【19th Century Chronicle 1895年(M28)】

【19th Century Chronicle 1895年(M28)】
 

平安京遷都1100年記念事業)
*2.1/京都 七条停車場前ー伏見町下油掛間で市電が営業を開始する。(日本最初の路面電車
*3.15/京都 平安京遷都1100年を記念した事業として、「平安神宮」が創建される。
*4.1/京都 京都で開催された第4回内国勧業博覧会で、黒田清輝の裸体画「朝しょう(爿+女)」が出品され、展示が賛否を呼ぶ。
 

 明治維新で東京に遷都され、衰退が懸念された京都では、二代目府知事槇村正直などが中心となって、様々な復興近代化事業が行われた。全国に先駆けて小学校を開校し、女性の教育の場として「女紅場」(にょこうば)を開設し、同志社英学校などの学校を積極的に誘致するなど、教育を充実させた。


 また、舎密局(理化学講習所)、勧業場(産業振興センター)、製革場の設立、西陣織織工のフランス派遣などの産業振興に、京都都心部に新しい遊行商業の場「新京極」を造成するなどの商業振興、そして1871年(M4)には「最一回京都博覧会」を開催して、京都を活気づけた。
 


 なかでも最大事業の「琵琶湖疎水」は、1885年(M18)に着工し、1890年(M23)には第1疏水の開通に漕ぎつけた。疎水の主たる目的は、水運水路としての活用と京都市内の飲用水確保であったが、当初の計画になかった日本初の営業用水力発電所「蹴上(けあげ)発電所」が建設された。

 この電力を利用して、1895年(M28)には京都・伏見間で、日本初となる営業用電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まり、これが後に京都市電となった。

 

 1895年(M28)、桓武天皇平安京に遷都してから1100年目を記念して、京都では平安遷都千百年紀念事業を実施することになった。それまで東京だけで実施されていた勧業博覧会だが、「第四回内国勧業博覧会」は京都の岡崎公園で、1895年(M28)4月1日〜7月31日の間、開催されることになった。


 勧業博の目玉としては、平安京遷都当時の大内裏の一部を復元した「平安神宮」が創建され、3月に完成した。平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀され、社殿は平安京の朝堂院大極殿を5/8の縮小で復元し、正面の門は、朝堂院の應天門を模している。
 

 当初、内国勧業博期間中に行う予定だった「平安遷都千百年紀念祭」は延期されて、10月22日から三日間にわたって実施された。25日には、紀念祭の一イベントとして時代行列が行われ、翌年からは、桓武天皇が新しい平安京に入ったとされる日10月22日に行われるようになり、現在でも「時代祭」として、葵祭祇園祭とともに京都の三大祭の一つとなっている。
 


 「時代祭」の行列は、「祭神である桓武天皇孝明天皇の二柱の御霊が、住まいであった御所から街の繁栄を見ながら行列のお供を従えて神宮へ行く」という形をとり、「京都御所」を出て京都の中心街を通り「平安神宮」に至る。

 同じく時代衣装行列で混同されやすいが、「葵祭」は平安王朝の貴族の祭りであり、勅使代と斎王代が御所を出て、下鴨神社及び上賀茂神社に参内するコースをたどり、平安朝の王朝風俗の行列が続く。一方、時代祭は、京に都があった千年を遡る形で、明治維新の官軍行列から逆順で平安時代までの風俗までが一覧できる。
 
 

(台湾占領)
*5.29/台湾 日本軍が台湾に上陸し、下関条約で割譲された台湾の占領を開始する。
*8.6/台湾 陸軍省台湾総督府を定め、台湾に軍政をしく。このため、台湾独立闘争が激化する。「乙未戦争(いつびせんそう)」
 


 1895年(M28)4月17日、日清講和条約下関条約)」によって、清国から日本へ台湾が割譲されることになった。しかし、そのことを一切告知されなかった現地台湾の官民は、清の台湾巡撫であった唐景粔を総統として、5月23日「台湾民主国」の独立を宣言した。

