現代伝説考01 第一章.異空間伝説

この試着室で・・・

   『現代伝説考』
(恐怖と願望のフォークロア

第1章.異空間伝説
 かつての伝統的な村落共同体は、それ自体がひとつの閉鎖空間であった。外部との交流がすくなく自足的で閉じた社会をなしていた。そのような閉じられた空間で、独自の民話が語り継がれてきたのである。

 しかし現代の都市文明ではそのような地域的閉鎖性はほとんど解体され、共同体の構成員のあいだで共有されていた伝説は成りたたなくなっている。では、そのような現代都市空間でいまなお語りつづけられる伝説とはどのようなものだろうか。

 地域的閉鎖空間が崩壊する一方で、近代の都市には疑似密室的な空間が多くみられるようになってきている。新宿副都心にそびえ立つ高層ビルのひとつひとつも、それ自体がある種の密室だろう。ビル内のエレベーターやトイレも、当然ながら密室性をもっている。また高速道路を疾走する自動車も、かつては見られなかった移動する密室空間だとも考えられる。

 このように共同体的な閉鎖性が消えていく一方で、現代の都市生活では個別的な密室空間が増殖しつつある。それは、われわれの現代都市文明の特長のひとつであるだろう。そのような観点から、現代伝説にあらわれる特異空間に着目してこの考察をはじめてみたい。もちろんここでいう空間とは、現代人がもつ「意識」の別名でもある。

1.試着室・トイレ・風呂場
 ここにあげた空間の共通性は、人が裸になる場所だというところにある。現代人は他人に裸を見せる機会がすくなくなる傾向にあり、やむをえず裸になる場所は多かれ少なかれ個室性・密室性をおびてくる。

1-1.試着室
 おもえば人が身にものをまとうという行為は、人間が他の動物と分かたれる文化的原初のひとつであろう。とすれば、人は衣服を脱ぎ裸になるとき、日常性の中で隠ぺいされている遠い原初の秘密をかすかに想い起こすのかもしれない。いまこの秘密を正鵠にいいあてることはできないが、このような日常の切れ目から、潜在的な物語がつむぎだされてもおかしくはないだろう。まずは投稿の中から、このような裸になる場所にまつわる噂話をいくつか挙げることからはじめてみよう。

『#190-2試着室ダルマ』
《それから十数年前から結構何度も聞いた、パリの都市伝説を思い出しました。パリのブティックに入った日本の女の子が、試着室へ入ったまま、行方不明になった。しばらくして見せ物小屋に、手も足も切られてだるまのようになり、口もきけない女の見せ物が現れたが、顔を見ると、ブティックでいなくなったあの子だったというものです。
 パリを素材にした話ですが、東京に流布している伝説です。》
 『試着室ダルマ』と称されて、若い女性のあいだを中心に流れている有名な噂話である。『オルレアンのうわさ(*1)』がその源流にあることは想像に難くないし、『うわさの本(*2)』でもとりあげられている。このように、書籍などを通じて二次的に流布していくのが現代伝説の一特長でもあるのだが、いまはこの点には立ち入らないでおこう。

『#211-2試着室ダルマ』
《ブティックだるまの話。私も高校生の時、英語の授業のときに先生から聞きました。そのバージョンでは、日本人の観光客女性がハンブルクのブティックの試着室に入ると、奥の鏡ががんどう返しになっていて、そのまま裏へ引き込まれ、手足を切り落として、アラブの大金持ちの閨房に売り飛ばされるという内容でした。話者がアメリカ遊学歴のある若い女の先生で、学校にフルサイズのアメ車(それもボロ)で乗り付ける、という変わった人だったので、こういう話にも妙な信憑性があって、生徒は真剣に聞き入ったものでした。》
 このようにいくつものバリエーションがみられるが、日本人の若い女性がヨーロッパなどの都市のブティック試着室から誘拐され、東南アジアやアラブなどの途上国であられもない姿で発見されるというところが共通している。

 試着室のもつ象徴的な意味はいくつも考えられるだろう。ただここでは、多くの人が出入りするブティックのなかでの個室・密室であること、そして若い女性が衣装を着がえる場所であることに注目しておきたい。

 個室・密室ではなにが起きるかわからないという不安がある。それがこの話題の伏線となっていると考えられる。また、衣装を着がえるというのはある種の変身でもある。美しく着飾るという快をもつとともに、自分が自分でなくなっていくという潜在的な不安も考えられる。そのような願望と恐怖のアンビバレントな気持ちで鏡に映るわが身をながめているとき、突然どこかへつれ去られたとしたら……。

 自分がこれからどうなっていくかわからないという不安は、まだ身の定まらない若者、とくに若い女性には共有されやすい心情であろう。それが海外旅行中のブティック試着室から消失するというドラマティックな舞台設定と共鳴現象をおこして、噂を語りついでゆく原動力になっていると考えてもおかしくはないであろう。

