【19th Century Chronicle 1826-30年】

【19th Century Chronicle 1826-30年】
 

◎お美代の方(専行院)と溶姫、そして赤門。

*1827.11.27/江戸 加賀藩主前田斉泰が、将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えるため、御守殿門として加賀藩邸に赤門(現東京大学赤門)を設置する。 
 


 第11代将軍徳川家斉は、その生涯で53人の子をを儲けた。将軍継嗣となる男子以外の子息達は、おおむね他家の養子とされた。また女子は、各藩の大名家などにとつがされた。養子や正室として将軍の子女をあてがわれた大名家では、多くの出費を要し、藩政がひっ迫しているところもあったが、将軍の子となれば断るわけにいかなかった。
 


 加賀100万石と言われた前田家では、側室お美代の方(専行院)の産んだ21女溶姫を、藩主前田斉泰の正室に向えることになった。将軍の娘の敬称御守殿は、また嫁ぎ先に設けられる専用御殿の呼び名でもあった。そして、その入り口となる御守殿門は丹塗りにされる習わしであった。

 江戸の加賀藩邸には溶姫御殿と呼ばれる御守殿が設けられ、そこには御守殿門である丹塗りの赤門が立てられた。明治になってから、加賀藩邸跡の敷地は東京大学本郷キャンパスとなり、そこに残された御守殿門が、現東大の赤門というわけである。


 溶姫を迎え入れた加賀前田家では、家斉の権勢が続いた期間を通して、溶姫およびその母親お美代の方専行院によって、かなりの迷惑をこうむることになる。
 

 お美代の方は、陰でおねだり側室などと呼ばれ、旗本中野清茂の養女として大奥に奉公、やがて将軍家斉の側室になったが、実父は祈祷僧で智泉院住職の日啓とされている。日啓は悪評が多く破戒僧に近かったが、お美代の方は家斉にねだって、将軍家の御祈祷所として感応寺を建てさせた上で、日啓をその住職にさせることに成功した。

 また、前田斉泰に嫁いだ溶姫には前田慶寧が誕生したが、お美代の方は、家斉に慶寧をいずれ将軍継嗣にして欲しいとねだったとも言われる。
 

 将軍家の祈祷所とされた智泉院や感応寺には、奥女中が江戸城から参詣に通うようになった。お女中たちには寺に通ううちに坊主とねんごろになるものも出てきて、なかには寺に運び込まれる長持ちに身を潜めて、密通を企てる奥女中もあったという。

 1841(天保12)年、徳川家斉が死去すると、水野忠邦天保の改革に着手した。寺社奉行に取り立てられた阿部正弘は、さっそく智泉院などの手人れを行い、奥女中と坊主たちの淫行が表沙汰となった。日啓は女犯の罪で召し取られ、遠島を申し渡されたまま牢死、感応寺は取り潰された。落飾(剃髪し仏門入りすること)し「専行院」となっていたお美代の方も「押込(幽閉謹慎)」とされた。
 


 この1827(文政10)年、14歳の溶姫は、お付きの役人や奥女中数百人を引き連れて、本郷の加賀屋敷に嫁いで来た。前田家では、溶姫のために御守殿を設け、多数の付き人たちを受け入れることになった。そのための費用は尋常ではない出費となったが、さらに、将軍や大奥からつけられた役人や奥女中たちは、将軍家の威を借りて尊大に振る舞い、加賀藩の女中や藩士の反感をかったという。

 智泉院事件の後、江戸城に居づらくなった専行院(お美代)を、溶姫が引き取って溶姫御殿に住まわせたとされ、その費用も藩財政を圧迫したであろうと想像される。溶姫はますます加賀藩士らの恨みを一身に受けることになった。時が経ち、文久の改革で参勤交代制が緩和され、大名妻子の国許居住が許可されたが、溶姫は将軍家や母専行院との義理からすぐには帰国しなかった。
 

 しかし、1863(文久3)年溶姫は、帰国費用として幕府より3万5千両を借用、盛大な行列を組んで、金沢城に溶姫のために造営された二の丸御殿に入った。しかし、翌1864(元治元)年、禁門の変後の不安定な情勢のもとで、溶姫は江戸に戻りたいと申し出て、夫斉泰の反対にもかかわらず、無理を押して江戸への帰還を強行する。

 1868(慶応4)年、戊辰戦争が始まると、江戸に危険が迫り、溶姫は金沢に移されることになった。溶姫は母お美代の方と別れ帰国の途につくが、夫斉泰には溶姫付きの徳川家の家臣侍女らの入国は許されず、溶姫は単身金沢城の御殿に入った。しかし、それからわずか2ヵ月ほどで溶姫は死去する、享年56。

 一方、溶姫の母親・お美代の方専行院は、日啓事件の後も江戸城に留められたともされ、幕末の動乱期にも生き続け、明治初頭まで存命し76歳で死去したといわれている。

 

 映画『武士の家計簿』(2010年)は、歴史学者磯田道史著『武士の家計簿加賀藩御算用者」の幕末維新』(2003/新潮新書)をもとに製作され、加賀藩の御算用者(会計処理役人)を務めた猪山家に残された入払帳などをもとに、溶姫の輿入れ前後からの、加賀藩の財政逼迫の様子なども描かれている。
 
 