 日本は下関条約に基づき、6月2日、清国側と台湾受け渡し手続きを完了すると、樺山資紀を台湾総督に任命し、台湾への上陸を開始した。その時の清側の割譲責任者は、割譲反対派に暗殺されるのを恐れ上陸せず、洋上で手続きを済ませるという無責任体制だった。そして、大半が大陸人だった台湾民主国の幹部は、早々に大陸に逃れ、台北など台湾北部はほとんど無抵抗で平定された。

 

 しかし、台湾民主国の副総統兼民兵司令官だった劉永福(客家[ハッカ]出身で、ベトナムでの清仏戦争で勇猛に戦った司令官)は南部でゲリラ戦を続け、日本軍の平定は難航した。「客家」とは、古代以来、戦乱を避けて中国北部から南下し、中国南部地域や東南アジア一帯に定住して、独自の地盤を築いた漢民族の一派とされる。東南アジアなど海外に進出して、地域の流通・商業を支配する「華僑」の多くも、客家の出自を持つという。


 台湾中南部における苦戦の原因は、すでに台湾に定住していた客家やその他中国系農民の力を過小評価したことだと言われる。清国が送り込んでいた北部台北の旧政府の上層官吏が、ろくな抵抗もせず逃げ帰ったため、客家など定住漢民族の抵抗意志を甘く見た結果であった。
 

 中南部では、山間部に紛れ込んだ抵抗勢力が、ゲリラ戦で日本軍を悩ませた。劉永福は、三国干渉の結果を知り、台湾へも干渉を期待したが列強の介入は得られず、その後の日本軍の増派に堪えられず、10月には大陸の厦門(アモイ)に逃亡した。


 1895年11月18日、樺山台湾総督は台湾平定宣言を発し、台湾平定戦は終結した。台湾の抵抗は、台湾住民による明確な独立勢力として組織された「独立戦争」ではなく、従来の生活基盤を守ろうとするところから発したものであった。また日本軍は、下関条約による割譲を実行するための出兵であり、抵抗勢力への「台湾平定戦」であると位置づけた。しかし、実質的には、実効支配を実現する「台湾占領戦争」であったことに違いはない。
 

 この戦闘では、日本は約76000人の兵力(軍人約五万、軍夫二万六千人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者を出した。日本軍は、抵抗勢力のゲリラ戦に悩まされただけでなく、南方での赤痢マラリアコレラ脚気などで、戦死者の数十倍もの病死者を出した。台湾での抵抗活動は、その後の安定した統治から、あまり言及されることがないが、朝鮮半島以上に大きな抵抗運動があったことは明記すべきである。
 

乙未事変
*10.8/朝鮮 日本軍隊と壮士一団が、大院君を擁立してクーデターを起こし、閔妃を殺害する。「乙未事変(いつびじへん)」

 

乙未事変」は、1895年10月8日、日本公使三浦梧楼らの策略で、領事館警護の守備隊や警察官、および現地事情に詳しい日本人壮士(大陸浪人)らが、一部朝鮮兵などとともに景福宮に突入、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃「閔妃」を惨殺した事件。親露派の閔妃政権を追放するために、日本が、大院君派を引き込んで企てたクーデターである。


 「李氏朝鮮(朝鮮王朝)」は、1392年、高麗の武将であった「李成桂」が、高麗の恭譲王を廃して自ら即位したことで成立し、その後1910年に日本に併合されるまで、500年以上朝鮮半島で存続した封建王朝であった。李氏朝鮮は、中国の明および清の冊封体制下、その保護のもと中国の属国として、王朝を継続させてきた。
 

 李王朝も19世紀に入ると、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による「勢道政治」の時代となり、「両班」(ヤンバン)と呼ばれる貴族官僚が支配階級となり、政治綱紀が乱れ汚職・収奪などが蔓延するようになっていた。19世紀の半ばには、日本の幕末と同様に、開国をせまる列強の干渉が強まっており、安東金氏の権力支配にも蔭りが出ていた。