 そして結末は一転して、手足を切られた人間ダルマで見せ物にされるという無惨な状況で発見される。しかし、この話は主人公の女性に同情するような悲劇としては語られていない。むしろ、海外旅行という晴れやかな場から極端な落差のあるオチは、突き放した滑稽ささえ感じさせる。おそらくこの噂をつたえあう場では、軽い笑い話として終わる状況が想像される。現代伝説は、このような恐怖と滑稽が抱きあわされたところで生命をもつのであろうか。

 またこの話題には、二重の変身が重ねあわされているところにも注目しておきたい。美しい衣装に着替えるという望ましい変身と、人間ダルマにされてしまうといういささかグロテスクな恐怖の人体変形とが。このようなロマンと恐怖のメタモルフォーシスは、人格の変貌と多種多様化といった現代の思潮とも接点をもってくると考えられる。このあたりの主題は、あらためて人体変形と人格変成の章で取りあげることになるだろう。

 なお、この種の話がたんに書物などの受け売りではなく、口づての噂話として語られているという証言をいくつかあげてつぎの話題にうつろう。

『#57-3試着室ダルマ』
《よくあるインドで発見された日本人女性ネタ
 友人でよくヨーロッパに行く当時20代後半の女性から2〜3年前聞きました。どこでもよく聞く(例の、手足をもがれて見せ物にされた日本人旅行者の話)ネタなので、「じゃあ具体的に誰に聞いたの?」と突っ込むと「友達からよ。これはホントの話なんだよ」と真剣な顔で返事が返ってきました。この手の話に突っ込むもんじゃないと反省しました。》
『#375-3試着室ダルマ』
《OL時代、同僚から聞いたのが最初です。その後、母も知り合いから聞いてきました。もっぱら、女性の友人を中心に噂が広がっていたのが特徴的でした。》
(*1)『オルレアンのうわさ』エドガール・モラン 著(みすず書房 1973)
(*2)『うわさの本』別冊宝島(92)(JICC出版局 1989)
1-2.トイレ
 トイレという場所も、部分的にであれ肌をあらわにする密室である。今回の投稿にはトイレに関する噂は比較的少なかったが、古くには、カワヤの神さまが現れるとか河童にシリコダマをぬかれるといった数多くのカワヤ伝説があった。この河童伝説と関連がありそうな話をひとつあげてみよう。

『#121-2トイレの手』
熊本市内のI商業高校のトイレから夜中に手がにゅうっと出てくる。そんな話しがあって、ある人が確かめてやると、そのトイレで手が出るのを待ち受けていました。やがて、話しのとおり、便器の中から手が出てきたそうです。そこでその人は手を掴んでおもいっきりひっぱたら腕だけが抜けて来たそうです。とれた腕を良くみるとその手は、猿の手だったとか。》
 便器からでてきた猿の手というのもある種の妖怪にちかく、シリコダマをぬきにくる河童と共通性がある。ひとむかし前まで、民家のトイレは母屋から廊下づたいにはなれた場所にあったり独立した小屋であったりした。そのような薄暗い個室で不安定な姿勢で尻をだしていたりすれば、気味のわるい妖怪がせまってくるような妄想をいだいてもおかしくはない。そのような雰囲気のなかで、さまざまなカワヤ伝説がうまれたのであろう。

 ところが現代の住宅では、日常の生活の場に明るく清潔なトイレがしつらえられている。かつてのような汲み取り式ではなく清潔に水洗化され、洋式の座式が大勢を占めさらにはシャワー式洗浄器なども普及する時代である。このような環境では、もはや妖怪たちは棲息する余地もないだろう。たしかに、現代は妖怪には棲みづらい時代となっている。

 そんななかで、学校にだけはいまでもトイレ伝説が命脈をたもっている。上記の話も高校が舞台であるが、どちらかというと小中学校の子供たちのあいだで活発な噂が語られている。いわく「トイレの花子さん」、「赤い紙青い紙」、またその変種とおもえる「赤マント青マント」などなど、このような話が現実的な恐怖感をもともなって流されているのである。

 噂を形成しやすい学校空間の特殊性はあとでふれるとして、投稿された「トイレの花子さん」の例を引いてみる。

『#27-2トイレの花子さん
《小学校の 1年生用のトイレの北から2番目の個室は,普通に使っているとなんともないが,<はなこさん>とよびかけると,なかから誰かが返事をする。 誰も確かめた人はいない。 小学校にいる時,普通に言われていた》
 雑誌などにもよく紹介されている有名な怪談である。そういう意味では、二次情報が全国的に展開されている例ではある。しかし大半の子供たちは、あくまでもそれを噂として耳にし、また口づてにつたえていくのである。そのようすを示す証言をあげておこう。

