【16th Century Chronicle 1561-1570年】

【16th Century Chronicle 1561-1570年】

 

武田信玄上杉謙信 川中島の戦い

*1561.閏3.16/相模 長尾景虎が、上杉憲政から関東管領職と上杉家を受け継ぎ、上杉政虎(謙信)を名乗る。

*1561.9.10/信濃 上杉謙信武田信玄が、川中島で戦う。

*1562.11.-/関東 武田信玄北条氏康が、上野・武蔵の上杉謙信の属城を攻略、謙信も関東に出陣する。

*1563.2.4/武蔵 武田信玄北条氏康が、上杉憲勝の松山城を攻略する。

*1564.3.10/京都 将軍義輝が、上杉謙信北条氏康武田信玄の和解をはかる。

*1570.10.8/越後 家康が、上杉謙信に誓書を送り同盟、武田信玄と断交する。

 

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 「川中島の戦い」は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名武田信玄武田晴信)」と越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信長尾景虎)」との間で、北信濃の支配を巡って数次にわたって戦われた。最大の激戦(第4次の戦い)が、千曲川犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称で川中島の戦いと呼ばれる。

 川中島の戦いは、計5回、12年余りに及んだが、実際に「川中島」で戦われたのは、第2次の犀川の戦いと第4次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言えば、永禄4(1561)年の第4次合戦を指す。

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 室町期の東国はいち早く戦国期に突入しており、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。武田信玄(晴信)は、諏訪氏や小笠原氏や村上氏を撃破し、信濃に進出する。一方、関東管領上杉氏を引き継いだ上杉謙信(長尾景虎)は、以前から北信濃国人衆とは繋がりがあり、この地が信玄に圧迫を受けると、本格的に介入することになる。

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 信濃国北部、千曲川犀川の合流地点に広がる地は川中島と呼ばれる。当時の川中島は、土壌は肥えて米収穫高が多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝でもあり、戦略上の価値も高かった。

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 武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に上野・甲斐があり、南は松本盆地に至る要地であった。この地域には小国人領主地侍が分立し、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていったが、武田氏が侵攻を始めると武田氏の影響が強まった。

 川中島の戦いの第1次合戦は天文22(1553)年に行われ、上杉謙信が北信濃国人衆を支援し、初めて武田信玄と戦う。景虎は北信濃へ出陣、攻防の上、信玄が塩田城に籠もって決戦を避けたため、謙信も越後国へ引き揚げた。

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 第2次合戦は天文24(1555)年に行われ、犀川の戦いとも言う。武田信玄上杉謙信犀川を挟んで200日余におよぶ長期にわたり対陣した。両軍は長期の対峙で兵糧の調達に苦しみ、駿河国今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。

 第3次合戦は弘治3(1557)年で、上野原の戦いとも呼ばれる。武田信玄の北信への勢力伸張に反撃すべく上杉謙信は出陣するが、信玄は決戦を避け決着は付かなかった。このころ京では、将軍足利義輝三好長慶松永久秀と対立し近江へ逃れ、上杉謙信の上洛を熱望しており、中央の情勢が和睦に影響を及ぼしたとされる。

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 川中島の戦いの第4次合戦は、永禄4(1561)年に行われ、もっとも大規模な戦いとなった。戦いの具体的経過を示す史料は「甲陽軍鑑」などの軍記物語のみであり、具体的な事実は曖昧である。

 永禄4(1561)年8月15日、上杉謙信善光寺に着陣し、自らは兵13000を率いて更に南下、犀川千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。武田信玄は、謙信が出陣したという知らせを受け、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。

 

 膠着状態が続き、武田軍は海津城に入城したのち、9月9日、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。謙信はこの動きを察知すると、夜陰に乗じて千曲川の対岸に渡り、八幡原で西方から武田軍に向き合う。

 10日朝に霧が晴れると、上杉軍は車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかり、動揺した武田軍は鶴翼の陣(鶴が翼を広げた布陣)で応戦したが、急襲を受けて劣勢となった。この乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけるという有名な場面は、「甲陽軍鑑」の記述に登場する。

 

 武田別働隊が八幡原に駆け付けると、武田軍の本隊との間で上杉軍は挟撃される形になり、一転形勢不利となった謙信は善光寺に敗走、信玄も追撃を止めて兵を引いたことで合戦は終わった。

