【19th Century Chronicle 1846-50年】

【19th Century Chronicle 1846-50年】


調所広郷薩摩藩財政改革

*1848.12.18/ 薩摩藩家老調所広郷が、琉球密貿易の責任を取って江戸藩邸で服毒自殺をする。

 

 天保の時期ともなると、各藩ともに財政がひっ迫して危機的状況となっていた。そんな中で、いち早く改革を推進したのが水戸藩であった。「徳川斉昭」が継嗣問題を勝ち抜いて藩主となると、「藤田東湖」ら改革派の藩士たちを登用し、藩政改革を成し遂げるとともに、水戸学の尊王攘夷思想を、幕末の基調となる思想として浸透せしめた。

 一方、討幕の主流となった外様の西南雄藩もまた、この時期に次々と藩政改革に乗り出す。長州藩は、「そうせい侯」と呼ばれた藩主毛利敬親のもとで、「村田清風」を起用して財政改革を成し遂げた。肥前国佐賀藩では、第10代藩主「鍋島直正」が、藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成登用するなど、抜群の指揮力を発揮、いち早く反射炉など西洋技術の導入を進めるほどに藩力を強化した。

 

 そして薩摩藩もまた、500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。下級武士の養子から身を起こし、家老にまで上り詰めていた「調所広郷」は、その借金を無利子で250年の分割払いにするという無謀な条件を商人たちに押し付けた。無利子で250年年賦というと、実質踏み倒しに近い処置だが、藩の年収が14万両程度なのに、年間利息だけで80万両では返済不可能であり、今で言えば破産再生処理といったところか。

 調所広郷は借入金の処理だけではなく、藩収入を増やす積極策をも展開した。琉球を通じた清との密貿易を推進し、大島・徳之島などの砂糖を藩の専売にして、大坂の砂糖問屋の排除を図ったり、商品作物の積極的な開発など、増収になることは何でもした。
 

 調所広郷が藩政改革に取り組む時期に、薩摩藩は「お由羅騒動」と呼ばれる深刻なお家騒動に見舞われていた。時の第10代藩主「島津斉興」の側室お由羅の方は、世子「島津斉彬」をさしおいて、自分の産んだ「島津久光」を跡継ぎにともくろんだ。斉興もまた、近代的な装備を積極的に導入しようとする斉彬に対し、かつての藩財政破綻を再来させることを憂慮した。そして調所もまた、財政の悪化を懸念し斉興を支持する側に立った。


 斉興は一向に藩主の地位を譲ろうとせず、斉彬と久光の跡目争いは幕府をも巻き込むことになった。斉彬派は、水野忠邦のあと幕政を担う老中阿部正弘に、薩摩藩琉球経由の密貿易を幕府に伝え、斉興、調所らの失脚を図る。嘉永元(1848)年、調所は江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問され、同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死する。責任が斉興に及ばせないようにと、責任を取っての服毒自殺とされている。
 


 斉彬派と久光派の抗争は調所の死後も続けられ、やがて幕府の介入により、嘉永4(1851)年、さしもの斉興も、42年勤めた藩主を斉彬に譲ることになる。広郷は、主導した苛酷な藩政で商人や農民から恨まれ、死後も、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛大久保利通が藩の実権を掌握したため、調所家は徹底的な冷遇を受けたという。


 しかし、幕末の討幕過程で、薩摩藩の財政力と近代軍備は最も大きな役割を果した。それは、調所広郷の財政改革による藩財政の復活無くしてあり得なかったし、後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、明治以降の日本の近代化に実現に寄与したと、再評価されている。
 
 

国定忠治とは何者だったか

*1850.12.21/上野 博徒国定忠治が大戸関所で処刑される。 

 

 国定忠治は、文化7(1810)年、上野国(上州)佐位郡国定村の豪農の家に生まれ、本名は長岡忠次郎といった。忠治は青年期に無宿となり、上州の博徒大前田英五郎の縄張りの一部を受け継ぎ百々村の親分となる。日光への脇街道を拠点とする島村伊三郎と対峙すると、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪い、一時関東取締出役の管轄外に逃亡したあと、上州へ戻ると一家を形成した。
 

 その後も、日光脇街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立すると、子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。忠治はこのころ、「盗区」と呼ばれた事実上の自治区を支配し、賭場荒らし、縄張り抗争など、悪の限りを尽くしたが、天保飢饉に際しては盗区の村々の窮民を助けて、灌漑用の溜池を作るなど、農民を助けたと言われる。この時の救済事業などにより、のちに侠客として、演劇などの題材となり忠治の名は広められた。