シーボルト事件

*1826.3.25/江戸 ドイツ人医師シーボルトが、オランダ商館長の将軍謁見に随行する。

*1826.4.9/江戸 天文方高橋景保が、日本地図を持参してシーボルトを訪問し、外国書との交換を約束する。

*1828.8.10/肥前 長崎奉行所が、ドイツ人医師シーボルトの帰国時の所持品の中に、日本地図などの禁制品を発見する。 

*1828.12.18/江戸・肥前 幕府が、シーボルトを出島に幽閉し、関係者を投獄する。 

*1830.3.26/江戸・肥前 幕府がシーボルト事件の関係者を処罰する。

 

 1828(文政11)年8月、オランダ商館付医師でドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、帰国する直前、その所持品の中に国外持出し禁制の日本地図などが見つかった。その地図は、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図であり、幕府天文方・書物奉行高橋景保シーボルトに贈ったものであった。景保ほか十数名は処分され、景保は獄死、シーボルトは国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。
 


 1826年3月にシーボルトは、オランダ商館長の江戸参府に随行、将軍徳川家斉に謁見した。江戸においては学者らと交友し、天文方高橋景保とも知己を得る。樺太の資料を求めていた景保は、シーボルトから最新の世界地図を受取り、見返りとして、最新の日本地図を贈った。

 シーボルトは長崎出島に帰還し、江戸との道中では1000点以上の植物標本を蒐集したが、さらに北方の植物にも興味をもち、資料を持つ間宮林蔵に手紙を書いた。この間宮がシーボルトから受け取った手紙が発端となり、高橋景保らが捕らえられ取調べを受けた。
 


 江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けて長崎奉行所が、出島のシーボルトの居所を捜索した結果、いくつかの禁制品が見つかり、シーボルトは出島に幽閉された。シーボルトは訊問で、科学的な目的のためだけの蒐集であったと主張し、捕まった日本人の友人を守るような証言をした。シーボルトの陳述は、多くの日本の友人や協力者を救ったとされるが、高橋景保らが処罰され、自身にも国外追放の上、再渡航禁止という処分が下った。

 なお通説では、帰国準備でシーボルトが、本国に送った荷物を積んだ船が暴風雨で座礁し、船中から地図等の御禁制の品々が発見されたというのが、シーボルト事件の発覚契機であったとされているが、これは近年になって、後日の創作であることが判明している。
 

 シーボルトは、母国プロイセンドイツで医師になるための医学をはじめ、動物、植物、地理など幅広く学び、なかでも植物学には強い関心を示していた。東洋学研究を志したシーボルトは、オランダに行き、オランダ領東インド陸軍付の軍医となる。さらに、オランダ領東インドインドネシア)で、総督から日本研究の希望を認められ、長崎出島のオランダ商館付医師として赴任した。


 出島内において開業の後、出島外で「鳴滝塾」をも開設し、西洋医学蘭学)教育を通じて、日本各地からの多くの医者や学者と知己を得る。そのような多くの日本の知識人たちとの交友を通じて、シーボルトは、日本の文化を深く探索研究した。その後の江戸随行でも、道中を利用して日本の自然や地誌を研究するとともに、江戸においても医師・学者らと交友した。この交友が、結果的に禁制品持出しの起因となった。
 

 シーボルトの多くの蒐集・研究は、科学的関心に基づいたものではあったが、医師という本業以外に、プロイセン政府やオランダ政府から、日本の内情探索の任務を帯びていたことも確かなようである。蘭領東インドの病院付軍医のときのシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があること、江戸の学者に問われて「内情探索官」と答えたことなどから、純然たるスパイ活動ではないが、鎖国中の江戸幕府の内情や自然環境の調査目的を持っていたのは確かだと思われる。


 なお、1858(安政5)年の日蘭修好通商条約の締結により、シーボルトは追放が解除され、翌1859(安政6)年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。また次男のハインリヒも日本に滞在し、オーストリア=ハンガリー帝国大使館の通訳外交官業務の傍ら、考古学調査を行い「考古学」という言葉を日本で初めて使用、大森貝塚の発見も、モースより先であったともされる。
 
 

(この時期の出来事)

*1827.2.18/琉球 3年連続の大飢饉で餓死者多数、王府が領民に粥を施す。 

*1827.2.-/関東 幕府は、関東一円に支配を強化するため、文政の改革の一環として、関東一円の村々に対して組合村の結成を命じる。

*1827.5.21/ 頼山陽が江戸で「日本外史」を完成し、幕府を厳しく批判する。。

*1828.9.14/信濃 鈴木牧之が、山間の秘境秋山郷の探訪から塩沢に帰郷し、翌年「秋山紀行」を完成する。

*1829.3.21/江戸 神田より出火し、日本橋・京橋の中心部を消失する。(己丑の大火)

*1830.1.16/常陸 水戸藩徳川斉昭が文武奨励を布告し、藤田東湖らを起用し藩政改革に着手する。 

*1830.4.-/京都 僧尼の綱紀粛正で、京都の多数の寺院の破戒僧が逮捕され、三条大橋でさらされた。

*1830.5.1/肥前 肥前藩鍋島直正が、質素倹約・文武奨励など藩政改革に着手する。

*1830.8.-/ 3月から5月にかけて、「お蔭参り」と称する伊勢神宮参詣が流行し、東海・信濃・北陸・中国・四国に波及する。

*1830.10.1/常陸 水戸藩徳川斉昭が、老中水野忠成を批判する意見書を幕府に提出する。