26【20世紀の記憶 1924(T13)年】

26【20世紀の記憶 1924(T13)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*1.21/ソ レーニン死去、53歳。以後、トロツキー派対スターリン派の内部抗争が始まる。
 


 レーニンは、暗殺未遂の後遺症や革命後の国政処理の激務によって、次第に健康を害していった。1922年5月に脳発作を起こして右半身に麻痺が生じ、演説がうまくできなくなっていた。政局の指示を行うのが難しくなり、政治局に休養を命じられると、スターリンレーニンの側近として、他の政治局員がレーニンと面会するのを制限し、その影響力を強化していった。

 レーニンに率いられた「ソ連共産党政治局」は、いわば内閣のようなもので、主要な政策の決定を担っていたが、政務が煩雑になると、レーニンは「書記局」を独立させ、自身の近くで直接補佐するような「書記長」にヨシフ・スターリンを就任させた。スターリンは、いわば内閣官房長官のような役割で、レーニンの体力が衰えるにつれて、レーニンの意向を代表するような立場に立って、その実権を掌握していった。
 


 レーニンは、話すことも出来ず、ほぼ廃人状態となり、1924年1月21日に最後の発作を起こして死去した。葬儀は1月27日に行われたが、スターリンが葬儀を仕切り、後継者の立場をアピールした。本来ナンバーツーの位置付けだったレフ・トロツキーは、スターリンが送った偽の葬儀日程のため、葬儀に参列さえできなかった。

 10月革命で最も活躍したのはトロツキーであり、トロツキー赤軍創始者として、革命後の内戦でも、これを勝利に導いた立役者だった。レーニン死後の党内闘争では、諸派はいずれもレーニンを神格化し、その忠実な後継者としてふるまい、スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキレーニン主義を標榜した。
 


 やがて主流派をまとめ上げたスターリンは、党の「書記長」として書記局に権限を集中させ、対立するトロツキーを閑職に追いやり、やがて国外追放にする。スターリンは、「一国社会主義論」による国内体制の維持を優先する路線を示した。一方で、トロツキーは「世界同時革命論(永久革命論)」を展開したが、この理論対立に敗れ、スターリンによるトロツキー派大粛清の大義名分ともされた。

 日本での60年、70年安保闘争の時期を通じて、様々な派が独自路線を主張して抗争したが、互いに相手側を「トロツキスト!」と罵りあった。互いに分派抗争する各グループが、相手側を「トロツキスト(分派主義者)」となじり合うのは壮観でもあった(笑)
 


 追放されたトロツキーは、各地を転々としながら最終的にメキシコに居を定めた。この間、第四インターナショナルを結成し、国際社会主義運動を展開したが、スターリンは国内で大粛清を進めており、メキシコに逃れていたトロツキーにも刺客が派遣された。そしてトロツキーは、1940年8月、関係者に成りすまし、登山家を装った刺客により、ピッケルで後頭部を打ち砕かれ暗殺された。

 「グルジア問題」の処理にあたってスターリンと対立するに至ったレーニンは、粗暴で猜疑心の強いスターリンの性格を案じるにいたり、書記長職からの解任を提案する覚書を書いたりしたが、すぐ後の発作で表現能力を失い、死後もスターリンに握りつぶされた。

 

 支配権を握った「スターリン書記長」は、その後着々と「一国社会主義」を構築していった。ヒトラーをも圧倒する大粛清で、完全な独裁権力を掌握したスターリンは、第二次大戦では、敗戦国の日独をしのぐ、参戦国最大の国民の犠牲を出したにもかかわらず、戦後は米ソ対立の「冷戦構造」を作り出し、一方の雄として君臨した。

 スターリンに関しては当然ながら毀誉褒貶は多いだろうが、ソビエト連邦という共産主義国家が、70年にも渡ってユーラシア大陸に存在し得たという事実は、スターリンの構築した「一党独裁体制」に負うところが多いであろう。


 
 
 
$『国家と革命』 (講談社学術文庫/2011/レーニン 著・角田安正 訳)
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3/dp/4062920905
 


$映画『グッバイ、レーニン! ”GOOD BYE, LENIN!”』(2003/独/ヴォルフガング・ベッカー
 レーニンとは直接関係なく、東西ドイツの統合と東ドイツ住民の葛藤と
https://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%82%B0%E3%83%83%E3%83%90%E3%82%A4%E3%80%81%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%EF%BC%81/318878/story/
 


