『Get Back! 90’s / 1990年(h2)』

『Get Back! 90’s / 1990年(h2)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

ファジィ バブル経済 3K 海外渡航者100万人突破  「愛される理由」

 

オウム真理教 衆院選に立候補)

◎1990.2.3/h2 オウム真理教 25人が衆院選に立候補

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  麻原彰晃こと松本智津夫は1955年、熊本県八代市で生まれ、智津夫は先天性緑内障で盲学校専攻科へ進んだが、「東大の法科へ行って政治家になる」と言って22歳で東京へ出た。結婚後、船橋市で「松本鍼灸院」を開き、やがて自然食品販売の「BMA薬局」を開業するも、薬事法違反で逮捕される。

 このころから阿含宗の修行を始め、やがて阿含宗を去ると麻原彰晃と名乗り、1984年「オウム神仙の会」を設立する。何冊も著作を出版し、高学歴の弟子たちを次々と入信させるのに成功する。87年「オウム真理教」に改称し、89年には東京都から宗教法人の認証を受けた。

 

 このころから、信徒の増加にともなって、法外なイニシエーション代や布施など、営利追求の姿勢も露骨になり、教団内で集団生活をいとなむ出家制度など、信者の家族などからの批判も高まった。1989年11月4日には、オウム批判団体の支援弁護活動をしていた坂本堤弁護士一家の失踪事件が起こるが、遺体などの発見がされない状況で、オウム犯行説は噂の範囲でとどまった。

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 1989年8月に麻原は「真理党」を結成して、翌90年2月の衆議院議員総選挙に出馬を計画し、「アストラル・ワールド・コンサート」と称して、麻原本人による「彰晃マーチ」、青い象を模した「ガネーシャ帽子」、黄色い象の着ぐるみの「ガネーシャ等身大マスコット」、麻原のマスクをかぶった「彰晃軍団」が登場し、事実上の結成大会を華々しく行う。

 

 そして1990年2月、麻原と信者24人が第39回衆議院議員総選挙に出馬する。しかし選挙立候補前の段階で、すでに「坂本堤弁護士一家殺害事件」を実行しており、候補者のうち6人の幹部が一家殺人に関わっていたことが、後日に判明する。

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  選挙では、信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子などもマスコミが取り上げ、知名度を上げた。

https://www.youtube.com/watch?v=rVSZvg00M-k

 

 さらには、街頭宣伝運動は定められた時間をオーバーし、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレットや雑誌をばら撒き、麻原そっくりのお面を運動員に被らせるなど、公職選挙法違反を繰り返し、指摘されたら「布教活動だ」と答えさせるなど、平気でルール無視をした。

 しかし結果は、麻原本人でさえ1,783票で、全員落選の惨敗を受けた。しかし麻原は「票に操作がなされた」などと惨敗を認めず、選挙では世界救済ができないので、無差別テロ計画を示唆し、オウム真理教の国家転覆計画を立てるなど、非合法活動を更にエスカレートさせていった。

 

国際花と緑の博覧会[花博]開会)

◎1990.3.31/h2 国際花と緑の博覧会開会(大阪/花博)が開催される。

 

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 わが国では1970年の大阪万博以降、万博だの国際博といった名称の博覧会が数多く行われているが、4年に一回IOC主催で行われるオリンピックに比べて、その基準が分かりにくい。

 現在では、1928年に締結された「国際博覧会条約」(BIE条約)に基づき、パリに本部が置かれる「博覧会国際事務局」(Bureau International des Expositions/BIE)が設立され、そのBIEに承認された博覧会のみが、国際法上「国際博覧会(万博)」を名乗ることができることになっている。

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 近代の博覧会の歴史は、1798年フランス革命の時期のパリで開催された国内博覧会にまでさかのぼるが、本格的な国際博覧会は、1851年第1回国際博覧会がロンドンで開催された。ほかにも、エッフェル塔が建設されたパリ万国博覧会(第4回/1889年)などが著名で、この時期は産業革命の最盛期であり、各回ごとに画期的な技術革新が展示され話題を呼んだ。

 国際博覧会は会場の規模やテーマなどから、主に「登録博覧会」(登録博)と「認定博覧会」(認定博)の2つに大別される。(以前は「一般博」と「特別博」に区分されていた)。最大規模の国際博覧会である「登録博」は、1995年以降は5年ごとに開催されることになっており、その中間期間に規模とテーマが限定された「認定博」が開催できる。

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 日本が初めて参加したのは、幕末の1867年「パリ万国博覧会(第2回)」であり、幕府および薩摩藩佐賀藩が参加したとされる。維新後の新政府としては、1873年のウィーン万国博覧会からの公式参加で、明治・大正期の国際博覧会では、日本の芸妓に接待役を務めさせたりして、展示された浮世絵がモネらフランスの画壇に影響を与えるなど、フランスを起点に「ジャポニスム」呼ばれる日本文化が欧米に紹介された。

