水上勉と京都

水上勉と京都】

 作家水上勉は、直木賞受賞作『雁の寺』や、金閣寺炎上をテーマにした『五番町夕霧楼』及びノンフィクション作『金閣炎上』などで、京都を舞台とした作品を描いている。水上は福井県の寒村に生まれ、生家の貧困から9歳で京都の臨済宗寺院相国寺塔頭 瑞春院に小僧として修行に出される。10歳前後での小僧生活の厳しさに耐えかね脱走、連れ戻されて等持院に移った。10代で禅寺を出たあと遍歴を重ねながら小説を書くが、生活は苦難を極め家庭的にも不遇だった。40歳前にして直木賞を得て、やっと文筆中心の生活に落ち着いた。

 「雁の寺」や「五番町」の下地となった、水上の京都の禅院での徒弟僧生活の跡を辿ってみる。掲載地図上では関連場所を赤の⇒で示した。まず小僧に出された相国寺瑞春院は、地図上の右端、京都御所同志社大学の北に位置し、ここで徒弟僧として下働き中心の生活を送った。地図の上部、現「京都市立紫野高校」の位置には、かつて禅宗が共同で設立した宗門教育施設「般若林」があり、戦時中の学制改組により旧制の「禅門立紫野中学」とされた。

 この宗門学校に小僧の水上は通わされていた。その時の通学路を地図上に赤の線で示したが、徒歩で30分以上は掛かる経路である。その時の経験は「雁の寺」でも描かれている。戦時中の軍国主義下、宗門学校にも関わらず軍事教練が課せられ、小柄で貧相な体格の小僧時代の水上が、重たい模擬銃剣を担がされ軍事教練でしごかれる辛い様子なども描写されている。
等持院から通うと紫の線になる。水上はこちらのコースを通ったものと思われる)


 この「旧制紫野中学」は、当時の大徳寺境内の一角に設立されており、その後敷地は私立の女学校に売却されたまま戦後を迎えた。戦後敷地は京都市が譲り受け、戦後の学制改革に基づく新制公立高校として、現在の京都市立紫野高校が設立された。当然ながら、水上が在学した旧制紫野中学と新制の紫野高校は、場所が同じだけでまったく系列関係はない。私自身、その紫野高校の15年目の生徒であり、校内のあちこちには、かつて存在した大徳寺塔頭を示す石碑が見られたが、在学中は気にも留めなかった。前身が女学校だったためか、男子トイレよりも女子トイレの数が多く、教師に文句を言った記憶があるが、教師いわく「お前らは外でしろ」(笑)

 高校に入ったころ、自宅に水上勉の『雁の寺』の単行本が転がっていた。直木賞受賞として話題になって刊行されたものであったと思うが、そんなことは知るわけもなくなんとなく手に取って読んでみた。高校生にはいささか刺激が勝ったが一気に読み終えた。雁の襖絵のある寺院の中で繰り広げられる、住職とその妾の性愛模様と、それを肌で感じ取る思春期を迎える徒弟小僧の目、そして安逸な世俗に堕落した高僧らへの批判的な視線が主題化されている。

 水上はその後、相国寺瑞春院の徒弟生活に耐えかねて逃亡するが、連れ戻され臨済宗天龍寺派等持院に移されることになる。地図で左端の等持院から、少し北にあたる金閣寺はすぐ近くである。しかも鹿苑寺金閣寺)は相国寺派の筆頭寺院であり、住職の随行として小僧の水上は何度も訪れた馴染みの寺院でもあった。三島由紀夫が何のゆかりもなかった金閣寺の炎上をテーマに、取材と観念で創作した『金閣寺』とは異なり、水上勉にとっては、金閣放火犯の修行僧は身近な存在で、自身の境遇が重ね合わされるような存在であった。

 『五番町夕霧楼』では、放火犯の修行僧が唯一心を許す同郷の幼なじみ夕子がヒロインとされる。夕子が売られてきた遊郭「五番町」は地図の最下部にあり、西陣の織元旦那衆が通いつける歓楽の地であった。三島由紀夫の『金閣寺』では、観念のお化けみたいになった美の象徴金閣に放火するしかなくなった修行僧という設定だが、放火犯の境遇に身をつまされる経験をした水上勉にとっては、「そんなもんじゃない」と思われたであろう。周辺の高僧とされる人々らの、世俗の奢侈や華美に溺れる姿を見、その象徴としての金閣を見たのであろう。

 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。

 「戦中派」世代の価値を表現する中心グループは、安岡章太郎吉行淳之介遠藤周作などに代表される「第三の新人」たちであり、彼らは絶対的な価値を信じられず、自らの生活感覚・皮膚感覚を頼りに判断していくより仕方がない道を選んだ。まさに同世代に属する三島由紀夫だが、彼は早熟の天才としていち早く文壇に登場し、その価値観にも戦前に良しとされた世界が深く刻み込まれている。むしろひとつ前の世代、第二次戦後派に分類されたりもする。

 一方で水上勉は、戦中派でも年長の方の生まれになるが、40歳前にやっと本格デビューという遅咲きであり、しかも直木賞作家として、当時は芥川賞よりも低く評価された大衆娯楽文学作家として見られた。早熟天才のエリート作家と遅咲き大衆文芸作家、三島にとって水上は眼中になかっただろうが、水上は三島を鮮烈に意識していたのは間違いない。

 おそらくは交わることのなかったような二人の作家が、偶然にも「金閣炎上」という同じテーマに取り組むことになったのは奇遇でもある。あらためて読み比べてみるのも一趣ではないだろうか。