『Get Back! 30’s / 1939年(s14)』

『Get Back! 30's / 1939年(s14)』
 

○1.15 [東京] 大相撲春場所四日目、69連勝中の横綱双葉山安芸ノ海に敗れ、連勝記録がストップする。


 1939年1月場所4日目(1月15日)、昨日まで69連勝中の第35代横綱双葉山は、前頭4枚目の安芸ノ海と対戦する。両者は組み合ったあと、安芸ノ海の左外掛けに対して双葉山が右からすくい投げをうって防ごうとしたが、両者ともに斜めに倒れ、双葉山の身体が先に土俵に付いて70連勝を阻まれた。安芸ノ海はこの一番で大相撲に名を残しただけでなく、その後の精進によって第37代横綱に昇進している。

 双葉山の69連勝は、1936年1月場所7日目から始まり1939年1月場所3日目まで、足掛け3年にわたって達成された。当時は1月場所と5月場所の年2場所制、ひと場所は11日制だったが、双葉山の連勝人気から途中で13日制になった。その間、5場所連続全勝優勝、連勝の始まった時にまだ前頭だったのが、あっという間に横綱に昇進した。ちなみに、江戸時代は年2場所10日制で、「一年を二十日で暮らすよい男」などと川柳にうたわれた。


 安芸ノ海の所属した出羽海部屋は、この時の最大手の出羽海一門を率いており、一門の面子をかけて打倒双葉山を目指した。当時としては珍しい大学(早稲田大学)出のインテリ関取笠置山を作戦本部長として、連日双葉山対策をねった。双葉山は子供の頃、飛んできた吹き矢が右目に刺さり半失明状態であったが、誰にも漏らさず相撲を取っていた。笠置山らはそのことに気づいていて、徹底して「双葉山の右足を狙え」という作戦を立てた。それが効を奏して、安芸ノ島の二度にわたる左外掛けが勝利をもたらした。

 双葉山の力士生活は、日中戦争の開始と前後してはじまり、太平洋戦争の終了とともに引退を迎えることになる。十五年戦争とも呼ばれる戦争の時代を、そのままに力士として過ごしたことになる。引退後も、約束されていた名門立浪部屋を継がずに、零細部屋だった時津風部屋を再興、横綱大関を輩出して出羽海部屋に対抗する大部屋に仕たて上げた。

 昭和30年代には日本相撲協会理事長に就任し、当時のテレビ普及と相まって、栃錦若乃花の栃若時代など、大相撲人気の最盛期を創出した。現役時には、平成の大横綱白鳳が理想とする「後の先」(受けて立ちながらすぐに先手を奪う相撲)の相撲を完成させ、連勝が阻止されたときには「未だ木鶏たりえず」(まだ木鶏のように全く動じない最強ではない)と有力後援者に打電したと言われる。


 まさしく欠けるところのない横綱像であるが、唯一の汚点として「璽光尊事件」というものがある。現役引退から1年後の1947年、石川県金沢市にあった新宗教「璽宇」に食糧管理法違反の容疑で捜査が入った。この時双葉山は、警察関係者の進入を阻止し暴れたということで、教祖の璽光尊と共に逮捕される。

 今でいうカルトのマインドコントロールにはまったものと見られるが、敗戦直後の混乱期による虚脱感や、部屋や相撲協会の指導者の立場での悩みが、このような状況に陥らしめたとされる。きっかけは、熱心な信者だった囲碁の名人呉清源から誘われたともいうが、事件での双葉山らへの処分は寛大であった。これは終末思想を広め信者や物資を集める「邪宗」から、著名人の双葉山呉清源を救出する狙いがあったとも言われる。双葉山は知人らから説得されてマインドコントロールから離脱、自身の相撲部屋にもどり、相撲協会の理事として、その後の協会運営に尽力することになる。
 