*4.12/米 アメリカ下院で、新移民法案が可決。
*5.26/米 クーリッジ米大統領が「新移民法」に署名。日本からの移民は事実上禁止され、反米意識が高まる。以後、ブラジルなど南米への移民にシフトする。

 

 この「排日移民法」は、この年の7月1日から施行されたアメリカ合衆国の法律であるが、正確には「1924年民法」、または「ジョンソン=リード法」と呼ばれる。本来は、日本人移民のみを排除する法律ではないが、事実上、日本からの移民が不可能になったことをもっての、日本側からの呼称である。

 既存の「連邦移民・帰化法」に、移民制限規定が修正・追加されたもので、1890年にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするという内容であった。これは実質的に、それ以後に大規模な移民が始まった東欧・南欧出身者を厳しく制限することがねらいであったとされる。

 

 アジア出身者については、既に別個に、全面的に移民を禁止する条項が設けられており、当時、日本人だけがアジアからの移民を許されていた。移民・帰化法では「帰化不能外国人種」が規定されており、日本人を含むアジア人はすべてその対象であったが、この移民法追加条項で「帰化不能外国人の移民全面禁止」が追加された。それにより、帰化不能外国人で唯一移民可能であった日本人も、移民が不可能となった。そのため日本では、日本人をターゲットにした「排日移民法」とされることになった。


 アメリカにおけるアジア系移民は、1848年のゴールドラッシュからはじまった。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州で低賃金肉体労働に従事したが、競合する白人貧困労働者との対立・抗争が起こり始める。1870年制定のアメリカ連邦移民・帰化法では、「帰化可能」なのは「自由なる白人」とされ、アジア人は「帰化不能人種」とされた。
 

 日本人の移民は、ハワイ中心に明治時代初頭から見られ、やがてハワイ経由で米大陸本土への移民も盛んとなる。中国人移民が制限され、相対的に日本人移民が増えると、一部西海岸などで排日的な動きが見られた。それでも連邦レベルでの移民・帰化法では、日本人はアジア民族の中で唯一、移民全面停止を蒙らなかった。それは当時、いち早く近代化したアジアの国として、欧米諸国と対等の外交関係が可能と考えられたからであった。

 

 そんななかで、1906年、サンフランシスコにおいて「日本人学童隔離問題」が起こると、関連してハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。危機感をもった日本政府は、一連の「日米紳士協定」を結び、日本政府によって自主的に制限することになった。それでも地域レベルでは、様々な制限が加えられた。

 連邦レベルでの「排日移民法」は、当初は、東欧・南欧など後発組白人移民の制限を狙ったものであったが、日本人移民が目立ちだしたカリフォルニアなどの州レベルでは排日気運が強く、結局は、事実上日本人移民を禁止する条項変更がなされることとなった。
 


 この排日移民法によって、以後、新大陸への移民は南米ブラジルなどにシフトするが、もともと中国大陸への移民が圧倒的な数を占めていた。その前からの自主規制もあって、「排日移民法」による実害は、年間期待の数百名がゼロになった程度であった。ただし、排日移民法は当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み出して、対米感情を悪化させていったことはたしかである。


$『排日移民法と日米関係』(2002/簑原俊洋著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95%E3%81%A8%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%96%A2%E4%BF%82-%E7%B0%91%E5%8E%9F-%E4%BF%8A%E6%B4%8B/dp/4000244124
 


*12.-/仏 パリで雑誌『シュルレアリスム革命』の第1号が発刊される。
 


 アンドレ・ブルトンは、1924年に「シュルレアリスム宣言」を発表すると、仲間らと機関誌『シュルレアリスム革命 』を創刊、さらに「シュルレアリスム研究センター」を開設(1925)し、本格的に集団的運動を発足させた。

 シュルレアリスムは、ジークムント・フロイトが始めた「精神分析」による、無意識下の世界に着目する。通常の意識的な表現活動では表現されない、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視し、それらを芸術的表現にもたらそうという、意図的な芸術運動であった。

 

 シュルレアリスムを先導したのは詩人たちであり、主に文学上でのさまざまな表現方法が試みられた。ブルトンは「シュルレアリスム宣言」で、「自動記述(オートマティスム)」を、その重要な手法として取上げた。また、一方で絵画部門では、先行したジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画作品の大きな影響下で、「自動筆記」の外に、「デペイズマン」、「コラージュ」など、偶然性を利用し主観を排除した技法や手法が取り上げられた。


