【18th Century Chronicle 1741-45年】

【18th Century Chronicle 1741-45年】
 

◎「公事方御定書」と「御触書寛保集成」

*1742.4.6/江戸 「公事方御定書」が仮完成し、その編纂に尽力した三奉行らを褒賞する。

*1744.-.-/江戸 法体系整備の一環として、幕府初期からの法令集「御触書寛保集成」成る。
 


 「公事方御定書」江戸幕府基本法典であり、将軍吉宗の命により始められ、老中松平乗邑を編集主任として、勘定奉行寺社奉行江戸町奉行の三奉行が係わった。元文2(1737)年より始められ、寛保2(1742)年3月に仮完成するが、それ以降も追加作業が行われ、寺社奉行時代の大岡忠相らが関わった。延享2(1745)年、将軍吉宗の隠居に伴い、追補編纂は打ち切られた。
 

 公事方御定書は上下2巻からなり、上巻は司法警察関係の基本法令81通、下巻は旧来の判例に基づいた刑事法令などが収録されている。それまで、諸大名の統制のためには「武家諸法度」、朝廷や公家に向けては「禁中並公家諸法度」が定められいたが、一般庶民に対する裁判や刑罰の適用は、そのつど告知された御触書や過去の判例などの慣習によって、奉行所などで恣意的に運用されていた。

 また法体系整備の一環で、公事方御定書を補完するものとして、老中松平乗邑の指示で、江戸幕府創設以来の御触書をまとめた法令集も編纂され、寛保4(1744)年に編纂されたものが「御触書寛保集成」である。御触書集成には、さらに幕末にいたるまで「宝暦集成」「天明集成」「天保集成」と都合4度にわたって編纂された。
 


 法典の編纂は地味ではあるが大へんな事業であり、公事方御定書も、元文(1737)2年に取り掛かってから、寛保(1742)2年の仮完成にこぎつけるまで、足かけ6年を要している。吉宗が行った公事方御定書を中心とする法体系の整備は、明治維新後に西洋法典を基準に近代の民法・刑法などが施行されるまで、江戸期の封建体制下ではもっとも網羅的なものであった。


 吉宗は若いころから、和歌や漢詩といった君主の嗜みには興味を示さず、もっぱら実利的で世の中の役に立つ実学に関心を示したという。なかでも、父親の和歌山藩徳川光貞が命じて編纂させた「大明律例諺解」など、難解な明国の「明律」親しんだらしく、明律の体系が、後の公事方御定書の編纂に役立ったという。
 
 

(この時期の出来事)

*1742.7.22/京都 京都近郊の村々が、屎尿の他国流失の禁止を京都町奉行所に訴える。

*1742.8.3/関東 大風雨により、利根川・荒川が大洪水、関八州に大被害を及ぼし、80万石余に及ぶ田畑が水没する。

*1742.11.-/肥前 幕府は銅の産出減少のため、長崎貿易に半減令を出す。銅の輸出は3分の1に制限。(貿易半減令)

*1743.10.26/ 幕府は治安強化のため、覆面の着用を禁止する。

*1743.11.26/山城 宇治の世襲代官上林政武が手代の失策で免職・閉門となる。行政改革の一環として、世襲型から幕府任命による官僚型への転換を進める。。

*1744.4.-/東海・畿内 勘定奉行神尾春央は、年貢増収のため東海・畿内の幕府領を巡視する。「百姓は絞れば絞るほど…」と放言する神尾への農民らの怨嗟の声が渦巻いた。

*1745.4.-/畿内 摂津・河内・和泉・播磨などの農民約2万人が、年貢増徴に反対して京都・大坂町奉行や朝廷に訴え出る。

*1745.9.1/江戸 徳川吉宗が隠居し、徳川家重家督を譲る。11月には家重が9代将軍となるも、吉宗は大御所として実権を握り続ける。

*1745.10.9/江戸 首席老中松平乗邑が罷免され、1万石減封のうえ隠居処分となる。吉宗による苛酷な改革や年貢増徴策への不満が高まり、その責任を取らされたとされる。