○2.23 [東京] 理化学研究所仁科芳雄研究室に世界最大級のサイクロトロンが設置される。


 1931年理化学研究所で仁科研究室を立ち上げた仁科芳雄博士は、当時国内で例を見ない量子論原子核X線などの研究を行なっていた。当時未解明であった原子核の構造などを研究するためには、高性能の粒子加速器が必須であり、1937年、仁科研究室では世界で二番目の小型サイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させた。そしてさらに1939年2月には、200トンもの巨大電磁石を備えた大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。


 仁科は、米国の科学技術の進歩を熟知し日米開戦(太平洋戦争)には反対していたが、やがて1941年末に日米間で太平洋戦争が開始される。一方、1938年には原子核分裂の現象が発見され、理論上膨大なエネルギーを得られることが知られていた。核分裂反応を起こすには、ウラニウムのような大きな原子核に、高速に加速された高エネルギーの粒子をぶつける必要があり、その加速装置としてサイクロトロンが必須であった。

 1941年日米開戦が迫るなか、陸軍は秘密裏に理研に研究を依頼し、仁科研究所で原子爆弾の理論的可能性の検討に入った。当時、原子核研究は理研仁科芳雄グループと大阪大学長岡半太郎グループが双璧であった。海軍では長岡グループに検討を依頼するが、こちらは早々に実現不可能との結論を受けて断念している。

 1942年12月日米が開戦すると、仁科は各分野の有能な研究者を集め、アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年の1943年頃に、ウランの濃縮分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示した。ここから本格的に、仁科研究室を中心に原子爆弾の開発研究がおこなわれることになった。

 この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれたが、1945年、戦局悪化のもと米軍の空襲によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。そして期待された巨大サイクロトロンは、資材不足などで満足な利用も出来ず、戦艦大和と同じような不運な終局をむかえる。占領政策で戦前日本の軍事技術を壊滅させるべく、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令により、サイクロトロンは解体され東京湾に投棄された。この処置には、米国の科学者たちからも批判が寄せられたという。

 米軍によって広島・長崎に「新型爆弾」が投下されると、仁科博士は調査団の一員として現地を調査し、これが原子爆弾であると断定した。放射線を計測する満足な装備もなく、レントゲンのフィルムが放射線に感光したことから判定したという。長年の放射線研究や、この広島長崎原爆調査時の被爆などが原因となったのか、1951年60歳、肝臓癌で亡くなる。

 「理化学研究所」は1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う国内唯一の自然科学系総合研究所である。海外では"RIKEN"の名称で知られ、鈴木梅太郎寺田寅彦中谷宇吉郎長岡半太郎湯川秀樹朝永振一郎仁科芳雄など多くの科学者を輩出した。戦前は理研コンツェルンと呼ばれる企業グループを形成したが、太平洋戦争の終結と共にGHQに解体された。

 1958年(昭和33年)に特殊法人理化学研究所」として再出発し、現在は「国立研究開発法人理化学研究所」に名称変更されている。理研は大学の研究室のような制約を受けず、潤沢な研究資金でかなり自由な研究を行えた。戦後になると、大学では産業界との癒着が批判され産学共同研究が難しかったが、理研ではそのような制約もなくさまざまな産業製品の開発にも寄与した。

 「理研ヴィタミン」に始まり、合成酒「利久」、理研ゴム(オカモト)、陽画感光紙(リコー)、リケンのふえるわかめちゃん、リケンのノンオイルドレッシングなどなど、身近にある様々な製品を商品化している。あの「小保方さん」も理研の所属だったし、二重国籍じゃ駄目なんだけど、「二位じゃだめなんですか?」の発言で話題となった純粋日本国籍スーパーコンピュータ「京」理研のプロジェクトだったわけ(笑)


 なお、理化学研究所森田浩介グループディレクターらが発見し、2015年12月に命名権を得ていた113番の新元素の名称が「ニホニウム」とされた。欧米以外の国で元素を命名するのは初めてであり、今後、教科書などに載る周期表113番目にはニホニウム(Nh)の名前が書き加えられる。
 