 万博の負の歴史としては、「人間動物園」が挙げられる。1904年のセントルイス万国博では、アメリカ軍の捕囚となっていたアパッチ族の英雄ジェロニモらが、人間動物園として展示された。人間動物園は万博に限られたものではなく、当時の民俗学的関心に寄せて、帝国主義各国が植民地の諸民族の文化と西欧文明との差異を示し、植民地経営を正当化するために、各地の博覧会で積極的に行った。

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 万国博ではないが1910年の「日英博覧会」で、日本側は独自の美術品や建築模型が多く展示して好評を博し、また当時列強がこぞって誇った植民地経営の展示として、台湾・朝鮮・満州などの資源や文化をもアピールした。

 これらの公式展示とは別に、アトラクションとして、力士による相撲や日本人農民による米俵製作の実演など、日本の伝統的な農村風景を紹介した。その他、アイヌや台湾パイワン族の実際の生活の様子や民族舞踏などのイベントも披露した。

 これらはほとんど忘れられていたが、NHKが2009年4月5日放送の「シリーズJAPANデビュー/第1回『アジアの“一等国”』」でパイワン族のアトラクションを「人間動物園」として紹介したので、意図的偏向演出ではないかと話題になった。

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 日本で開かれた大規模の「一般博(登録博)」は、1970年の「大阪万博」と2005年「愛知万博」だけであり、2025年には再度大阪で開催されることが決まっている。大阪万博以降に続いた「沖縄海洋博/1975」や「筑波科学博/1985」、そして「大阪花博/1990」などは「特別博(認定博)」として開催された。

  「国際花と緑の博覧会(大阪花博 EXPO'90/The International Garden and Greenery Exposition)」は、大阪府大阪市鶴見区守口市に跨る鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日 - 9月30日)で開催された。

 

(花博夜景)

www.youtube.com

 高度成長のピーク時の70年大阪万博とことなり、低成長期になって環境問題や自然志向の流れが定着しつつあったので、”Garden and Greenery”というテーマは最適でもあった。「花と緑」という地味なテーマは、いささか万国博としてのインパクトに欠けたが、ちょうどバブル経済の頂点に差し掛かり、多くの国・国際機関や企業・団体が参加し、総来場者数は2400万弱という特別博覧会史上最高を記録した。

 

イラク クウェート侵攻)

◎1990.8.2/h2 イラククウェートに侵攻 

◎1990.8.30/h2 政府 多国籍軍支援で10億ドルの支出を緊急決定

 

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 石油の生産量をめぐって対立が続いていたイラククウェートの交渉が決裂すると、1990年8月2日未明、イラク共和国防衛隊(RG)はクウェート国境を越えて侵攻を開始した。

 それまで8年にわたってつづいたイラン・イラク戦争で、経済的に疲弊したイラクは自国で産出した石油でカバーするために、石油価格の上昇を目的に石油輸出国機構OPEC)に石油の減産を求めた。しかしOPECイラクの求めに応じず、クウェートサウジアラビアは石油の増産をつづけた。

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 イラククウェート国境付近に軍隊を動員して威嚇したが、アラブ諸国は単なる脅しと見ており、欧米諸国も同様の考えて傍観した。イラク側も当初はクウェート北部への限定攻撃としていたが、侵攻前々日に急遽、全面侵攻に変更した。

 イラク共和国防衛隊(RG)は準備不足であったが、隣国クウェートは小国でRGの戦力の50分の1しかなく、サウジアラビアなどに支援を要請する間もなく、わずか数時間のうちに制圧された。

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 当初、フセイン政権はクウェートの属国化を狙い「クウェート暫定革命政府」を成立させたが、これは事実上の傀儡政権で、国際社会はこれを承認しなかった。するとイラク革命指導評議会は、クウェートの併合を決定し、クウェート県としてイラクの一部に組み込んでしまった。

 イラクの軍事侵攻に対し、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議を採択、さらにイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議も採択した。しかし国連軍の編制までは決議できず、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ(パパブッシュ)は、有志を募るという形で「多国籍軍」を編成した。

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 アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍サウジアラビアイラククウェート国境付近に進駐を開始した。サッダーム・フセインイラク大統領は国連決議も無視し続け、さらにはクウェートから脱出できなかった外国人を「人間の盾」として人質にした。フセインの強硬姿勢に、さすがの国連安保理も撤退期限を設定し「対イラク武力行使容認決議」)を採択することになる。そして翌1991年1月17日、多国籍軍イラクへの爆撃を開始する(湾岸戦争/砂漠の嵐作戦)。

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 この時日本は憲法等の制約から多国籍軍に参加せず、日本政府は多国籍軍に対し計130億ドルなど多額の資金供出をしたが、10億ドルずつの逐次的支出などで印象に残らず、また人的貢献が無かったとして、同盟国のアメリカなどから徹底的に非難された。

 

(東西ドイツ統合)

◎1990.10.3/h2 東西ドイツ再統一

 

 東西ドイツの統一は、まず1989年11月9日ベルリンの壁崩壊から始まった。1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)をスローガンとする国内改革を実施し、それは東欧世界に波及した。

