【18th Century Chronicle 1766-70年】

【18th Century Chronicle 1766-70年】
 

明和事件尊王論山県大弐が死罪となる

*1767.8.22/京都 尊王論山県大弐(43)が死刑に処せられ、宝暦事件竹内式部連座八丈島流刑となる。(明和事件

*1767.8.22/上野 小幡藩主織田信邦が蟄居となり、弟信浮が家督を継いで出羽の高畠へ転封される。この小幡藩の内紛が、明和事件発覚の原因となった。

*1767.12.5/ 竹内式部八丈島流刑の途中、三宅島で病死する。(56)
 


 甲斐国出身の「山県大弐」は、垂加神道を創始した山崎闇斎の流れをくみ、尊王思想を奉じていた。江戸へ出て医者となるとともに、「柳子新論」を著し、私塾「柳荘」を開いて古文辞学の立場から儒学兵学を講じていた。上野国小幡藩家老吉田玄蕃など多くの小幡藩士を弟子としていたことから、小幡藩の内紛に巻き込まれ、明和3(1766)年、門弟に謀反の疑いがあると幕府に密告され、逮捕されて翌年の明和4(1767)年、死罪として処刑された。


 宝暦8(1758)年の「宝暦事件」に連座した藤井右門が、門弟として大弐の家に寄宿しており、江戸攻略の軍法を説いていたため、幕府に狙われたともされる。右門は獄門とされたが、宝暦事件の中心人物で重追放となっていた「竹内式部」も関与したとされ、八丈島流罪となり、途中に三宅島で病没した。また、内紛を起こした小幡藩では、織田信邦が蟄居、弟信浮が家督を継いだ上で、出羽の高畠へ転封された。
 


 竹内式部山県大弐も、私塾で門弟に尊王思想を説いたというだけで、幕府に謀反を起こすような具体的な動きはなく、言いがかりに近い冤罪と言えるが、幕府が尊王思想を危険思想として取り締まる契機となった事件である。以後、様々な系譜を経ながら、幕末の討幕につながる尊王思想となってゆく。
 

 「尊王論」は中国由来の思想で、武力(覇道)をもって支配する「覇」に対し、徳(王道)をもって支配する「王」を尊ぶことを説く。日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて尊王論が受容され、天皇を「王」、武家政権(幕府)を「覇」とみなし、建武の新政の基調となった。

 江戸幕府朱子学を支配原理とし、朝廷を宗教的権威と位置づけたが、原理的には矛盾をはらんでいた。江戸時代中期からは国学がさかんになり、記紀国史神道等の研究が行われ、天皇の正当性が主張されるようになった。朱子学者であった「山崎闇斎」は、それに飽き足らず神道にも思想を深め「垂加神道」を創始した。

 

 垂加神道は、天照大御神子孫である天皇が統治する道が正道であるとし、神儒の合一を主張し、湯武放伐(王権を武力で覆すこと)を否定した。垂加神道尊王思想の思想的バックボーンとなり、水戸学の尊王論平田国学に継承されると、幕末には攘夷論と結びつき、尊王攘夷から討幕論に流れ込んでゆく。


 その山崎闇斎の流れを汲んだ竹内式部山県大弐は、公家や武士に尊王思想を吹き込み、幕府が危険視するようになった。宝暦事件では竹内式部を重追放としたが、明和事件では山県大弐を死罪、式部も連座させ遠島とした。この二つの事件は、幕末の尊王攘夷から討幕運動にいたる思想的契機として重要な意味を持った。
 
 

(この時期の出来事)

*1766.2.7/ 幕府が長州藩新発田藩など9藩へ、美濃・伊勢と甲斐の河川の堤防普請を命じる。

*1766.3.-/ 幕府が浄土真宗御蔵門徒を、異端として逮捕して処刑する。

*1766.7.1/京都 朝廷は、宮廷役人がみだりに菊の紋章入りの提灯を使うことを禁じる。

*1767.3.-/関東・甲斐 幕府は、関八州と甲斐へ、博徒など不良の輩の逮捕を命じる。

*1767.閏9.8/西国 幕府は、諸国農民の強訴・徒党・逃散を厳禁し、あわせて西国の逃散農民の帰村徹底を厳命する。

*1768.3.-/大坂 上田秋成が「雨月物語」を完成する。

*1768.4.6/江戸 吉原の大火で、一般居住地域での仮宅営業が許可され、かえって大評判となる。

*1768.11.-/江戸 賀茂真淵が「万葉考」巻6までを著す。

*1769.2.21/ 幕府が一揆禁止令を出し、諸領主に他領の騒動に対しても出兵を命じる。

*1769.8.18/江戸 側用人田沼意次老中格に、西の丸老中板倉勝清が本丸老中となる。

*1770.1.16/江戸 文楽「神霊矢口渡」が初演される。平賀源内が福内鬼外の筆名で書いたもので、江戸ことばの多用で評判を呼ぶ。

*1770.4.16/ 幕府は、強訴・徒党・逃散の禁止とともに、密告を奨励する高札を諸国に立てさせる。