『Get Back! 50’s / 1959年(s34)』

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『Get Back! 50's / 1959年(s34)』
(10-11歳)小学校5年生になる。普段、個別に遊ぶ顔ぶれではないことから、学校の遠足かなにかの写真だと思われる。どこなんだろうか。この頃は、ソフトボールでの三角ベースとかに明け暮れていた記憶ぐらいしかない。6年生との送別ソフトボール大会があって、5年生学年代表に選ばれて3番サードだったかと思う。要領だけで誤魔化していたので、中学生ぐらいになるとサッパリ駄目になったけど。
 
○1.1 [キューバ] 革命軍がバチスタ政権を打倒。2月16日フィデル・カストロが首相に就任する。(キューバ革命

 「アメリカ合衆国の裏庭」と呼ばれたカリブ海でも、キューバは戦略的に重要な位置を占めていた。実質的に保護国に近い状態の戦前でも、多くの経済的利権をもち、軍事的にもグアンタナモ基地を持つなどカリブ海の拠点であった。第二次世界大戦後1952年には、フルヘンシオ・バティスタが軍事クーデターによって政権を奪取し、露骨な親米政策で米の支援を受けつつ独裁体制の強化を図った。一方で、実質的にアメリカの傀儡政権であるバティスタ政権に対して、共産主義の影響を受けた学生組織や左翼組織による反バティスタ運動が高揚していた。

 フィデル・カストロらによる最初の反政府蜂起は、1953年の「7月26日運動」に始まったが、失敗に終わりカストロらは後にメキシコに逃れた。当地で、のちに盟友となるアルゼンチン人チェ・ゲバラと出会うなどし、やがてゲリラ戦部隊を編成して、1956年にキューバ再上陸を行う。80数名でキューバに渡ったが、すぐに政府軍に包囲され、生き延びた12名だけで山間に潜みゲリラ活動を続ける。

 1958年になると、山間で農民の支持を得るなどして勢力を増した革命軍は、カストロゲバラの指揮する複数の部隊に分かれ進撃し、やがて政府軍の敗北が決定的となると、バティスタは12月31日の新春パーティで辞任演説をするとともに、翌1月1日早くに隣国に亡命した。まもなく首都ハバナは革命軍によって制圧され、8日にはカストロハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。

 カストロは本来の共産主義者ではなく、当初は民族主義的な社会改革を目指した。農地改革を実施し小作人の解放をはかったが、多くのサトウキビ農園はアメリカ人地主のものであり、アメリカの利権と激しく対立することになる。アメリカはキューバ糖の輸入制限など強硬な対抗策を取ったため、キューバソ連に接近し、キューバ社会主義宣言をしてアメリカ権益をすべて接収し、アメリカとの関係は断絶する。

 その後の盟友チェ・ゲバラとの決別、ソ連核ミサイル持ち込みによるキューバ危機など、多くの変遷を経て、半世紀以上経過したいま、アメリカとの国交を回復するという時期に至っている。なお、ソ連崩壊により公開された資料などから、革命当初からソ連カストロをバックアップし、実質的な傀儡政権化を目指していたことが明らかになっている。カストロゲバラが「革命の英雄」として持ち上げられた背景には、そのようなソ連の意向も働いていたとされる。
 

○4.10 [東京] 皇太子明仁親王と正田美智子さんの結婚式が行われる。(皇太子ご成婚)

 この日、皇太子明仁親王と正田美智子さんの結婚の儀が、皇居内の賢所で執り行われた。殿下は束帯、美智子さんは十二単に髪をおすべらかしの装束で固めの盃事をなされ、無事、結婚の儀が成就された。その後の、皇居から東宮仮御所までの馬車列によるご成婚パレードでは、50万人の市民が沿道を埋めつくして祝福し、その光景はテレビの実況で日本中に放映された。このご成婚をきっかけに、テレビ受信機の普及は一気に進んだという。