 1989年夏、最初に複数政党制を導入したハンガリーが、オーストリアとの国境を開放すると、東ドイツの市民たちが、ハンガリーオーストリアを経由して西側へ逃れ始めた。1989年10月9日のライプツィヒでのデモ行進をきっかけに、民主化運動は東ドイツ全域に広がり、その波を抑えきれないと判断したドイツ社会主義統一党SED)の指導部は、大幅な規制緩和策を打ち出すことにした。

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 1989年11月9日、東ドイツ市民の大量出国にさらされていた東ドイツ政府が、旅行及び国外移住の大幅な規制緩和政令を、発表担当者がテレビで「事実上の旅行自由化」という表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にはベルリンの壁の撤去作業が始まった。

 これにより東西ベルリンの分断の歴史は終結したが、それだけで終わらずに、東欧諸国で続々と共産党政府が倒されるきっかけとなった。そして東ドイツでも、東西ドイツの統一が具体的なテーマとなってきた。

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 ヘルムート・コール西ドイツ首相は当初、急激な統合は東西ドイツに無理が生じると考えていたが、東ドイツの国家としての自壊が想像をこえて早く進み、それまで考えられていた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツドイツ民主共和国)を編入する方式で統一されることを決定した。

 そしてベルリンの壁の崩壊から1年、1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒紅金の三色旗」が揚げられ、ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。

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 ドイツは第二次世界大戦後から40年にわたって分断され、旧東西両国が資本主義と共産主義という違った経済体制を敷いていたため、旧西ドイツと旧東ドイツでは大きな経済格差があった。

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 旧東ドイツは東側の社会主義国の中ではもっとも経済発展しており、「社会主義国の優等生」とされたが、それでも世界屈指の経済大国である旧西ドイツとの差は非常に大きく、再統一後のドイツは深刻な不況に襲われ、その影響は長く続いた。

 

(この年の出来事)

*1990.1.5/h2 日本相撲協会 女性官房長官が土俵に上がるのを拒否

*1990.1.13/h2 第1回大学入試センター試験

*1990.1.18/h2 長崎市長 右翼団体の男に撃たれ重傷

*1990.2.3/h2 オウム真理教 25人が衆院選に立候補

*1990.3.31/h2 国際花と緑の博覧会開会(大阪)

*1990.6.2/h2 米ソ大統領 戦略兵器削減条約(START)基本合意

*1990.6.29/h2 「日米構造協議」最終報告

*1990.6.29/h2 礼宮文仁殿下 紀子さまとご結婚

*1990.7.6/h2 神戸高塚高校 校門圧死事件

*1990.8.2/h2 イラククウェートに侵攻

*1990.8.30/h2 政府 多国籍軍支援で10億ドルの支出を緊急決定

*1990.10.3/h2 東西ドイツ統一

*1990.11.12/h2 天皇陛下の「即位の礼

*1990.11.18/h2 沖縄県知事大田昌秀氏当選 12年ぶり革新県政復活

*1990.11.21/h2 任天堂スーパーファミコン」発売

*1990.12.2/h2 日本人初の宇宙飛行

 

【1st-4th Century Chronicle 001-400年】

【1st-4th Century Chronicle 001-400年】


◎中国史書での倭国の様子

*57/ 倭の「奴国王」が後漢朝貢し、金印を授与される(後漢書東夷伝)。

*107/ 倭国王帥升が、後漢に生口(奴隷)などを献じ朝貢する。

*184頃/ 倭国で大乱がつづく。

*239/ 邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送り、魏の明帝は卑弥呼親魏倭王の称号を送り、金印を授ける(魏志倭人伝)。

*266/ 倭の女王(壱与?)、西晋に遣使し、朝貢する。

*391/ 倭が渡海して、百済新羅を破る。

 

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 中国大陸では早くから文明が開け、紀元前221年に始皇帝が「秦」の帝国を建てた。その後、劉邦項羽が覇権をめぐって争い(楚漢戦争)、紀元前202年に、劉邦項羽を破り「漢」の大帝国を樹立する(前漢)。漢帝国は紀元8年に一旦中断するが、まもなく漢王朝が復興された(後漢)。

 やがて黄巾の乱で漢が滅びると、「魏・呉・蜀」の三国が鼎立する「三国時代」となる。280年には三国を統一した司馬炎が「晋」を建てた(西晋)。しかし300年ごろから内乱が起こり、「南北朝時代」と呼ばれる小国分立の時代がやってくる。

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 中国北部には異民族の侵入が続き、「北朝」は「五胡十六国」と呼ばれる異民族の国が乱立し、やがて「北魏」が台頭し439年に華北を統一する。しかし北魏西魏東魏に分裂しさらに王朝が交代し、589年に「隋」が中国統一するまで、混乱が続く。

 南朝では、江南に避難した晋王朝東晋)が支配するが、その後、隋による統一までに宋・斉・梁・陳という4つの王朝が短期間で交代し、420年 から479年の半世紀あまり続いた「宋」の時代に、「倭の五王」の朝貢の記録が見られる。

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 これらの時期、日本(倭国)では8世紀前半に「古事記日本書紀」が登場するまで、歴史的な記録がほぼ無いに等しいので、中国の歴代王朝の史書に頼るしかない。しかも記紀の前代の記述は伝聞や記憶によるもので、神話的な矛盾を含んだものが多くなる。