○5.11 [中国・モンゴル] 満州国モンゴル人民共和国との国境ノモンハンで、満州国軍と外蒙古軍が衝突する。(ノモンハン事件


 1939年(昭和14年)5月から9月にかけて争われた、満州国モンゴル人民共和国の間での紛争のことであるが、実質的には大日本帝国ソビエト連邦間での国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつである。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍ソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。


 満州国モンゴル人民共和国といっても、両国は日本とソ連それぞれの傀儡政権であり、国境紛争とはいえ砂漠の真ん中に線などもなく、実質的には日ソ両国の勢力争いの一部であった。結果的には、対ソ戦闘における関東軍の作戦失敗による大敗とされるが、その作戦系統が錯綜していて評価が分かれる原因となっている。

 単純化すれば、現地戦闘軍指揮官、関東軍参謀本部、国内の軍中枢という指令系統がどうなっていたかが問題となる。日本陸軍中央は基本的に不拡大方針をとったが、具体的には現地状況を把握している関東軍参謀本部の判断を頼るしかない。関東軍では実質的に、下級参謀に過ぎなかった「辻政信」や服部卓四郎などが現地戦闘軍を動かしていたとされる。

 関東軍参謀の末席に過ぎなかった辻は、一貫してノモンハン戦を主導し「事実上の関東軍司令官」とまで言われた。圧倒的なソ連軍に対して、辻の企画した作戦は多大な損害を与えたとされ、後日の南方戦線を含めて「作戦の神様」と讃えられた。その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、退却指揮官へ自殺の強要、戦後の戦犯追求からの逃亡などについて批判がある。このように毀誉褒貶が激しい辻政信本人は戦後も生き延び、実戦体験に基づく戦記作家として好評を博した。


 その戦記を検証する実作戦参加者の多くは戦死、もしくは辻に自決を強いられたりしており、おおむね手柄は自分、失敗は現地指揮官とされてしまう。ノモンハン事件の責任として一時左遷されるも、南方作戦で参謀に復帰し、マレー作戦からフィリピン占領に至るまでは、戦勝日本軍側の事実上の指揮官として多くの敵軍の処刑を強行したとされる。

 南方戦線で戦線が後退しだして以降は、無謀な作戦を繰り返し、自軍に膨大な損害を出した。中支戦線、ビルマ戦線の参謀に転じてからも、劣勢に追い込まれた前線指揮官に対して死守命令を発令を出し、かろうじて撤退し帰還した将官を叱責殴打するなど、苛酷な対応をとった。マレーの虎と呼ばれた山下奉文中将は、マレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。

 高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、僧侶に変装しタイ国内に潜伏したり、国民党政府に近づいて特務機関に潜り込んだりするが、国共内戦共産党軍が優勢になると帰国して、国内に潜伏し戦犯で訴追されるのを避けていたとされる。GHQによる占領政策が終わり戦犯指定から免れると表に顔を現わし、逃走潜伏中の記録や戦記を発表してベストセラー作家となる。さらに国会議員にもなるが、1961年、辻は東南アジアの視察として公用旅券で日本を出発、その後ラオスで消息を絶った。現地共産軍に処刑されたとか、1962年時点で中国で生存情報が確認されたとか、諸説があるが事実は不明。

 ノモンハン事件そのものは、関東軍の軍備状況読み誤りが大敗の原因である。6月27日から再開される第二次ノモンハン事件の前に、のちにソ連の首相の座をフルシチョフと争った軍の実力者ジューコフが、極東軍団長に就任しており、続々と極東に増援部隊が送り込まれていた。日本軍中枢は「事件・事変」と捉え現地対応にまかせると言う姿勢であったのに対し、やがて事件中には独ソ不可侵条約を結んで、東西二方面作戦を避けるなど、ソ連側は「戦争」として対策を整えていた。