 「李昰応」(のちの興宣大院君)は、自身は王位の系譜にはなかったが、神貞王后に近づき、自分の次男を翼宗の養子とし、1863年に第26代王「高宗」として即位させることに成功した。このとき高宗は11歳であり、李昰応は国王の父親に与えられる称号「大院君」を得て、「興宣大院君」とされ、摂政の地位に就いた。

 

 興宣大院君は摂政になると、安東金氏の勢道政治の打破を目指し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなど、風紀をただし、また税制を改革し、当初は善政をしいた。一方で、迫りくる西洋列強に対しては、頑強な鎖国攘夷策を取った。

 大院君の強硬な攘夷政策は、列強との軋轢を招き、いくつかの事件が起きた。それらをきっかけに、大院君の独裁的な内政や、極端な排外政策が、宮中の批判勢力の増加を招き、1873年、高宗の正妃「閔妃」の一族らによって宮廷クーデターが起こされた。「高宗」の親政が宣言され、大院君を追放し、政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占めた。
 

 閔氏政権は、一転して開国政策に切り替え、日本軍が開国を求めて江華島に侵入する事件(江華島事件)が起きると、1876年日朝修好条規(江華島条約)を締結し、引き続いて、米、仏、露などとも通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派の閔妃政権に対して、大院君の斥邪派(攘夷派)は対立を深めた。

 閔氏政権は、日本から顧問を呼び近代式軍隊の編成を試みたりしたが、その反動をうけて、給与不払いなどに不満を持った旧式軍隊は、大院君派の煽動もあり、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。
 

 壬午事変で清に頼った閔氏政権は、親日開明政策から保守的な事大主義の親清政策へ大きく転換した。日本と結んで、朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした開化派の独立党「金玉均」らは、1884年12月、クーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立した。しかし、袁世凱率いる清軍の介入で3日間で頓挫、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。

 閔妃は清への事大主義に傾倒し、対外政策も国内政策も混乱を極めるなか、1894年、農民の反乱が起き、東学党の全琫準の率いる「甲午農民戦争」(東学党の乱)に発展した。この混乱を閔氏政権は収拾できず、清軍へ援軍を依頼、一方日本も邦人保護を理由に軍隊を動員し、両国軍が対峙した。
 

 反乱は鎮圧されたが、両国軍が撤兵しないなかで、大院君派がクーデターを起こして閔氏政権を追放した。しかし大院君はもはや傀儡でしかなく、事実上は金弘集政権が誕生した。金弘集政権は「甲午改革」(内政改革)を進め、日本に対して清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われた後、1894年8月1日、日清両国が宣戦布告をし日清戦争が勃発した。

 日清戦争は日本軍の勝利に終わり、朝鮮からは清の勢力は一掃された。後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとし、またもや閔妃派が政権を奪取した。そこで日本が大院君一派を引き込んで、逆クーデターを企んだのが乙未事変であった。
 

 ロシアの支持で政権を維持した閔氏派は、1897年、清国の冊封体制から独立し、高宗を光武帝とし、専制君主国「大韓帝国」となった。しかし日露戦争でロシアの勢力も後退すると、実質的に日本の保護国となった。そして、やがて1910年には日本に併合される。結局、朝鮮において、20年以上にわたって権力争いを続けた大院君派と閔妃派の私闘は、自主独立の気配を全く見せないまま、消滅の憂き目を見たのだった。
 
 

〇この年の出来事

*1.-/ 博文館が「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」を創刊する。

*1.-/ 樋口一葉の「たけくらべ」が「文学界」に連載される。

*2.2/中国 日本の第2軍が、遼東半島の先端で清国北洋艦隊拠点の威海衛軍港を占領する。

*4.17/山口 下関で「日清講和条約下関条約)」が調印される。日本は清国から、莫大な賠償金と、遼東半島・台湾などの領土を得た。

*4.23/ 独仏露が、遼東半島を清国に返還する勧告を日本に通知する。「三国干渉」

*11.8/ 三国干渉に屈して、清国に遼東半島を返還する。還付補償金は3000万両(テール)。