【19th Century Chronicle 1821-25年】

【19th Century Chronicle 1821-25年】
 

◎「無二念打払令」

*1822.4.28/相模 イギリス船が浦賀に入港。幕府は水と薪を与え退去させる。

*1824.5.28/常陸 イギリスの捕鯨船員が常陸の大津浜に上陸し、水戸藩に逮捕さる。(大津浜事件)

*1824.7.8/薩摩 イギリスの捕鯨船員が薩摩の宝島に上陸して牛を略奪し、英人一人が射殺される。(宝島事件)

*1825.2.18/ 幕府が諸大名に、「異国船打払令」を出す。「無二念打払令」
 


 文化5(1808)年に起きた「フェートン号事件」では、イギリス艦船が長崎湾に入り込み、出島のオランダ商館を攻撃するなど好き勝手に荒らしまわられた。そしてこの文政7(1824)年、常陸の大津浜や薩摩の宝島に、イギリス捕鯨船の船員があい継いで上陸し、水戸藩薩摩藩とトラブルを起こした。

 また、水戸では、数年前から漁民たちが、沖合で欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚し、300人余りが取り調べを受けた事件が発生している。このような事件に危機感を抱いた幕府は、異国船を無条件(無二念)で打ち払うよう、諸大名に通達を出した。無理やり上陸した場合には、逮捕して、場合によっては打ち殺してもよいという指示であった。

 

 かつてない厳しい内容ではあるが、関係大名に厳重な警備をせよと言うだけで、幕府自体、具体的な対策を取ってはいない。むしろ、近隣住民が外国との接触することでの動揺を避けたいという、内側の論理を優先させたきらいもある。第2代将軍秀忠の治世以来の「鎖国」という基本方針を、顕密に踏襲するというだけで、その対応は揺れ動いていた。


 その後、日本人漂流漁民を送り届けてきたアメリカ合衆国商船モリソン号を、イギリスの軍艦と誤認して砲撃した「モリソン号事件」では、渡辺崋山高野長英らが、幕府の対外政策を批判して逮捕されるという「蛮社の獄」がひき起こされた。

 

 そして、「アヘン戦争」で大国清が惨敗したことを知り、幕府は改めて西洋の軍事力の強大さを認識した。アヘン戦争のあと、天保13(1842)年には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出して、以前の状態に戻すことになった。
 

【この前後における外国船の来航】
1792年……ロシア使節ラクスマンが日本人漂流民大黒屋光太夫らを連れて根室に来航し,通商交渉を要望する。
1793年……ラクスマン箱館(現在の函館)に廻航し,光太夫らを引き渡す。ラクスマンは幕府使節から長崎の入港許可書を受け取って帰国する。
1804年……ロシア使節レザノフが入港許可書をもって長崎に来航する。出島で半年待たされた上,通商を拒絶される。
1808年……イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入し,オランダ商館員を人質にして,水や食料を要求する(フェートン号事件)。この事件が異国船打払令が発せられる大きな原因となった。
1825年……幕府が異国船打払令を発する。
1837年……日本人漂流民をのせて浦賀に来航したアメリカ船モリソン号を幕府が砲撃して退去させる(モリソン号事件)。
1839年……モリソン号事件について幕府を批判したとして渡辺崋山かざん,高野長英らの蘭学者が処罰される(蛮社の獄)。
1840年……アヘン戦争おこる。
1842年……アヘン戦争での清の敗北を知った幕府は。異国船打払令を廃止し,薪水給与令を定める。(来航した外国船に水や燃料を与えて,退去を求めることにした。)
1844年……オランダ国王が幕府に開国をすすめる親書を送る。
1846年……アメリカ軍人ビッドルが軍艦2隻をひきいて浦賀に来航する。幕府に開国を求めるが,拒絶されて退去した。
1853年……アメリカ軍人ペリーが軍艦4隻をひきいて浦賀に来航,軍事力を背景にして幕府に大統領国書をわたす。ロシア軍人プチャーチンが艦隊をひきいて長崎に来航し,開国を要求する。
1854年……ペリーが国書の返答を求めて再び浦賀に来航し,幕府は日米和親条約を結ぶ。
 