 第5次合戦は、永禄7(1564)年(1564年)、上杉謙信川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。以後も両雄は、各地で戦闘を繰り広げるが、信玄と謙信が直接に合戦をすることはなかった。

 

(この時期の出来事)

*1562.1.-/尾張 三河の松平元康(家康)が、清州城の織田信長を訪問し、軍事同盟を結ぶ。

*1562.3.6/山城 将軍足利義輝が京都から退避し、三好義継・松永久秀も撤兵したのに代わって、近江の六角義賢が京都に侵入する。

*1563.7.6/三河 松平元康が今川氏真と断交し、名を家康と名乗るが、間もなくお膝元で一向一揆が勃発し、戦国大名としての試練に遭遇する。

*1565.5.19/京都 将軍足利義輝が、三好義継・松永久秀らに滅ぼされる。

*1565.11.13/甲斐 織田信長が、武田信玄の子勝頼に養女を嫁がせる。

*1566.11.19/出雲 毛利元就が、富田城の尼子義久を降伏させる。

*1567.5.27/三河 織田信長が、娘を徳川家康の長男信康に嫁がせる。

*1567.8.15/美濃 信長(34)が、斎藤竜興の稲葉山城を攻略し、以後、美濃を拠点に天下統一を目指す。

*1568.9.26/京都 信長が、足利義昭を奉じて入京する。まもなく将軍義栄が死去し、義昭が15代将軍となる。

*1568.12.27/遠江 徳川家康が、今川氏真掛川城を攻略する。

*1569.4.14/京都 信長が、将軍足利義昭二条御所(現京都御苑内)を造営し、この日、義昭が御所に入る。

*1570.6.28/近江 信長・家康連合軍が、浅井長政と朝倉景健を姉川で破る(姉川の戦い

*1570.9.12/摂津 石山本願寺大阪市)の顕如が、打倒信長の兵を挙げる(石山本願寺合戦)。

 

 

【16th Century Chronicle 1541-1560年】

【16th Century Chronicle 1541-1560年】

 

種子島(鉄砲)とキリスト教伝来

*1543.8.25/種子島 種子島ポルトガル人漂着し、鉄砲を伝える。

*1549.7.3/薩摩 イエスズ会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教をはじめる。

*1550.8.-/肥前 イエスズ会宣教師ザビエルが、上洛の途中で平戸で布教する。

*1551.4.-/周防 ザビエルが山口での布教を許可される。

*1557.-.-/豊後 イエスズ会宣教師ルイス・アルメイダが、豊後の府内(大分市)に病院を建設し、西洋外科手術を行う。

*1560.1.-/京都 幕府が、イエスズ会の宣教師ビエラに京都での布教を許可する。 

 

(鉄砲伝来)

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 中国で宋代に生まれた火器は中東や欧州へと広まり、東アジアでは、中国など大陸アジアが火器使用は先行していた。しかし大航海時代が始まると、ヨーロッパで改良された火器が、海域アジアにも伝わるようになってきた。

 これは東アジアにおける火器普及の第二の波の時期とされ、そのような流れの中でポルトガル人により、日本にも鉄砲がもたらされた。鉄砲の伝来は、戦国時代の日本での戦闘に大きな変化をもたらすことになる。

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 資料により弱冠の異動があるが、「鉄炮記」によると、天文12(1543)年8月25日、大隅国種子島に一艘の船が漂着した。この船にポルトガルの商人が同乗しており、そのポルトガル人により鉄砲がもたらされた。

 島主 種子島時堯がポルトガル人から買い求めたたった二丁の火縄銃は、刀鍛冶により模造され、またたく間に日本人により製造技術が習得され普及した。遅くとも天文18(1549)年までに、中央の京都にも届いており、天文19(1550)年に京の東山で行われた細川晴元三好長慶の戦闘で、銃が使われ戦死者が出ている。 

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キリスト教の布教)

 一方キリスト教は、天文18(1549)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、日本布教の第一歩を記したとされる。薩摩領主島津貴久に謁見した後、平戸、山口を経て京都に至り、天皇や将軍への謁見を目指した。

 ただ当時、京都は戦乱で疲弊しきっており、天皇の権威は失墜、将軍も家臣に追われて京に不在、ザビエルは目的を果たせなかった。ザビエルは山口に戻り、当地で大内義隆の保護を受け、また府内(大分)では大友宗麟に謁見、日本でのキリスト教布教の基礎を築き、1551年にインドに向かった。

