【19th Century Chronicle 1841-45年】

【19th Century Chronicle 1841-45年】
 

天保の改革

*1841.閏1.30/ 第11代将軍徳川家斉(69)没。将軍職を家慶に譲った後も、大御所として実権を握り、50年にわたる長期政権を続けた。

*1841.4.17/ 家斉の側近として権勢をふるった三佞人、若年寄林忠英・御用取次水野忠篤を罷免し、小納戸頭取美濃部茂育は甲府勤番に左遷し、大御所政治清算を始める。

*1841.5.15/ 老中首座水野忠邦が、将軍誕生日の祝賀の席で、天保の改革の実行を宣言する。

*1841.10.5/江戸 智積院や感応寺の祈祷僧日啓と日尚の父子が、女犯の罪などで処罰される。家斉の側室お美代の方が取り入って、実父日啓のために建立させた感応寺は、破却処分となった。

*1841.10.-/ 幕府が奢侈禁止令を出す。

*1841.11.6/ 幕府が、神事祭礼での芝居・見世物などの興行を禁止する。

*1841.12.13/ 幕府は、菱垣廻船積問屋仲間(十組問屋)の解散を命じ、全国の株仲間や問屋組合を禁止する。「株仲間解散令」

*1841.12.29/ 幕府が人情本を取り締まり、版木などを没収する。

*1842.6.22/江戸 7代目市川團十郎が、奢侈により江戸を追放される。

*1842.6.-/ 出版統制が実施され、為永春水柳亭種彦が処罰される。

*1843.326/ 幕府は財政再建の一策として、出稼ぎ人を江戸から帰郷させる「人返し令」を出す。

*1843.6.10/下総 幕府は庄内藩など5藩に命じて、中断したままだった「印旛沼干拓」に再度着手させる。幕府側は鳥居耀蔵に管理役に任じて施行させる。

*1843.9.14/ 幕府は、江戸に続いて大坂でも、10里四方を幕府領とする「上知令」を出すも、反対が激しく、翌月には撤回する。この失敗は、老中水野忠邦の失脚につながった。

*1843.閏9.13/ 天保の改革を進めてきた老中首座水野忠邦が、罷免されて改革は挫折する。

 

 文化・文政(1804-1829)の時代には、江戸を中心に享楽的な文化が花開いたが、一方で外国船が来航し、内政的にも幕藩体制のゆるみが進んでいた。天保(1830-1844)の世の中になると、天保の大飢饉が襲い、それを切っ掛けに大塩平八郎の乱が起こり、外交ではモリソン号事件などで幕府は失態を露呈する。

 そんな中で、さしもの11代将軍家斉も、50年続けた将軍職を継嗣家慶に譲るが、実権は握り続けた。老中首座の水野忠邦は幕政改革を進言するも、家斉取り巻きの忠臣奸臣たちに拒まれる。しかし天保12(1841)年、大御所徳川家斉が69歳で没すると、さっそく水野忠邦は、家斉体制の一掃を始めた。
 

 三佞人と呼ばれ、家斉の側近として権勢をふるった若年寄林忠英・御用取次水野忠篤・小納戸頭取美濃部茂育を罷免や左遷で処分し、そのまま、家慶誕生の祝賀の席で、天保の改革の実行を宣言した。また、おねだり側室お美代の方が、家斉に感応寺を作らせ、その住職に据えた実父日啓と日尚の父子は、大奥女中を巻き込んだ密通など乱行を極め、女犯の罪などで処罰された。

 大御所政治清算が一段落すると、水野忠邦は、大御所時代に緩み切った綱紀の粛正に取り組む。綱紀粛正と奢侈禁止は大名や武家だけでなく、化政文化で享楽にうかれた庶民の暮らしに、徹底して細部にまで及んだ。その実行には、鳥居耀蔵を目付や南町奉行として重用して、苛酷な市中の取締りを行わせた。
 