 かくして、記紀などにおける記述と、中国史書などでの断片的な倭国関連の言及と、そして考古学的な事実との照合による「歴史」の研究が必要となる。とりわけ、247年、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送ったという記述(魏志倭人伝)と、421年以降の倭の五王朝貢の記録(宋書夷蛮伝)との間の空白期間は、まさにヤマト王権の成立期にあたり、重要な日本の古代史に研究の余地が残されている。

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 「後漢書東夷伝」には、紀元57年「倭奴国は貢物を奉じて朝賀した」と記されており、「漢」の光武帝により、倭奴国冊封され金印を綬与されたという。そして、江戸時代に農民により博多湾志賀島から「漢委奴國王」と刻まれていた金印が発見され、倭奴国が実在したことが証明された。

 そして「魏志倭人伝」では、238年「邪馬台国」の女王「卑弥呼」が、帯方郡を通じ「魏」に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられ金印を授けられたと記されている。邪馬台国については数度にわたって記述があるが、その所在地については不明で、長年、北九州説と大和説が議論されている。

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  3世紀半ばに、倭の女王(邪馬台国 壱与?)が西晋朝貢したという記述以降、その後1世紀半にわたって倭国に関する言及が無くなる。そして倭の五王朝貢が「宋書」に登場するが、中国王朝の頻繁な交代のせいもあり、この空白期間にヤマト政権がどのように成立していったのか、考古学的事実から推定するよりない。

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 邪馬台国がどこにあったのか、ヤマト政権との繋がりが有るのか無いのか、このあたりが古代政権の確立時期にも大きく影響を及ぼしてくると同時に、古代の歴史の最大の謎となっている。

 

【5th Century Chronicle 401-500年】

【5th Century Chronicle 401-500年】


倭の五王

*421/宋 倭王「讃」が、420年に興った宋に朝貢し、武帝から除授の詔をうける。

*438/宋 倭王讃没し、倭王「珍」が宋に朝貢、「安東大将軍倭国王」の称号を受ける。

*443/宋 倭王「済」が宋 文帝に朝貢して、「安東将軍倭国王」の称号を受ける。

*451/宋 倭王「済」が宋に朝貢し、将軍号・倭国王などの称号を受ける。

*462/宋 倭王「興」が宋に朝貢し、「安東将軍倭国王」の称号を受ける。

*478/宋 倭王「武」が宋に使いを送り、朝貢・上表するも、翌479年、宋は滅亡し、南斎が興る。

*479/南斉 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王「武」が「鎮東大将軍」(征東将軍)の称号を受ける。

 *502/梁 南斉が滅亡し、梁の武帝が王朝樹立、倭王「武」が「征東大将軍」の称号を受ける。

 

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 中国史における南北朝時代南朝の宋(420年-479年)の歴史書宋書」に、倭国から五人の王の使者が朝貢してきたことが記されている。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀の間に朝貢した「讃・珍・済・興・武」という倭の五王がそれであるが、日本側の史料「古事記」と「日本書紀」には、それに該当する朝貢の史実は記されていない。

 この当時の倭国ヤマト王権の成立期にあたり、諸豪族の連合体に近い状態であって、国内の支配を安定させる必要があった。そのために、中国の先進的な文明を受け取るとともに、中華皇帝の権威に基づいた称号を得て諸豪族を統率しようとした。

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 また当時、ヤマト王権朝鮮半島に権益をもっており、半島諸国との外交を有利に進めるためにも、中国皇帝の承認を必要とした。倭の五王たちは、「安東大将軍 倭王」といった称号を賜り、一定の公認を得たが、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して格下であり、これらは中国にとっての地政学的な重要性を反映したものであった。

 倭の五王は、1世紀近く続いた朝貢を、478年の遣使を最後として打ち切っている。これは宋が滅びたということもあるが、この時期に並行して、倭王が中国の冊封体制から離脱し、独自のヤマト王権を目指し出したのだと思われる。同時期のものとされる「稲荷山古墳出土鉄剣」や「江田船山古墳出土鉄剣」の銘文では、それまでの「王」から「大王」への変化が見られ、ヤマト王権が強化されつつある傍証とも考えられる。

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 宋書では、倭の五王が「讃・珍・済・興・武」と一字の中国風の名で記されているが、それぞれがどの天皇に対応するのか、比定するのは一筋縄ではいかない。一方、宮内庁が示す「天皇一覧」の天皇名では、「漢風諡号」や「追号」が用いられている。

 「諡号(しごう)」とは「諡(おくりな)」であり、貴人の死後に贈られる尊号なので、生存中の名ではない。しかも記紀の時代には漢風諡号をおくる風習は無く、奈良時代後期の文人 淡海三船が一括に撰進したとされる。

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 また、故人の業績などにちなむ「諡号」が使われなくなった時代には、単に縁がある物事にちなんだだけの「追号」が付けられた。昭和時代の天皇だったから「昭和天皇」と呼ぶがごとくであって、現在在位中の天皇は「今上天皇(今のミカドのこと)」としか呼ばない。