 ソ連軍を甘く見ていた関東軍は、戦闘が始まってから圧倒的なソ連軍の戦力に直面する。しかし戦闘前線から遠ざかるにつれて、その危機認識は甘くなり、参謀本部からの指令は行き当たりばったりの対応で大敗を喫することになった。そんな大勢の中で、局地的な辻参謀の奇襲作戦などが部分的な効を奏して、敵軍に大きな損害を与えたということであり、大阪城の攻防で敗軍の将真田幸村が善戦したというような日本人受けする物語に過ぎない。そもそも大勢を読み誤った責は、辻ら関東軍参謀本部に帰せられるのである。
 

○9.1 [ヨーロッパ] 独の陸空軍がポーランド進撃を開始。3日、英仏が独に宣戦布告。(第二次世界大戦が始まる)


 1939年9月1日、ヒットラーナチスのドイツ軍は、自演の陰謀事件を言いがかりにして、ポーランド国境の西、南、北の3方から一斉に進撃を開始した。3月のドイツによるオーストリアチェコ併合を黙認して、その弱腰を見透かされていた英仏も、同盟を結んでいたポーランド侵攻に対しては、さすがに9月3日、即時に独に宣戦布告して第二次大戦の端緒が切って落とされた。


 ナチスドイツは、8月にはソビエト連邦と「独ソ不可侵条約」を結び侵攻準備を完了しており、独が西から侵攻を開始すると、9月17日にはソ連ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連赤軍が東から侵攻を始めた。実は、独ソ不可侵条約には同時に「秘密議定書」が交わされており、事実上は、独ソにおけるポーランド分割占領であった。虎と狼に挟まれた兎のようなポーランドは、ひとたまりもなかった。

 ポーランドは独ソ両国により分割・占領されたが、ポーランド政府は降伏せず、残存する陸軍および空軍の部隊と共にルーマニアハンガリーへ脱出した。脱出したポーランド軍将兵の多数は、後に西側の自由ポーランド軍に参加し、ドイツへの抵抗を続けた。


 英仏は宣戦布告はしたものの実質には傍観し、ポーランドは市街戦と空爆により一般市民にも多大な被害を出した。また、ドイツ軍による「タンネンベルク作戦」での大虐殺や、ソ連軍による「カティンの森事件」のポーランド将校虐殺事件などが戦後明らかにされ、結果的には、ポーランド全人口の20%にあたる600万人のポーランド人が殺害されたとされる。中でも占領下のポーランドに多く住んでいたユダヤ人は、アウシュビッツなどの絶滅収容所で大量虐殺された。

 やがて1940年になるとドイツ軍は、ノルウェーデンマークベネルクス、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出し、イギリス本土上陸をめざし大空襲を行う。対英国の戦闘が膠着すると、今度は1941年6月、独ソ不可侵条約を一方的に破棄して「バルバロッサ作戦」を開始し、独ソ戦を始める。結局は、この独ソ戦の膠着とアメリカの参戦が、ヒトラー・ドイツの致命傷となる。
 

*この年
闇取引が横行、摘発された違反は20万918件/男性はカーキ色の国民服、女性はモンペ着用が推奨される
【事物】集団就職/白紙召集令状/警防団
【流行語】複雑怪奇/日の丸弁当/勤労奉仕/産めよ殖やせよ国のため
【歌】上海ブルース(ディック・ミネ)/父よあなたは強かった(伊藤久男・二葉あき子・霧島昇・松原操)/上海の花売り娘(岡晴夫
【映画】兄とその妹島津保次郎)/土と兵隊(田坂具隆)/残菊物語(溝口健二)/望郷(仏)/格子なき牢獄(仏)
【本】高見順「如何なる星の下に」(文芸)/天野貞祐「学生に与ふる書」/羽仁五郎「ミケルアンヂェロ」