 シュルレアリスムという言葉自体、詩人ギョーム・アポリネールの作品から引用された造語の固有名詞であり、当初多くの詩人たちが運動に参画した。アンドレ・ブルトンはもちろん、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポー、ポール・エリュアール、アントナン・アルトーなどが、その名を連ねる。
 

 芸術運動としてのシュルレアリスムは、スイスのチューリヒで発生したダダイスムから発展・派生したという系譜を持つ。既成の秩序や常識等に対する反抗という点で、シュルレアリスムダダイズムと精神を共有しているが、ダダは、明確な規定と表現手法をもって登場したシュルレアリスムに取って代わられていった。

 シュルレアリスムは、主にパリで展開されたが、さらに世界中に広まってゆき、多くの国の芸術・文化に影響を与え、やがては政治、哲学、社会科学にまで影響を及ぼした。活動当初は、主に美術と文学の運動であったが、その後、芸術全体にわたって幅広く影響を及ぼし、映画、文学、彫刻、音楽、演劇、演劇、ファッションなど、現代における芸術表現の大半に応用可能な表現方法となった。
 


 絵画・写真の分野では、当初の文学以上に、多彩な顔ぶれが活躍した。シュルレアリスム絵画には、大きく二つの画風の流れが見られる。

 一つは、自動筆記やデペイズマン、コラージュなどを使い、自意識が介在できない状況下で絵画を描くことで、無意識の世界を表現しようとした画家たち。マックス・エルンストジョアン・ミロアンドレ・マッソンらの作品は、具象的な形態がなくさまざまな記号的イメージにあふれ、抽象画に近づいてゆくことになる。

 一方には、不条理な世界、事物のありえない組み合わせなどを、個物的には写実的に描いた画家たち。サルバドール・ダリルネ・マグリットらの描く絵画では、出てくる人物・事物や風景はあくまで具象的であるにもかかわらず、夢や無意識下でしか起こりえない奇妙な取り合わせの世界が描かれる。
 

 無意識を偶然性の強い手法で造形化するというエルンストらの実験的な手法は、美術界に大きな影響を与え、後に抽象表現主義などに受け継がれた。一方、奇妙な世界を写実的に描くダリやマグリットらは、見るものに強い混乱と印象をひき起こし、一般的なシュルレアリスム知名度を高め、後に続くイラストレーターや広告美術によって多くの模倣が行われている。

 若者間などでよく使われる「シュール」という表現は、後者のポップアートなどで一般化されたイメージを後追いしており、ブルトンなどが始めた「シュルレアリスム」の規定からは、かなり離れたものである。
 

 芸術運動としてのシュルレアリスムは、アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」に始まり、シュルレアリスム運動の「帝王」として君臨したアンドレ・ブルトンの他界した1966年までとする説がある。しかし実際には、シュルレアリスムに影響を受けたアーティストたちにより、さまざまな方向に展開していると言える。

 

$短編映画『アンダルシアの犬 "Un chien Andalou"』(ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ/1929)
https://www.youtube.com/watch?v=LcUUH8ylUFw
 


$『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(岩波文庫1992/アンドレ・ブルトン著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80%E3%83%BB%E6%BA%B6%E3%81%91%E3%82%8B%E9%AD%9A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3/dp/4003259017
 


〇この年の出来事

*1.26/日 皇太子裕仁親王久邇宮良子(ながこ)女王の婚礼の儀が、宮中で行われる。

*2.12/米 ジョージ・ガーシュインが『ラプソディ・イン・ブルー』をニューヨークで初演、熱狂的な喝采を受ける。

*3.3/土 トルコのケマル・パシャが、カリフ制を廃止し、オスマン王家全員を国外に追放。宗教教育、宗教裁判、一夫多妻制を禁止し、完全な政教分離と世俗国家化を徹底する。

*4.6/伊 イタリア総選挙で、ファシスタ党が絶対多数を獲得、ムッソリーニの独裁体制が完成。

*5.23/ソ スターリンが、ソビエト共産党第13回大会で、トロツキーらの反対派をプチブル的と批判する。

*7.5/仏 第8回オリンピック・パリ大会が始まる。