 年代的には、15代応神天皇から21代雄略天皇の間の天皇がほぼ五王に対応し、「讃=仁徳」「珍=反正」「済=允恭」「興=安康」「武=雄略」などと比定されるが、いくつか異同が考えられ決め手は無い。

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 倭王朝貢に関する記述が「記紀」に見られないこと、ヤマト王権の大王が讃・珍・済・興・武といった一字の中国風の名の記録が存在しないこと、「古事記」に掲載された干支と倭の五王の年代に一部齟齬が見られることなどから、「倭の五王」はヤマト王権とは別の地域国家の王とする説も存在する。

 なかでも、九州にあった別の政権であるとする説は根強く、古くは邪馬台国の所在地と同様、北九州説と大和説が並立する。これは、ヤマト政権により統一が進められる進捗過程との兼ね合いで、九州の地方政権が、ヤマト政権に統合される時期と連動する。

 

◎古墳の造営盛ん

*400頃/大阪 大阪に、100基以上の巨大古墳群の造営ラッシュ。

*450頃/近畿 古墳に大量の鉄製品が埋納される(奈良県山6号墳・大阪府野中古墳)。

*450頃/東日本 形象埴輪がさかんに立てられるようになる(群馬県赤堀茶臼山古墳)。

*450頃/西日本 各地に横穴式石室をもつ古墳が現れる(福井県向山古墳)。

*470頃/千葉 下賜された銘文鉄剣が副葬される(稲荷台1号墳)。

*490頃/北海道 須恵器が東北・北海道へもたらされる(柏木B遺跡)。

*500頃/埼玉 辛亥年銘鉄剣が大型前方後円墳に副葬される(稲荷山古墳)。

*500頃/熊本 銘文太刀が前方後円墳に副葬される(江田船山古墳)。

 

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 「古墳時代」は、縄文時代弥生時代につづく考古学上の時期区分で、記紀による文献上の時代区分「大和時代」とほぼ重なり、3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すのが一般的である。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末まで、「前方後円墳」が北は東北から南は九州まで造り続けられ、「前方後円墳の時代」と呼ばれることもある。

 特に 西暦266年から413年にかけて、中国の歴史文献における倭国の記述がなく、古墳の発掘など考古学的アプローチが重要となる。特にこの時期はヤマト王権が確立されていく時期であり、卑弥呼邪馬台国から倭の五王への時代の歴史的空白の解明が期待される。

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  5世紀は古墳時代中期とされ、巨大な前方後円墳などが築造された最盛期にあたる。王墓の大型前方後円墳奈良盆地から河内平野に移り、巨大化した人物埴輪が現れる。畿内の大型古墳の竪穴式石室が幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。

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 巨大古墳が出現し、副葬品には馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなり、5世紀の終わりには畿内に先進的な群集墳が現れ、ヤマト地域に強大な王権が成立してゆくさまがうかがえる。

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(この時期の代表的な古墳)

大仙陵古墳

 大阪府堺市堺区大仙町にある古墳で、日本最大の前方後円墳であり、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。被葬者は明らかでないが、宮内庁では「仁徳天皇」の陵墓としている。2019年7月ユネスコにより、仁徳天皇陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」は世界文化遺産として登録されることになった。

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「誉田御廟山古墳」 (こんだごびょうやま)

 大阪府羽曳野市誉田にあり、前方後円墳古市古墳群を構成する古墳の1つ。被葬者は明らかでないが、宮内庁により「応神天皇」の陵に治定されている。大仙陵古墳大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳。

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「上石津ミサンザイ古墳」

 大阪府堺市西区石津ヶ丘にある前方後円墳で、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。同じく被葬者は不明で、宮内庁は「履中天皇」としている。大仙陵古墳・誉田御廟山古墳に次ぐ第3位規模の巨大古墳である。

 

【6th Century Chronicle 581-600年】

【6th Century Chronicle 581-600年】


◎飛鳥の王権と聖徳太子

*585/ 敏達天皇が没し、用明天皇が即位する。

*587/ 用明天皇が没し、崇峻天皇が即位する。

*587/ 蘇我馬子穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋を滅ぼす。

*592.12.8/ 蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇に代わって、推古天皇が即位する。

*593.4.10/ 聖徳太子厩戸皇子)が国政に参画する。

 

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 585年、「敏達天皇崩御を受け「用明天皇」が即位する。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は崇仏派であり仏法を重んじたが、在位2年足らず(587年)で用明天皇崩御した。後継問題で、大連の物部守屋は「穴穂部皇子」を即位させようとはかるが、蘇我馬子穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋をも射ころさせ、物部氏を滅亡に追い込む(丁未の乱)。

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 蘇我馬子によって「崇峻天皇」が即位するが、実権を馬子が握られている不満から反発しだすと、馬子は計略で暗殺してしまった。その馬子に請われて、先々代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が、592年、史上初の女帝として即位、「推古天皇」(39歳)となる。

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 593年、用明天皇の子で甥の厩戸皇子聖徳太子)を、皇太子として国政を補佐させる。推古天皇は、皇太子厩戸皇子と大臣蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、毅然とこの要求を拒絶したという。