 皇太子明仁親王は、避暑で訪れた軽井沢のテニスコートで正田美智子と出会い、テニスを通して交際を深めたとされ、「テニスを通しての愛」と報道された。美智子さんは老舗企業日清製粉チキンラーメン日清食品ではない)社長 正田英三郎の長女で、明治以降初めての平民からの皇太子妃として、国民の間では「ミッチーブーム」と呼ばれる社会現象さえ引き起こされた。

 しかし一方で、平民の娘として、皇室内外からの猛反対を受けることになる。昭和天皇香淳皇后をはじめ秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子の両親王妃らの皇族がこぞって反対を訴え、それを取り巻く旧華族の女子など、皇室に隠然たる影響力をもつ女性たちからの反発も強かった。

 学習院の女子同窓会「常磐会」の会長「松平信子」は、反対派のボス的存在で、手下同然の「柳原白蓮」などを使って陰湿な反対運動を行った。信子は旧佐賀藩鍋島侯爵家に生まれ、旧会津藩松平容保の六男恒雄と結婚した旧華族であり、大正天皇貞明皇后に仕えて宮廷内に大きな発言力を有していた。美智子妃の入内後も、そのいびり方は凄まじかったようだが、この辺りは宮内庁が表に出したがらないので噂の域を出ない。

 さらに柳原白蓮は、柳原前光伯爵が芸者に産ませた妾腹の子であったが、大正三美人の一人に数えられる歌人であり、当代一のスキャンダル「白蓮事件」でも有名となった。NHKの朝ドラ『花子とアン』で、仲間由紀恵演じる葉山蓮子のモデルと言えば、思い当たる人も多いかと思われる。炭鉱王の妻としての立場を振り捨て、一介の若い社会運動家と駆け落ちし華々しく「恋に生きた女」が、皇太子の愛には徹底的に反対するという矛盾を平気でやってのけた分けである。
 

○7.10 [三重] 不法監禁・思想教育の容疑で山岸会(世界急進Z革命団)が手入れされ、幹部が逮捕される。(山岸会事件)

 養鶏農業集団「山岸会」の農業講習に出かけたまま帰らないという訴えが関西各地で起き、三重県にある同会本部が手入れを受け、幹部7人が不法監禁、脅迫などの疑いで逮捕された。さらに20日にも5人が逮捕された。同会は特異な経営によるZ革命をとなえ、受講の強制などで問題になっていた。調べで、受講者を監禁したり、家族をニセ電話で呼び出して強制的に受講させていたことが判明した。強制受講は財政難をカバーするためだった。(昭和毎日webより)

 山岸会(現 幸福会ヤマギシ会)は、山岸巳代蔵が提唱する理念を実践するための団体として、1953年(昭和28年)に発足した。山岸巳代蔵は養鶏と米作を組み合わせ、鶏糞による米の増産と鶏卵の増産を目指し、社会活動実践母体「山岸式養鶏会」を設立し、「養鶏の秘匿公開」を謳い文句に特別講習研鑽会を開いた。しかし巳代蔵は、養鶏技術を具体的に伝授するより、難解な言葉を使って精神論を説くことに熱心であった。一方で「秘匿技術」を伝授されたものは、指導者の立場に立つなどして、組織が出来上がってゆく。

 1956年第一回特別講習研鑽会が開催され、同年および翌年の特別講習研鑽会への参加者はあわせて4500名を超えたという。創成期のメンバーの生活は、「昼食は全員甘藷」「醤油なし、おかずなし」というほどどん底にあえいだこともあったという。山岸会は、農業牧畜業を基盤とするユートピアをめざす活動体として、ヤマギシズムと呼ばれる独自の思想を展開した。それは、所有の概念を全否定し「無所有一体」の生活を信条として運営され、アーミッシュのように一般社会から隔離された、原理的な自給自足集団生活を目指すとされる。