 天保9(1838)年には、支配下の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され、手下の三木文蔵などが捕縛されて一家は打撃を受けた。忠治は追求が厳しくなったため逃亡するも、留守中に玉村主馬が反撃にでると、帰還した忠治は主馬を殺害する。
 


 関東取締出役は、体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みたが、逆に忠治は、関東取締役の手先の目明しらを殺害、関東取締は一層警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行った。ちょうどこの時期、67年ぶりに将軍徳川家慶による日光参詣が実施された。これに伴い博徒・無宿への取り締まりが徹底され、忠治は信州街道の大戸の関所を破り会津へ逃れる。


 のちの新国劇などで演じられる「赤城の山も今宵限りか」という台詞は、この幕吏に包囲された時の台詞と思われる。忠治は弘化3(1846)年に上州に帰還するが、すでに中風を患い、不自由な身で盗区において匿われているところ、関東取締出役によって一家の子分もろとも捕縛された。博奕・殺人・殺人教唆とあらゆる罪状のなかでも、最も重罪の大戸関所の関所破りにより、磔の刑に処せられる。見せしめのため、えざわざ大戸関所まで引き廻しの上、大戸処刑場で磔の刑に処せられた。
 

 国定忠治清水次郎長、ともに幕末変革期に名前をとどろかせたアウトローであったが、20歳年長の忠治は大悪人として磔の刑になり、次郎長は幕府・明治新政府に協力して、明治にまで生き延び任侠道の大親分として名を遺した。この違いは、やはり「お上」に対するスタンスにあったと思われる。


 国定忠治は、自らの盗区の窮民に施しを与え、庶民から称賛される侠客となったが、お上に対しては徹底して対抗した「反逆の英雄」であった。一方の清水次郎長は、若い時の乱暴は別として、一家を構えると、博徒間の抗争を繰り返すも、街道を治める親分として、幕府の治安に役立つ働きをして、幕臣山岡鉄舟との知己を得るなど、お上の覚えがよかった。
 例えるなら、忠治はやたらドンパチやるシカゴギャングのボスで、次郎長はアウトロー世界の治安を保持するマフィアのゴッドファーザーといったところだろうか(笑)
 
 

(この時期の出来事)
*1846.閏5.27/相模 アメリ東インド隊司令官ビッドルが浦賀に来航し、通商を求める。ピッドルは本国から穏健に交渉せよと指示されていたため、幕府の拒否により退去したが、この時の経験が、7年後のペリーによる強行開国につながった。

*1846.6.1/薩摩 幕府が薩摩に、琉球と諸外国との通商黙認を伝える。

*1846.6.-/肥前 オランダ船が長崎に入港し、風説書と幕府が委嘱していた武器・軍艦の模型を持参する。

*1846.7.13/ 前水戸藩徳川斉昭が、琉球蝦夷松前の防備や対外政策について意見書を出す。

*1846.8.6/江戸 鳥居耀蔵の手下として取り締まりに走り回った茂平次が、旧悪をあばかれ、仇討にあう。

*1847.2.15/ 幕府が各藩に割り当てて、相模・安房・上総など江戸湾周辺の警備強化をはかる。前年の米艦隊来航で、防備体制の不備が露呈したため。

*1847.3.24/上信越 信濃善光寺平を中心に大地震が襲い、死者16000人を出すなど、大被害をこうむる。

*1847.6.26/オランダ風説書が、イギリス船の来日計画を報じる。

*1848.6.-/肥前 オランダ船が長崎に入港。中国に派遣されているイギリス艦隊の陣容などが報告される。

*1848.8.10/信濃 松代藩で、佐久間象山の山林開発事業に反発して、農民が強訴を起こす。

*1848.12.-/肥前 長崎のオランダ通詞本木昌造らが、オランダ船から活字印刷機と鉛製活字一式を購入する。

*1849.閏4.8/相模・伊豆 イギリス軍艦マリーナ号が浦賀・下田に入港して両港内を測量する。

*1849.6.29/肥前 肥前藩医楢林宗建が、蘭方によって種痘を行う。

*1849.9.21/ 薩摩の島津斉彬に依頼され、蘭学者箕作阮甫が「水蒸船説略」を翻訳。

*1850.9.-/肥前 幕府が、長崎のオランダ・唐通詞に、英語をはじめ諸外国語の習得を命じる。

*1850.10.30/江戸 蘭学者高野長英が、潜伏中の江戸青山で捕手に包囲されて自害する。