『#257-1トイレの花子さん
《今日トイレの花子さんに関する 簡易アンケートを実施しました
 5中学のうち 2中学で,噂の存在を確認しました
 一つの中学では 理科室にいってからトイレにいくと
 花子さん が出現するということでした》
『#257-2赤い紙青い紙』
《赤い紙,青い紙 の噂は きいたことがあるというこが
 数人いることもわかりました》
 ついでにもうひとつ、なんでもない話ではあるが。

『#24-3トイレの変なおじさん』
《そういえば、中学の頃、一人でトイレに行くと変なオジサンがオチンチンをのぞきにくるという伝説がありました(これは西宮ですが)。学校の理事だという話しも出ていましたが(^^;)》
 ここで出てくるのは妖怪ではなく、ちょいと変なおじさん、すなわち変人奇人である。さきにふれた「トイレの花子さん」や「赤マント青マント」もその姿は具体的には報告されていないが、なにがしか人の姿かたちをしていることが想像される。すくなくとも、河童などのように他の動物をグロテスク化したような妖怪の姿をしていることはない。

 現代の伝説では、かつてのように自然と密接なつながりをもって空想されたような、動物の姿をデフォルメした妖怪はあまり登場しない。有名な「口さけ女」にしても、戦前から存在していた「怪人赤マント」にしても、あくまで怪人・奇人・変人の系列につらなる「ヒト」であるとみなせる。妖怪よりも人間そのものが恐怖化の対象とされやすいところに、現代人の心性が見いだされるようにおもわれる。

 話題をトイレにもどすと、一般家庭のトイレは明るく快適になりもはや怪談の発生の余地はなくなった。そして、学校のトイレのような公共性のある場所で、しかも閉鎖的な同質集団が利用する特殊な状況でのみ怪談が発生するのであるかと考えられる。しかもそこに登場するのは、かつてのように自然との境界に棲息するような妖怪ではなく、人間そのものが恐怖化されて表象されているかのようにおもわれる。

1-3.風呂場
 裸になる場所といえば当然風呂場があげられる。風呂場には、温泉や公衆浴場のように多数がいっしょにはいる公共性のあるものと、家風呂のように個別性をもったものとがある。前者は密室とはいえないが、後者はトイレとならんで個室性・密室性をもったプライバシーの場でもあろう。まずは後者の例からあげてみよう。

『#128-2風呂場で人間ちり鍋』
岸和田市民病院に勤務する知人に聞いた話。入浴中に、ぬるかったのでガスをつけたまま、心臓発作か何かで死んだ人がいた。知人が発見した時には、湯がグラグラ煮立っていた。慌てて救急車を呼んだ。やってきた救急隊は、とりあえず引き上げようとして、両肩を持って引き上げたら、湯につかっている部分の骨だけがズルズルっと持ち上がり、身は残ったそうだ。ちりなべを食べている時に聞いた。》
 この投稿に触発されてでてきた、よく似た事例をもうひとつ。

『#145-2風呂場で人間スープ』
《たぶん、その温泉? は、気持ちよくなるなにか、温度だとか雰囲気、あるいはガス分圧などの状態がときとしてうっとりしてしまうようなことになっていて、ほんとに老人などが沈んでしまうのかもしれないな、と、思います。親戚が話てたけど、知人のおじいさんがガス風呂で「追い炊き」している最中に往生を遂げたらしく、そのまま湯が煮立って、人間スープになってしまったということです。》
 浴室で老人などが亡くなることは、少なくはないとおもえる。浴槽に浮かぶ老人死体の光景からは、なにがしかの孤独感と悲惨さがうかがえる。また、それを発見した家族の衝撃も大きなものであるはずだ。そのような家族から、出来事が積極的に口外されることは考えにくい。

 ところがいずこともなしに話がもれると、部外者の口さがない噂話へと発展されていく。そのような過程をへて、このような「人間ちり鍋」や「人間スープ」が作られていくのであろう。「試着室ダルマ」のような若い女性だと、いくばくかのロマンやエロスも共有される余地があるが、浴槽の孤独な老人死体にはそのようなロマンは含まれようもない。

 ロマンなき恐怖は無惨なだけである。とすれば、そのような状況はできるだけ遠ざけておきたいという心理がはたらく。それには、滑稽化して笑いとばすのがいちばんということになろうか。試着室から消えさる若い女性にはいささかの秘密のにおいが漂うが、浴槽での老人死体のプライバシーなど一顧もされようがない。同じ密室であっても、主人公によってはまったく意味の異なった物語となるようである。

