【京都・文学散策4】

【京都・文学散策4】
 

〇京都・文学散策10.雁の寺・等持院・紫野>水上勉『雁の寺』
 


 岸本南獄が死んだ日の前日、…… 衣笠山麓にある孤峯庵(こほうあん)の住職、北見慈海が訪ねてきた。…… 
「どうや、どんなあんばいや」
 慈海和尚は、玄関に出た顔見知りの女中に そんな言葉をあびせながら、つかつかと入って来た。と、その時、うしろに、まだ十二、三歳としか思えない背のひくい小坊主(慈念)が立っていた。
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 南獄はひと夏じゅう仕事もしないで孤峯庵の書院で暮したことがある。そのとき、つれていたのが里子であった。
「これはな、わしの描いた雁や」
 里子をつれて、孤峯庵の庫裏の杉戸から本堂に至る廊下、…… 四枚襖のどれにも描かれてある雁の絵をみせて歩いた。
 ・・・

 慈念の日課は、朝五時起床。洗顔。勤行。飯炊き。それがすむと、庫裏の台所に茣蓙(ござ)を敷いて朝食。八時半に家を出て、山道から鞍馬口に出る。千本通りを通り、北大路の大徳寺の西隣にある紫野中学に通う。この中学はもと禅林各派が徒弟養成のために経営した「般若林(はんにゃりん)」が学令によって(旧制)中学になったもので、学校教練もあった。制服にゲートルを巻いて登校しなければならなかった。

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 作家水上勉は、福井県の寒村に生まれ、貧困から9歳で京都の臨済宗寺院相国寺塔頭「瑞春院」に小僧として修行に出される。その後、小僧生活の厳しさに耐えかね脱走、連れ戻されて衣笠山の麓にある臨済宗天龍寺派等持院」に移った。17歳のとき脱走し還俗、あと遍歴を重ねながら小説を書くが、生活は苦難を極め家庭的にも不遇だった。40歳を過ぎてから『雁の寺』で直木賞を受賞、やっと文筆中心の生活に落ち着いた。

 小説の舞台「雁の寺」は、水上勉が小僧に出された相国寺「瑞春院」での経験が基になっており、日本画家上田万秋描く「雁のふすま絵」が現存し、水上の小説にちなんで「雁の寺」と呼ばれている。ただし、水上自身、この絵は事後に知ったと言ってるようで、別室のクジャクの絵を雁だと思い込んでいたとか。

 しかも小説では「衣笠山麓にある孤峯庵」と記されており、京都御所同志社大学の北にある相国寺瑞春院は、位置的には衣笠山麓ではない。その後在籍した「等持院」の位置を代用したかと思われる。さらには、小僧時代の水上は、「大徳寺の西隣にある(旧制)紫野中学」に通わされていた。そのすぐ西には、小堀遠州ゆかりの「孤篷庵」があり、その存在は水上も知っていたはずであり、一字違えた上で「孤峯庵」と名前を借りた可能性が強い。

 瑞春院から紫野中学(現紫野高校)までの経路を、地図上でトレースしてみたが、「千本通り」を通るとすると、かなりの回り道となる。おそらく大宮通りなどを上がったと思われるが、水上の思い違いなどもあるのだろう。ちなみに、私は新制の京都市立紫野高校卒であり、「禅門立旧制紫野中学」とは系列関係は皆無だが、同じ場所で学んだかと思うと、なにかの縁を感じる。大徳寺「孤篷庵」の娘さんも、たぶん高校の同級であったと記憶している。
 (注)「衣笠山麓にある孤峯庵」から紫野中学までの経路を書いているのだから、小説中の説明で間違いなかった。上記記述は当方が、烏丸今出川近くの実在する相国寺瑞春院からの経路と勘違いしていたのであった。従って地図上でトレースした経路は、小僧時代の水上が実際に、瑞春院から通ったと考えられるものになる。
 

 『雁の寺』は、直木賞を受賞して刊行された、ハードカバーの単行本で読んだ。なにげに実家の二階に転がっていて、ペラペラめくってみると、これは高校生が大っぴらに読む本じゃないと直感した。で、自部屋に持込み密かに一気読みする。本堂で展開される、慈海と妾となった里子の愛欲の様子を、上目遣いに尖った目つきで覗き見する慈念の暗い視線、それが隠れ読みしている自身と重なり、たくらまざるサスペンスとなったものであった(笑)