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 推古女帝のもと、聖徳太子蘇我馬子と協調して、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定し、法令や組織の整備を進めた。また607年には、小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、中国皇帝に日本の独立性を示した。

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 594年推古天皇は、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔勅三宝興隆の詔)を示し、太子や馬子と共に仏法興隆に努め、斑鳩法隆寺を建立させるなど仏教を奨励した。620年、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して、国の歴史を記した。

 622年に太子が49歳で薨去し、更に4年後の626年、蘇我馬子も亡くなる。そして628年、推古天皇は75歳で崩御した。推古天皇は継嗣を定めていなかったため、馬子の後を受けた蘇我蝦夷は、後継候補の田村皇子と山背大兄王から、田村皇子を擁立して「舒明天皇」とした。

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 こうして政治の実権は、蘇我蝦夷・入鹿父子に握られ、入鹿は聖徳太子の子「山背大兄王」を攻めほろぼしてしまう。これを皇統政治の危機と見た中大兄皇子中臣鎌足は、入鹿を殺し「大化の改新」を開始する。ここに飛鳥のヤマト政権は、大きな転換期をむかえることになる。

 

(この時期の出来事)

*598/ 蘇我馬子飛鳥寺法興寺)を発願して建立をはじめ、593年塔の心礎に仏舎利を納める。

*593/ 難波に四天王寺が建立される。

*594/ 三宝興隆の詔が出され、諸氏が競って寺を建立する。

 

【6th Century Chronicle 541-580年】

【6th Century Chronicle 541-580年】


◎仏教伝来と崇仏論争

*538/奈良 百済聖明王から仏像・経論が贈られる(仏教公伝)。(日本書紀では552年とされる)

*552/奈良 蘇我物部氏のあいだに崇仏論争が起き、排仏派の物部尾興や中臣鎌子が破仏をおこなう。

*570/畿内 蘇我稲目が没し、物部尾興らが大規模な破仏をおこなう。

*571/奈良 欽明天皇が没する。

*572/奈良 敏達天皇が即位し、大連(おおむらじ)には物部守屋、大臣(おおおみ)には蘇我馬子が就任する。

 

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 私的な信仰としてはすでに伝来していたが、6世紀半ばの欽明天皇期、百済聖明王が仏像や経典とともに仏教の功徳を賞賛した上表文を献上したのをもって、公式の「仏教公伝」とされる。「日本書紀(720年成立)」では、欽明天皇13(552)年に百済聖明王が使者を使わし仏教を伝えたとされるが、内容に矛盾を含み、今では538年説が有力となっている。

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 4世紀後半以降、朝鮮半島では高句麗百済新羅が連携・抗争を繰り返しており、6世紀前半即位した百済聖明王(聖王)は、次第に新羅の圧迫を受け、さかんにヤマト政権に対して援軍を要請しており、より良好な関係をもつため、百済聖明王はヤマト政権に公的に仏教を伝えた(仏教公伝)。

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 仏教が伝来する以前、日本には土着の原始神道古神道)が存在したと考えられるが、大陸で高度に洗練された仏教は理解されがたく、すんなりとは受容されなかった。ヤマト政権をささえる豪族の中では、物部氏・中臣氏など原始神道の神事に携わる氏族が力を持ち、排仏派の物部尾興や中臣鎌子が破仏を行ったと記録されている。

 他方、渡来人勢力とつながりのあった新興勢力の蘇我氏は、早くから国際的な視野を持ち、朝鮮半島国家の先進的な文物を取り入れる観点からも、仏教の受容に積極的であったとされる。

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 日本書紀には、欽明天皇の前で、蘇我稲目物部尾輿が崇仏廃仏の論争をかわしたことが書かれている。ただ、このような宗教論争は表面的な問題にすぎず、本質は政権内部における蘇我氏物部氏の勢力争いであったとする説もある。

 仏教をめぐる蘇我稲目物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子物部守屋に持ち越され、馬子は渡来人の支援も受け仏教受容の度を深めた。しかし敏達天皇の末年に疫病が流行すると、物部守屋らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。

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 587年、用明天皇崩御したあと、物部守屋蘇我馬子がそれぞれの思惑で後継の天皇を担ごうとして対立、ついに守屋は馬子軍の放った矢に射抜かれて死ぬ。これにより物部氏は没落し、蘇我氏に対抗できる勢力はいなくなった(丁未の役)。

 やがて蘇我氏が擁立した推古天皇が即位すると、蘇我馬子は、用明天皇の子 厩戸皇子聖徳太子)と協力して仏教推進政策を進め、本格的な伽藍を備えた半官的な蘇我氏の氏寺 飛鳥寺が建立され、また聖徳太子によって四天王寺法隆寺の建立され、飛鳥の仏教文化が花開くことになる。

 

(この時期の出来事)

*541/朝鮮 百済加羅任那)諸国・倭が、加羅の復興会議を開く。

*554/朝鮮 百済が倭に派兵を求め、見返りに五経博士などを派遣する。新羅戦で百済聖明王が戦死する。

*562/朝鮮 新羅が大伽耶を併合し、加羅任那)が滅亡する。

 