 多数の出入りする公衆の浴場にも「老人死体」は登場する。

『#98温泉の老人死体』
《東京の品川区と大田区の境界付近にM温泉という銭湯があります(新幹線から煙突が見えるので御存じの方もいらっしゃるかもしれません)。
 ここは、温泉といっても地下の化石化した海水を温め直して浴槽に張っている方式のようで、入浴料金は通常の銭湯と同じです(関係ないか…)。
 特徴的なのはお湯の色です。殆ど醤油同然の色合い、底のタイルは全く見えず、湯舟に浸かっても水面下20cmほどの我が身さえもう見えません。どんな成分なのか、入っていると肌がスベスベするからたいしたものです(これも関係ないですね…)。
 ここに、年に数度は救急車が呼ばれることがあります。湯あたり等で倒れた人を運ぶのですからどうということもないといえばそれまでですが、近所で、永年、酒屋を営んでいるご主人の話によると、そのうち一度や二度は、湯舟の底に沈んでいた爺さん婆さんの死体をそっと運ぶんだそうです。
「笑っちゃだめだよ、*** さん。入ってる人の膝に触って『?! ワーッ! 』ってこともあるしさ、湯をしまって、お湯を抜きはじめて見えてきたりするんだから…」》
 この投稿に連動して後日に掲載されたコメント投稿を、続けてあげてみよう。噂話の伝わり方に妙があるので、長めに引用してみる。

『#304-1温泉の老人死体』
《えー、実は私、大田区M込には数年前まで住んでおりまして、今でも、週に一度はお稽古事で通っているのですが、残念ながら、M温泉に入った事(お肌がつべつべになるなら、いっぺん行ってみたかったな〜)も、その噂も知りませんでした。
で、先日、お稽古の先生(戦後よりM込在住、初老のご婦人)に、
 「センセ、わたし、M温泉の、こーゆー話を聞いたんですけど…」
 「ええっ! 私、M温泉には、何度も行ったことあるのに、まあ、嫌だ!ホントなの?」(初耳だったらしい)
 「…あ、その、多分、ウソです(^_^;)」
 「んまあっ! 何て悪趣味な。 一体何処の誰なの、そんなデマを言うのは!」(そのまま、苦情を言いに飛んでいきそうな勢い)
 「…えと、えと(^_^;)」(必死で話題を変える私)
 その時「でも、お年寄りが、温泉に入っている時に亡くなる、ってのは、良く有る事なのね。 実は、ウチの隣もそうなのよ」 と話して下さったのが、十数年前、先生のお宅のお隣のご隠居さんが、正月、寒川神社へ参拝に行ったついでに、そこの温泉(何でしたっけ?名前)に入ったら、そこで、ぽっくりいってしまい、浴槽の底に沈んでいたのを、後から入って来たお客に発見された。 …と、いう話。
 「それを聞いた時にはねぇ、私、失礼だけど、なんてバカな死に方、と思ったものですよ。」
と、先生。 うーむ、これはホントの話なんでしょーか? それとも、お返しにひっかけられたのでしょーか(^_^;)》
 この「お稽古の先生」からさらに別の人に伝わっていくとき、「M温泉で実際にあった話」となってしまうのかもしれない。それにしても、このお師匠さんの言葉をかりるまでもなく、この老人死体もたぶんに突きはなされた語られかたをしてゆくことが想像される。たくさんの人が出入りする公衆浴場や温泉の浴槽で、ひとり寂しく沈んでいる老人の死体。これには、大都会の雑踏のなかでの孤独といった、都会生活者の疎外感のような意識が重ねあわされているとも考えられるのではなかろうか。

 さて、この論考では「水」のもつ意味がひとつの主要テーマになる予定である。ここでは、風呂の水ないし湯がもつ意味に簡単にふれてみよう。都会生活は、かつての伝統的社会とくらべれば相対的に自由ではある。しかし、当然のことながら無際限の自由などはなく、われわれは目には見えにくいさまざまな糸にしばられている。このような都会生活者を水族館の魚にたとえてみればどうだろうか。目には見えない透明な水、しかし魚はその外に出ることはできない。

 もちろん物理的には都会から出ることはできる。しかしながら、たとえ外に出たところで、さまざまな都会生活のしがらみから完全に自由になることはないだろう。かつての田園生活はノスタルジーのなかにだけあって、たとえ物理的には田園にもどったとしても、それはかつて存在したような田園生活ではない。また村落で生まれそだって生活しているとしても、TVをはじめとする都会の情報がかれらを取りかこんでいる。われわれのまわりには、すでにそのような象徴的な意味での「都会」が蔓延しているのである。

 このような目には見えない透明な「都会」を水族館の水にたとえれば、現代人が水族館の魚として生活せざるをえない状況もうかびあがってくる。ここで風呂の水底に沈む孤独な老人死体は、群衆のなかでの孤独をかこつ現代都会人と重ねあわさって見えてくるのではないだろうか。もちろんここで都会とは、目にはさだかに映らないもうひとつの大きな密室、という意味をおびてくるのである。

 この項では、都会・水・密室という象徴的な関連を指摘するにとどめてつぎにうつろう。