 水野忠邦による天保の改革は、農本主義に基づいて進められた。当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。その上、天保の飢饉で食い詰めた農民たちが、無宿人として江戸に流入していた。そのため、江戸に出た農村出身者を強制的に帰郷させ、幕府の安定した収入源を確保しようとした。しかし、この「人返し令」は何度も出されたが、思惑どおりの効果をもたらさなかった。

 また、十組問屋を始めとして、全国の株仲間や問屋組合を禁止する「株仲間解散令」を出した。経済の自由化を促進して、物価高騰を沈静化しようとした。しかし、無理やり物価を抑えるやり口は、株仲間が中心となって構成されていた流通システムを混乱させてしまい、かえって景気の低下を招いた。

 

 さらに新田開発・水運航路の開発を目的として、下総国の「印旛沼干拓」事業を、勘定奉行鳥居耀蔵を管理人に任じ、庄内藩など5藩に命じて開始させた。この事業は、享保の改革時や田沼時代にも試みられたが、いずれも途中で挫折していた。水野忠邦による三度目の開疎工事は、二宮尊徳も計画実際に関与させて進められたが、結局は水野の失脚をもって中断される。

 そしてまた、幕府の財政収入を安定させるために、「上知令」を出し、江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、直轄地を集中させようとした。しかしこの強引な政策は、幕府の力が下降している中では無理な政策で、大名や旗本などの大反発を受け、上知令は実施されることなく終わった。

 

 水野忠邦の強権的な政策は、武断政治が有効だった家光の時代ならまだしも、諸藩が力をつけ、庶民も裕福になったこの時期には、相対的に幕府の力が低下しており、多くの反発を受けて挫折することになる。また、貨幣経済が浸透し、消費経済も庶民にまでいきわたるようになった江戸時代末期には、農本主義的経済政策は、まったく経済の流れに反するものとなった。かくして、上知令を期に、水野忠邦は失脚し、天保の改革は終わりを告げる。
 
 

遠山景元(金四郎)と鳥居耀蔵

*1845.3.15/ 大目付であった遠山景元(金四郎)が、町奉行に再任される。

*1845.10.3/ 水野忠邦の失脚にともなって、天保の改革でその手先となって推進した側近三羽烏、五島三右衛門・鳥居耀蔵・渋川六蔵が処分される。
 


 「鳥居耀蔵」は、大学頭を務めた幕府儒者の林述斎を実父とし、旗本鳥居家の婿養子として家督を継ぎ、将軍家斉の側近として仕えた。目付として、思想的に反感を持っていた渡辺崋山高野長英らを内偵し、蛮社の獄の主導者となった。やがて老中水野忠邦天保の改革を始めると、天保12(1841)年、南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後をおそい南町奉行となる。
 


 水野忠邦が、厳しい奢侈禁止・風俗粛正などの禁令を乱発すると、耀蔵は南町奉行として、苛酷な取り締まりを実行した。密偵を駆使し、おとり捜査を常套手段とし、権謀術数を弄する鳥居耀蔵を、人々は“蝮(マムシ)の耀蔵”と呼んで恐れた。北町奉行遠山景元(金四郎)は、町人に対する厳しい締め付けには批判的で、庶民からは絶大な人気を誇ったが、水野忠邦の忠実な腹心としてふるまう鳥居耀蔵と対立するようになる。

 鳥居耀蔵は水野と協力して、改革に批判的な北町奉行遠山景元を、地位は上になるが閑職の大目付に転任させ、自身は勘定奉行も兼任し、印旛沼開拓事業の指揮にも就いた。しかし、上知令の失敗など水野忠邦の失政が重なると、さっさと見切りをつけ、寝返って水野引き降し派に情報を流すなど、結局、水野忠邦失脚の原因となった。
 


 一方「遠山景元」は、旗本の家に生まれ家督を継ぐと、幕府に出仕し、世子の徳川家慶の世話役などを務め、勘定奉行を経て、天保11(1840)年には北町奉行に就いた。南町奉行矢部定謙鳥居耀蔵の策略で失職すると、寛政の改革の引き締め策をめぐって、老中水野忠邦南町奉行となった鳥居耀蔵と対立する。
 