 水上はその後、『五番町夕霧楼』を書く。金閣寺の放火炎上事件を題材とし、放火犯の修行僧を主人公に、彼が唯一心を許す同郷の幼なじみ、夕子がヒロインとされる。夕子が売られて来た「五番町」は、西陣の一角を占めた遊郭であり、西陣の織元旦那衆が通いつける歓楽の地であった。等持院から金閣寺はすぐ近くであり、同系寺院として師に従って小僧の水上は何度も訪れただろう。そして、堕落した僧たちが、姿を隠して五番町へかよう様子も熟知していたはずである。

 このような内側から見た仏教界の堕落を描いたため、『雁の寺』の出版や映画化には仏教界からの抵抗が、かなりあったと言われる。
 

*映画『雁の寺』1962 / 監督:川島雄三 出演:若尾文子(桐原里子)
http://eiga-watch.com/gannotera/
 

+1.文芸春秋社刊『雁の寺』 +2.瑞春院「雁の襖絵」 +3.関係地図 +4.船岡山から紫野を望む +5.瑞春院 +6.若尾文子主演『雁の寺』(1962年) 
 

〇京都・文学散策11.嵯峨野・岡崎「平安神宮」>谷崎潤一郎細雪
 


 大沢の池の堤の上へもちょっと上って見て、大覚寺、清涼寺、天竜寺の門の前を通って、今年もまた渡月橋の袂へ来た。京洛の花時の人の出盛りに、一つの異風を添えるものは、濃い単色の朝鮮服を着た半島の婦人たちの群がきまって交っていることであるが、今年も渡月橋を渡ったあたりの水辺の花の蔭に、参々伍々うずくまって昼食をしたため、中には女だてらに酔って浮かれている者もあった。


 幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣まいりで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。そして再び渡月橋を渡り、天竜寺の北の竹藪中の径を、「悦ちゃん、雀すずめのお宿よ」などと云いながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。


 それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三度渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向った。
 

 あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と、感歎の声を放った。

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 『細雪』は、大阪船場の旧家蒔岡(まきおか)家の4人姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子の繰り広げる物語。次女幸子は、谷崎の三度目の妻松子がモデルで、彼女から触発されて「細雪」を執筆した。大阪船場に育った四姉妹の間で、芦屋に居をかまえた幸子夫妻との行き来など、場面は阪神間を中心に展開されるが、引用部分は、毎年、桜の時期に訪れる京都が舞台となっている。

 東京下町に生まれ育ち、生粋の江戸っ子と呼んでもおかしくない谷崎潤一郎が、いくら関東大震災にビビったとはいえ、関西に移り住み、阪神間の文化にどっぷりと浸かって馴染んだのは不思議でもある。谷崎は、最初、京都に仮の居を定めたが、すぐに阪神間に転居する。おそらく谷崎には、京都の「伝統文化」というものには関心がなかった。引用部にあるように、谷崎にとって京都は、一年に一度花見などに行く場所なのであった。
 


 近年になって規定され出した言葉だが、「阪神間モダニズム」の最盛期が、まさに「細雪」に描かれた舞台であった。小林一三による阪急電車阪神間山手沿線などに、風光明媚かつ快適な住環境の住宅地が供給され、そこに実業家や文化人などがモダンな邸宅を建設し、ゆとりのある趣味文化を形成した。

 阪神間モダニズムは、「ライフスタイルと都市文化」を示すものなのだが、具体的にはその時期の建築物が提示されやすい。野坂昭如火垂るの墓』にも出てくる「御影公会堂」などもその一つだが、一方で、生活文化そのものは形がなくて示しにくい。「細雪」では、大阪船場の商人文化を継承維持しながら、それを阪神間モダニズムの中で具現したような日常生活が描かれていて、貴重な文献遺産ともなっていると言えよう。
 

*映画化・ドラマ化は何度も行われており、いつも四姉妹のキャスティングが話題となる。ここでは1983年市川崑監督のものを挙げておこう。
http://movie.walkerplus.com/mv17134/
 

+1.渡月橋の桜 +2.法輪寺多宝塔 +3.平安神宮正面大鳥居 +4.平安神宮回廊と紅枝垂桜 +5.御影公会堂 +6.映画「細雪」1983年
 

〇京都・文学散策12.宇治>『源氏物語 第五十一帖 浮舟』



 女君(浮舟)は、「 あらぬ人なりけり」と思ふに、あさましういみじけれど、声をだにせさせたまはず。いとつつましかりし所にてだに、わりなかりし御心なれば、ひたぶるにあさまし。初めよりあらぬ人と知りたらば、いかがいふかひもあるべきを、夢の心地するに、やうやう、その折のつらかりし、年月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮(匂宮)と知りぬ。