【6th Century Chronicle 501-540年】

【6th Century Chronicle 501-540年】


◎古代王権の動揺

*507/奈良 前年の武烈天皇の没後、紛糾が続いていた新大王(おおきみ)に、近江の越を基盤とする男大迹王(おほどおう)が即位し、継体天皇となる。

*527/九州北部 筑紫の国造磐井が大規模な反乱を起こすも、翌年、物部麁鹿火(あらかい)に斬られる。

*531/奈良 継体天皇没。以後、539年まで王権の分裂状態が続く。

*539/奈良 宣化天皇が没し、王権は欽明天皇に一本化される。

 

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 第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したあと、有力豪族の大連 大伴金村物部麁鹿火、大臣 巨勢男人ら有力豪族が協議したが、なかなか適任が見つからず、やっと越前にいた応神天皇5世の孫「男大迹王(おほどおう)」を迎えることになった。

 507年、58歳で即位し「継体天皇」と諡号されたが、応神天皇5世(5代目)という血筋の隔たりや、即位19年後の526年(77歳となる)にして初めてヤマト国に入るなど、記紀の記述の不自然さにより、ヤマト政権とは無関係な地方豪族が、王位の簒奪によって新王朝を創始したとする王朝交替説がとなえられる。

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 翌継体21(527)年、ヤマト政権は、新羅に奪われた加羅の回復のため出兵しようとするが、新羅とつながりのあった筑紫(九州地方北部)の豪族 磐井(いわい)がこれを妨害し、翌年物部麁鹿火(あらかい)によって鎮圧されたという(磐井の乱)。

 継体天皇は大王位を継承するに際し、皇統を補完するためか、先々代仁賢天皇手白香皇女を皇后に迎え入れている。531年、安閑天皇継体天皇の後を受けて66歳にして即位、536年、宣化天皇が69歳にして即位するが、ともに在位が数年で死去した。

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 539年、継体天皇手白香皇女の子で嫡子とされた広庭が即位し、欽明天皇と諡される。安閑・宣化の高齢による即位や、記録上の即位年の混乱などから、継体から欽明の即位までに、なんらかの政変があったのではとする仮説がある。

 安閑・宣化の系列と欽明朝は別々の系統であり、両朝が並立していたとする説もあるが、欽明天皇によって、応神の男系血統と仁徳天皇以来の王朝の血統を統合したとされ、現皇統へと続く祖となった。

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 当時のヤマト政権は、大王(おおきみ)を中心にした有力豪族の連合政権的性格が強かった。氏姓制度のもとで、「大連」の大伴金村物部尾輿や「大臣」の蘇我稲目が大王を支える体制であったが、欽明天皇元(540)年、半島政策の失敗で大伴金村は失脚する。

 物部氏蘇我氏の二極体制となり、とくに蘇我稲目は次々と娘を大王の妃に送り込み勢力を増してゆく。物部氏蘇我氏の対立は、尾輿・稲目の子 物部守屋蘇我馬子の代に引き継がれ、用明天皇2(587)年、用明天皇崩御後、次の天皇擁立で争うと、馬子が守屋を殺し、蘇我氏の全盛期となる。

 

(この時期の出来事)

*513.6.-/ 五経博士が来日し、継体天皇に謁見する。

*538/奈良 百済聖明王から仏像・経論が贈られる(仏教公伝)。

 

 

 

【7th Century Chronicle 681-700年】

【7th Century Chronicle 681-700年】

◎天武・持統朝と律令制

*681.2.25/ 飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
*681.2.25/ 草壁皇子が皇太子となり、政務を行う。
*683.2.1/ 天武天皇の第3皇子 大津皇子が政治に参画する。
*684.10.1/ 「八色の姓」を定め、従来の族姓(かばね)を8種類の姓に再編する。
*686.9.9/ 天武天皇没。皇后鸕野讚良(のちの持統天皇)が即位せずに政治を執る(称制)。
*686.10.2/ 大津皇子(24)が謀反の罪で捕らえられ、翌日自害する。
*689.4.13/ 草壁皇子(28)没。
*690.1.1/ 皇后鸕野讚良が即位する(持統天皇)。
*690.7.5/ 浄御原令の官制を施行。高市皇子太政大臣とし、八省百官の役人を選定する。
*694.12.6/ 藤原宮に都を移す。
*696.7.10/ 高市皇子(43)没。
*697.8.1/ 持統天皇が譲位し、孫の軽皇子が即位する(文武天皇)。
*697.8.20/ 藤原不比等の娘宮子が入内する。
*700.6.17/ 刑部親王藤原不比等らに新たな律令大宝律令)を編纂させる。
*701.8.3/ 大宝律令が完成する。

 

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 「天武天皇」(大海人皇子)は、舒明天皇皇極天皇斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子の同母弟にあたり、天智の皇女 鸕野讃良を皇后とした(持統天皇)。天智天皇の死後、672年に壬申の乱大友皇子を倒し、その翌年に即位する。
 その治世は14年間にわたり、飛鳥浄御原宮を造営し、続く「持統天皇」の時代とあわせて天武持統朝と一括されることが多い。日本の統治機構の原型が作られ「律令制」が確立されてゆく重要な時代で、天武が路線を敷き持統が引き継ぎ完成させた。文化的には白鳳文化の時代とされる。