 町人に対しての幾つもの禁止令に対して、景元はその現場で緩和策を講じて、水野の方針に抵抗した。なかでも、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対、浅草への小屋移転だけに留めた。この景元の差配に感謝した関係者が、しきりに「遠山の金さん」ものを演目に取り上げ、「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図が庶民に浸透していった。ただし「金さん」で演じられるような、お白州での名裁きの事実は、ほとんど報告されていない。

 やがて、水野忠邦が改革の失敗により罷免されるが、水野の代わりの人物も見当たらず、一時的に水野が復帰する。その時、鳥居耀蔵は寝返った報復で失脚させられ、全財産没収の上、讃岐丸亀藩に幽閉される。耀蔵は明治維新の後まで生き延び、解放後は平穏な日々を送り、多くの子孫に看取られながら亡くなったという。
 

 鳥居耀蔵のあと、水野の弟・跡部良弼が後任の南町奉行となったが、この人物は大塩平八郎の乱の時の大坂町奉行で、水野忠邦の意を受けて、江戸に米を送り大塩平八郎の怒りを買った人物である。その跡部も水野の老中罷免の煽りを受け、弘化2(1845)年には、水野の罷免に連動して配置転換され、遠山景元南町奉行として返り咲く。

 南町奉行として、株仲間の再興や寄席の復活など、水野以前への復帰に尽力し、水野の後を受けた阿部正弘からも重用された。隠居して家督を嫡男に譲った3年後、に63歳で死去。景元の死後、講談・歌舞伎などで「遠山の金さん」の名奉行ぶりが普及し、桜吹雪の彫り物で見えをきる場面は定番となっているが、これはあくまでフィクションの世界、ただし若い時の放蕩の時期に、いたずらで入れ墨をしたという話は伝えられている。
 
 

(この時期の出来事)

*1841.6.-/太平洋 土佐の漁師万次郎が漂流し、アメリカ船に救助される。

*1842.7.23/ 幕府は、異国船打払令を改め、薪・水・食料の供給を許可する。背景には、アヘン戦争で清国が敗けた情報をオランダから得て、次は日本だとされたため、外国船への対応を緩めたとみられる。

*1842.11.24/江戸 松代藩佐久間象山が、「海防八策」を藩主に進上し、西欧諸国の進出状況から、近辺海防の重要性を説く。

*1843.4.13/江戸 将軍徳川家慶が幕府の威光復活をかけて、67年ぶりの日光社参に出発する。

*1843.4.-/長門 長州藩は、村田清風が提案した37ヵ年での年賦皆済仕法を実施し、負債整理に着手する。

*1844.3.-/常陸 水戸藩が、寺受け制度の宗門改めに替えて、神道による氏子改めを行う。これは水戸学に基づいて、統治の基本を仏教から神道に変えるもので、幕府の方針に反するものであった。

*1844.5.6/ 幕府は、水戸藩徳川斉昭に対して、独断で藩政改革を進めたとして、斉昭の御用人としてそれを推進した藤田東湖とともに、謹慎を申し付ける。

*1844.6.21/ 水野忠邦が老中首座に復帰する。緊迫する海外事情に対応できる人材が、他に居なかったもよう。

*1844.7.2/肥前 長崎にオランダ軍艦パレンバン号が入港し、オランダ国王からの親書を届けた。アヘン戦争で敗れた清国を踏まえて、開国を促すものであったが、幕府はこの忠告を無視することにした。

*1845.1.13/武蔵 佐藤信淵が、水野忠邦に諮問に応え「復古法概念」を著す。国家統制経済で幕府財政を再建し富国を目指すべしというもの。

*1845.2.22/ 老中水野忠邦が病気を理由に罷免される。オランダ国王の書状をめぐる論争で、鎖国主義者たちの声に敗れ退くことになった。これで天保の改革は完全に頓挫した。

*1845.3.27/江戸 大火で伝馬町の牢獄も焼ける。入牢者は避難のため一旦解放されたが、その一人だった高野長英は、そのまま逃亡する。