 そのような隔離社会的な自閉的集団は、やがて今回の山岸会事件に繋がってゆく。目標の遂行が難航する中、構成員の知人らを「ヨウアリ、スグコイ」など真意を隠した内容の電報で呼び寄せ、7月の特別講習研鑽会に参加させた結果、身内が監禁され強制的に講習を受けさせられているといった訴えが数多く寄せられた。山岸会幹部9名が逮捕され、山岸巳代蔵にも逮捕状が出たが逃亡の末に逮捕された。山岸会は宗教教団ではないが、「謎めいた思想集団」「謎の革命集団」として報道され、後のカルト教団による事件の先行的な団体事件と認識されている。

 山岸会は事件で致命的な打撃をうけたが、70年安保の反体制運動の時期を通じて、学生運動活動家などから、ある種のコミューン運動として捉えられ、運動で挫折した若者が多数加入したり、「思想の科学」の哲学者鶴見俊輔が評価し、自身主催した「ベ平連」が協力し脱走させたアメリカ兵を、山岸会に匿ってもらったりという関係もあった。

 ある種の「自然生活コミューン」として復活した「幸福会ヤマギシ会」は、80年代の子育てや教育への不安や関心を背景に、教育や子育てコンミューンとしての姿も得て、「ヤマギシズム学園」という、子供たちを24時間の集団生活を送る私塾を展開。通常の学校生活などから隔離された生活を遅らせるなど、一般社会との軋轢をもたらしている。
 

○9.26 [中部・東北] 台風15号中部地方に上陸、27日には東北地方を襲い、39都道府県に明治以後最大の被害を及ぼす。(伊勢湾台風

 昭和34年の台風第15号は、9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心に全国にわたって甚大な被害を及ぼした。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県に甚大な被害をもたらしたため「伊勢湾台風」と呼ばれる。その犠牲者は5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)・負傷者38,921人にのぼり、台風による人的被害は明治以来最悪、さらに経済的被害は阪神淡路大震災の数倍で、東日本大震災以前では関東大震災に匹敵するとされる。

 台風15号は26日18時過ぎ、潮岬に上陸し次第に加速、紀伊半島を縦断し、中央高地を経て27日0時過ぎに日本海に抜けた。台風は進路予想はかなり正確であり、充分な災害対策を講じる余裕があったにもかかわらず空前の大被害が発生した。紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では、高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市知多半島で激しい暴風雨の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水が起こり、死者・行方不明者が3,300名以上に達する大きな被害となった。

 京都に住んでいた自分自身の台風体験としては、東海地方に進んだ伊勢湾台風の影響は少なく、翌日以降の報道によってその被害の大きさに驚いた。むしろ、この翌々年に襲った第二室戸台風は、戦前の室戸台風と似た経路を辿り、近畿地方を直撃する最悪のコースでやってきたので、日中ではあったがその強風を実感した。戦前の室戸台風を経験した両親らは、その時に倒壊した小学校の様子などをたんたんと語って聞かせた。

 これらより前の昭和30年前後にやってきた台風は、どの台風なのか特定できないのだが、もっとも印象に残っている。夜半にかけて雨風が強まり、隣家の家族が倒壊が心配だと我が家に避難してきた。ほぼ一晩中停電が続き、戦時中に活躍したという石油ランプに点灯し、それを置いた卓を囲んで二家族が、息をひそめて一晩を明かした様子は、その部分だけくっきりと思い出される。
 

*この年
岩戸景気」にわく/テレビの売れ行き急増/トランジスタラジオ1000万台を突破
【事物】パーキングメーター/スカイピンポン/国産カラーテレビ
【流行語】カミナリ族/神風タクシー/わたしの選んだ人を見ていただきます
【歌】黒い花びら(水原弘)/南国土佐を後にして(ペギー葉山)/黄色いサクランボ(スリーキャッツ)
【映画】人間の条件(小林正樹)/にあんちゃん今村昌平)/灰とダイヤモンドポーランド)/恋人たち(仏)
【本】週刊誌ブーム(「週刊文春」「週刊平凡」など創刊)/歴史書ブーム(「日本の歴史」「世界の歴史」など刊行あいつぐ)/安本末子「にあんちゃん