◎「四谷怪談」初演

*1825.7.26/江戸 4代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が初演される。
 


 「東海道四谷怪談」は、鶴屋南北 (4代目)が歌舞伎狂言の台本として書いたもので、江戸の雑司ヶ谷四谷町が舞台とされ、怪談噺の定番と言われる。「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というものである。享保年間の「四谷雑談集」には、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の原典とされるが、現在知られるような「四谷怪談」の物語は、おおむね南北の創作の手になる。
 


 「四谷怪談」は怪談の代表作として、その後何度も舞台化・映画化などされており、物語にもさまざまなバリエーションがあるが、代表的な場面はすでに初演から登場している。
 
・岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がり、髪をすくとぱらぱらと髪の毛が抜け落ちて、自身がその姿を見て悶え死ぬところ。

・岩と小平(小盗人)の不義密通と見せかけるため、両人の死体を戸板一枚の表裏に釘付けにして流したところ、それが漂着し、伊右衛門がそれを見て執念に驚くところ。
・蛇山の庵室で、伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ。
などが見せ場として、有名な場面となっている。

 

 四代目「鶴屋南北」は、かなり晩年になってから、もとは歌舞伎役者の名跡であった「鶴屋南北」を襲名した。それはたまたま妻が、歌舞伎役者の三代目鶴屋南北の娘だったからであった。彼の長男も五代目を継ぐが、一般に「鶴屋南北」と言うときは、この四代目ことを指す。

 南北は下積みが長く、49歳のときはじめて立作者となった。享和4(1804)年には、初代尾上松助のために書き下ろした「天竺徳兵衛韓噺」(天竺徳兵衛)が大当たりし、歌舞伎狂言作者としての地位を確立した。南北は、奇想天外な状況設定と、現実主義に徹した背景描写を得意とし、頽廃と怪奇の中に毒のある笑いを加味したその作風は、文化文政時代の爛熟した町人文化を色濃く反映していた。

 

 怪談や妖怪の話は、平安末期の今昔物語などにも登場するが、江戸時代を舞台にした怪談は、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」や「鍋島化け猫騒動」など、史実をもとに歌舞伎の題材として創られたものが代表的で、さらに幕末から明治にかけての落語家「三遊亭圓朝」は、「牡丹燈籠」や「真景累ヶ淵」という有名な怪談噺を創作した。

 また、日本画や浮世絵では「幽霊画」という一つのジャンルがあり、江戸時代から明治時代にかけて多く描かれた。怪異物で知られる葛飾北斎歌川国芳らが多くの作品を残し、この「四谷怪談」をテーマにした絵だけでも、北斎の「百物語」をはじめとして、歌川国貞、豊原国周など、幕末から明治時代にかけて多数のお岩が描かれた。なお、今では一般的に想像される「足のない幽霊」を描いたのは、円山応挙が最初と言われる。
 
 

(この時期の出来事)

*1821.7.10/ 日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図」および「大日本沿海実測録」が完成し、幕府へ献上される。

*1821.12.7/蝦夷 幕府が東西蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に変換し、南部・津軽両藩の蝦夷地守備を解く。

*1822.2.-/江戸 浅草の高級料亭八百膳主人が「江戸流行料理通」を刊行。八百膳で供する人気の料理を解説したもので、上方料理に対して「江戸前」が確立してきた時期を示すものでもあった。

*1822.12.16/ 佐藤信淵が「経済要略」を著し、殖産興業で窮民救済を主張する。

*1823.3.24/ 松平定永・松平忠尭・阿部正権の三方領地替を行い、松平定永の海岸警備を免除する。

*1824.9.-/ 国学者平田篤胤の「古道大意」が刊行される。