 


 慶長16(1611)年4月、父後陽成天皇から譲位され政仁親王即位の礼を行った。後陽成天皇は、第3皇子政仁親王への擁立を好まなかったが、名実ともに支配者となった家康の意向で、嫡出男子の政仁親王後水尾天皇)に譲位することになった。

 徳川政権は後陽成天皇の時から、朝廷の統制を強めていたが、豊臣宗家滅亡後の慶長20(1615)年7月には「禁中並公家諸法度」を公布し、朝廷の行動全般が、京都所司代を通じた幕府の管理下に置かれることになった。
 

 一方で、大御所家康は、秀忠の子で自分の孫娘和子(まさこ)を、後水尾天皇に入内させようとする。しかし、家康の死や後陽成院崩御などが続き、しかも天皇には、寵愛の女官四辻与津子との間に皇子・皇女が居ることが判明して、秀忠が問題とする。結局、関係者を処置させたうえで、和子の女御として入内を許す。

 天皇は、幕府の使者藤堂高虎に恫喝され、与津子の追放・出家や関係者の処分を強要される(およつ御寮人事件)。憤慨した天皇は譲位しようとするが、あらがえずにこれを受け入れる。和子が無事に入内して、皇子の高仁親王が誕生すると、寛永3(1626)年10月、二条城への後水尾天皇行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛・拝謁して、朝廷との関係を修復するとともに、幕府の権威を知らしめた。
 


 しかし、寛永4(1627)年に「紫衣事件」が起こる。これは、最高位を示す紫色の法衣や袈裟を、朝廷が高徳の僧に許すというのが慣例であるところ、幕府は「禁中並公家諸法度」等でこれに制限を加えていた。しかし後水尾天皇がこれを無視したため、幕府は詔勅を無効とし、その上、紫衣法度を批判した大徳寺の沢庵らを、流刑にするなどの厳しい対処を続けた。

 さらに、天皇の様子をうかがわせるため、家光の乳母である福(春日局)を参内させる。武家家臣の娘で無位無官のお福には御所に昇殿する資格がないため、無理やり官位を付けて参内させたこと(金杯事件)は、天皇の権威を失墜させるとして朝廷の怒りを買った。
 


 これらの朝廷無視の幕府のおこないに耐えかね、寛永6(1629)年11月、後水尾天皇は、幕府への通告を全くしないまま次女で5歳だった娘興子内親王明正天皇)に譲位して、以後も、4代の天皇にわたって上皇(出家後は法皇)として院政を行う。明正天皇は和子の産んだ子で家康の孫だが、女帝は結婚しないという不文律があったため子をもうけず、結果的に徳川の血をひく天皇は一代限りで終わった。

 院政を認めない幕府との軋轢はその後も続いたが、秀忠が亡くなり実権が家光に移るとともに、東福門院(和子)の存在もあり、幕府も徐々に軟化していった。後水尾上皇(法王)は、延宝8(1680)年、85歳で崩御するまで生き、徳川武家政権に対して、かろうじて朝廷の威厳を保つことになった。
 


 そもそも先代の後陽成天皇の時代から、幕府との関係はぎくしゃくしていた。後陽成天皇は、もともと豊臣秀吉との関係が深く、秀吉もまた関白・太閤と朝廷の官位を活用するため、朝廷の権威を立てていた。しかし関ケ原の戦い以後、政権が徳川家康に移行すると、家康・秀忠は、武家政権を確立するために、朝廷を抑制し統制する政策をすすめた。

 幕府は、将軍の意向を朝廷に伝える「武家伝奏」という職を設けさせて、更なる監視態勢を整えた。そんな中で、慶長12(1607)年などに相継いで、宮中女官と公家との密通事件が発覚した(猪熊事件)。激怒した天皇京都所司代に極刑を要請したが、天皇の生母新上東門院の意向などもあり、幕府は寛大な処置で済ませた。
 

 この一件により、天皇は幕府に不満を持つとともに、生母・皇后や側近の公家衆とも隔たりが出来、幕府の反対を押し切って政仁親王後水尾天皇)に譲位して院政をしく。孤独を深めた後陽成上皇は、院政に反対する家康とともに、後水尾天皇との父子の間もまた長く不和であり続けたという。

 このように、圧倒的な徳川幕府の権力の前で、一方的な譲位という形でしか抵抗できなかった後陽成・後水尾天皇であったが、その武家政権に対する朝廷の威厳を保つ意志は、幕末の「尊王思想」という形で陽の目を見ることになる。それが討幕の旗頭になるとは、両天皇は予期していたであろうか。
 

(この時期の出来事)
*1626.閏4.26/肥前 長崎奉行水野守信が、イエスズ会宣教師とキリシタンを処刑する。
*1626.9.15/ 前将軍秀忠の正室淀君の妹、お江(江与)の方(54)没。
*1627.2.28/肥前 島原藩松倉重政が、キリシタン16名を雲仙岳火口に投げ込んで処刑する。
*1627.-.-/ 台湾貿易をめぐって、オランダとの紛争が激化、対オランダ関係が悪化する。
*1628.3.17/京都 安楽庵策伝が、笑話本「醒酔笑」を編む。
*1628.5.-/タイ・肥前 スペイン艦船がタイ・メナム河口で日本の朱印船を攻撃。その報復として、幕府は長崎のポルトガル船を抑留してポルトガルと断交する。
*1628.6.-/台湾 長崎代官末次平蔵の手代浜田弥兵衛が、台湾でオランダ長官ノイツを襲撃する。
*1630.4.1/江戸 日蓮宗の宗論対決で、家光が直接に採決を下し、穏健派を支持する。
*1630.4.-/肥前 島原藩松倉重政が、領内のキリシタンを処刑する。
*1630.夏/タイ シャム国(タイ)のアユタヤ日本町頭取で、リゴールの太守をつとめる山田長政が、シャム王家内紛にまき込まれ毒殺される。