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 天武天皇は、自身の子など皇族を要職につけて皇親政治をとり、専制君主的な親政を行った。「八色の姓」で氏姓制度を再編し、「飛鳥浄御原令」の制定、「新しい都(浄御原京・藤原京)」の造営、「日本書紀」や「古事記」の史書の編纂など、律令制の導入に向けた制度改革を進めた。
 持統天皇(鸕野讃良皇女)は、壬申の乱の後に天武が即位すると、皇后に立てられる。天武天皇と皇后は、679年に6人の皇子を吉野の宮に集め、互いに争わずに協力すると誓わせる「吉野の盟約」を交わした。

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 この時、草壁皇子が最初に、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。681年、天皇と皇后は律令を定める計画を発令し、同時に「草壁皇子(19)」を皇太子に立てて、大津皇子高市皇子たちにも朝政に携わらせた。
 686年、天武天皇は病に倒れ、政治を皇后と皇太子に委ねたたあと、9月11日に崩御する。翌月10月2日には、「大津皇子」が謀反の容疑で捕らえられ自害する。天武天皇の殯(もがり)の期間は長く続けられ、688年11月21日に明日香大内陵に葬られた。鸕野皇后がそのまま称制して、皇太子草壁皇子の即位の機が熟するのを待つが、689年3月13日、草壁皇子(28)が死んでしまい、皇后が即位する(持統天皇)。

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 持統天皇は、御原令を施行するとともに、天武朝の皇親政治に代えて本格的な管人制を導入し、「高市皇子」を太政大臣に据え八省百官を任命したといわれる。壬申の乱から大海人に従い武功のあった長子高市皇子は、母親の身分ゆえに序列3位に置かれていたが、持統天皇を支えて、太政大臣として政務で官を仕切った。

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 持統天皇は、都城制を敷いた本格的な新京として「藤原京」の造営を始めさせた。690年10月には、高市皇子が多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察しており、4年後の694年、飛鳥浄御原宮から宮を遷した。天皇ごとに遷宮が行われた慣例に代えて、持統・天武・元明3代にわたった京として、平城京の前例となった。

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 太政大臣として持統朝をささえた高市皇子が、696年7月に死去すると、持統天皇は、697年8月1日、孫の軽皇子(15)に譲位し(文武天皇)、太上天皇上皇)となった。持統上皇文武天皇ささえ政務を執るも、702年12月病を発し22日に崩御(58)する。

 この時期には、壬申の功臣に代わって「藤原不比等」ら若い世代が台頭し、文武・元明朝の政務を取り仕切るようになった。

 

白鳳文化

*681.3.17/ 「帝紀」と「上古諸事」の記録編纂が命じられる。

*690.-.-/ この頃、高松塚古墳がつくられる。

*698.10.4/ 薬師寺がほぼ完成する。

 

 「白鳳文化」は、645年の大化の改新から710年の平城京遷都まで、飛鳥時代の飛鳥文化と奈良時代天平文化との中間に位置し、天武・持統の時代に最盛期を迎える。天武天皇の飛鳥浄御原から、持統天皇による条坊制をしいた本格的な都 藤原京を中心に華開き、初唐文化を積極的に受け入れた大らかな文化であった。

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 政治的には、飛鳥浄御原令大宝律令が制定され、本格的な律令国家が胎動しだした頃でもあり、天武・持統の安定的な政権のもと、百済からの渡来人などから、唐や西域など多くの大陸仏教文化が融合して取り入れられた。

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 飛鳥浄御原令大宝律令という、我が国初の本格的律令が明文化され、それを体現する藤原京が造営された。藤原京の内裏や京内の大官大寺・本薬師寺山田寺などは現存せず、移設された一部や発掘される遺物や遺跡からうかがえるのみである。現存する「薬師寺東塔」は、白鳳様式で奈良時代初期に再建された。

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 「薬師寺薬師三尊像」は、白鳳彫刻の代表とされる(天平時代説もある)。また、山田寺講堂本尊の頭部といわれる「興福寺仏頭」は、その柔和な尊顔で白鳳時代をしのばせる。

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 「法隆寺金堂壁画」は、遠く中国西域やインドの影響が見られる貴重な壁画だったが、1949年の火災で焼失した。一方で、飛鳥「高松塚古墳」では、1972年に極彩色の壁画が発見され、当時の衣装などがリアルに再現されている。

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 白村江の戦いののち、百済から多くの文人が亡命してきたため、「漢詩文」が隆盛をみて、奈良時代後期の「懐風藻」に収録された大友皇子大津皇子の優れた漢詩が残されている。また、天武朝から漢字を用いて日本語表記(万葉仮名)することが始まり、奈良時代後期に成立した「万葉集」には、額田王柿本人麻呂など天武・持統朝の代表歌人の「和歌」が収録されている。

 

(この時期の出来事)

*699.5.24/ 修験道を開始し、妖術を駆使したとされる役小角(えんのおづぬ)が、伊豆に流される。