 いよいよ恥づかしく、 かの上の御ことなど思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。

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[匂宮、薫のふりをして浮舟の寝床に忍びこむ]

 「浮舟」は、男が「薫」でないと気付いた。何と言うことだと思うが、声も出せない。かつての、ひかえるべき人前の席でも、想いを押さえられないほどだった「匂宮」は、ひたすら激しくせまる。浮舟は、初めから別の男と分かれば、何とか言いとがめることもできたのに、と動転していた。少し落ち着いたとところで、日ごろの思いのたけをぶちまける様子から、ああ匂宮だ、と知った。

 いよいよ恥かしく、姉君にどう思われるかと気になるが、どうしようもないことで、浮舟はひたすらむせび泣いた。匂宮も、なまじか逢ってしまったのが返ってつらく、この先、逢うのも難しいと思えてきて、さめざめ泣いた。
 

 この後、誠実な庇護者の薫と男の色気でせまる匂宮の間に挟まれて、思いつめた浮舟は、母君に最後の文をしたためる。

   「鐘の音の絶ゆるるひびきに音をそへて わが世尽きぬと君に伝へよ」

 浮舟は宇治川に入水するが、たまたま通りかかった「横川の僧都」に発見され、助けられて匿われた。生き延びた浮舟は、出家の思いが強くなり、ひたすら物思いに沈んでは、手習をしたためる日を過ごす。差し止める周囲の隙を見て、横川の僧都に懇願して出家したあとは、噂を聞きつけた薫や匂宮ともいっさい顔を合わさず、遣わされた使いとも、かたくなに対面を拒み続けて過ごすのであった。

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 源氏物語本編が、光源氏ひとりを中心とした「色好み」の物語であるのに対して、「宇治十帖」では、薫大将と匂宮という、全く対照的な主人公を配して、浮舟をヒロインとした近代的な恋愛物語に転化したところが面白い。「三角関係」だの「不倫」だのとの近代恋愛のキーワードが登場するわけだ(笑)
 

 現在の宇治市では、「宇治十帖」にちなんで、毎年秋には宇治川周辺一帯で「宇治十帖スタンプラリー」が行われる。もちろん「源氏」は架空の物語だが、それなりに想定されたラリーポイントを巡る催しである。「浮舟」のポイント・スポットは、「浮舟古跡」と刻まれた古碑のある三室戸寺に設定されている
$宇治十帖スタンプラリー>http://www.nihon-kankou.or.jp/kyoto/262048/detail/26204ba2212062537

 三室戸寺は、宇治橋東詰め京阪前(ラリー・スタート点)から北東にすこし上った所にある山寺であり、「宇治山の阿闍梨」として宇治十帖に登場する高僧ゆかりの寺であると想定される。「浮舟古跡」は、もとは「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」の墓のある宇治川右岸近くにあったものが移設されたと言われている。
 

 三室戸寺から少し戻り、山道を南方面に下ると「源氏物語ミュージアム」があり、その前を[さわらびの道」と名付けられた散策道が延びる。「さわらびの道」に沿ってぐるりと山すそを回るように下ると、宇治上神社宇治神社と、共に菟道稚郎子命を祭神とする神社があり、「総角(あげまき)」や「早蕨(さわらび)」のラリー・ポイントが設定されている。
源氏物語ミュージアムhttp://www.nihon-kankou.or.jp/kyoto/262048/detail/26204cc3290032590

 さわらびの道を下りきると、人専用の朝霧橋が塔の島(中の島)に向けて掛けられており、その対岸には平等院が開けている。そして、対岸(左岸)平等院側の散策道「あじろぎの道」にそって、残りのポイントが並ぶ。そして宇治橋西詰には「夢浮橋」の古跡と「紫式部像」がある。これだけのポイントを辿ってみれば、宇治十帖を体験した気にもなれるので、お得な観光散策となるのではないか(笑)

 

 「宇治」という地名は、「菟道(うじ)稚郎子命」にちなんだとされ、「菟道」と書いて「とどう」と読む地名も残っている。さらには、「兎(うさぎ)の道」であったり、「内(うち)外(そと)」の「内(うち)」が「うぢ」になったとか、諸説ある。
 

+1.宇治十帖『浮舟』 +2.匂宮の闖入 +3.浮舟古跡(三室戸寺) +4.宇治十帖スタンプラリー・マップ +5.源氏物語ミュージアム +6.紫式部