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 日本人を優秀で理性的な国民であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えてガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス織田信長豊臣秀吉と会見)、ガスパール・コエリョなど、有能なイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。

  宣教師たちはまずその土地の大名などと会見し、南蛮貿易の利益を訴えて布教の許可を得た。すでに種子島(鉄砲)などが伝来して、大名たちは、南蛮人との交易を求めており、その窓口として宣教師たちは歓迎された。

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 キリスト教に接した大名たちの中には、すすんで洗礼を受けるものも現われ、キリシタン大名と呼ばれた。キリスト教の教えに純粋に導かれた者以外にも、南蛮貿易をより有利に運ぶためだとか、南蛮の文化や科学技術を移入するという実利から入信したものもあった。

  戦国の世の統一を進めた織田信長は、キリスト教の布教に好意的で、彼らがもたらす南蛮貿易の利益を歓迎した。信長を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教宣教師やキリシタン大名が、仏教など旧来の文化を迫害するなどの弊害に気付き、バテレン追放令を発布しキリスト教宣教の制限を宣言した。

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 秀吉は追放令を出したが、南蛮貿易には積極的であり、実質上キリスト教の布教は黙認した。その後、徳川家康によって江戸幕府が成立し、キリスト教禁教令は何度も出されるも徹底せず、完全な禁教と徹底したキリシタン弾圧が行われるようになるのは、3代将軍家光の時代での「鎖国」の完成以後となった。

 

戦国大名の林立

*1541.1.13/安芸 毛利元就陶晴賢が、尼子晴久の軍勢を破る。

*1541.6.14/甲斐 守護武田信虎が、子の武田信玄(晴信/21)により甲斐から追放され、駿河今川義元(23)の下に身を寄せる。

*1542.7.5/信濃 武田信玄が、諏訪頼重を幽閉し、切腹させる。

*1542.8.23/美濃 斎藤道三が、守護土岐頼芸の大桑城を攻め、頼芸は尾張へ逃れる。

*1542.-.-/甲斐 武田信玄富士川流域に堤防を築き始める(信玄堤、1560完成)。

*1545.8.16/駿河 今川義元が、北条氏康駿河の狐橋で戦う。

*1547.6.4/甲斐 武田信玄が「甲州法度之次第」を制定する。

*1548.12.30/越後 長尾景虎(上杉謙信)が、兄の晴景に代わって越後守護代となる。

*1549.11.9/三河 今川義元軍が、織田信広の安祥城を攻略、松平竹千代(徳川家康/8)が織田家の人質から今川家に移される。

*1551.9.1/周防 大内義隆が、家臣の陶晴賢の謀反により、長門大寧寺で自刃する。

*1552.1.10/上野 関東管領上杉憲正が、北条氏康に追われ、越後守護代長尾景虎を頼る。

*1553.8.-/信濃 武田信玄に敗れた村上義清が、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾両軍が川中島で戦う(第1回川中島の戦い)。1555.7.19には2回目。

*1554.3.-/駿河 相模の北条氏康駿河今川義元、甲斐の武田信玄が、駿河善徳寺に集まり講和を結ぶ。

*1556.4.20/美濃 斎藤道三が、長男義竜と長良川河畔で戦い敗死する。

*1557.11.25/中国 毛利元就が、3子に教訓状「三人心持之事」を送り、協力して生き残ることを諭す。

*1559.2.2/京都 織田信長が京へ上り、将軍義輝に謁見する。

*1559.4.27/京都 越後の長尾景虎が京へ上り、将軍義輝に謁見する。

*1560.5.19/尾張 織田信長(27)が、田楽狭間で今川軍を急襲し、今川義元を討ち取る。

*1560.5.23/三河 今川家に人質になっていた松平元康(徳川家康/19)が、11年ぶりに本国三河岡崎城に帰り独立する。

 

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 室町将軍から任命され、軍事警察権から経済的権能までもを獲得して、一国内に領域的一円的な支配を確立した守護は「守護大名」と呼ばれた。一方、下克上などで実力によって領国支配を確立し、室町幕府など中央権力から独立して、軍事行動や外交および経済的支配を行ったものを「戦国大名」と呼んだ。

 領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に領民間の争いを調停し、大名主導により紛争の解決を行った。そのため、戦国大名のなかには、その基準を明文化した「分国法(戦国法)」を制定するものもあった。

 

〇有力戦国大名

北条早雲》 (1456-1519年)
 北条早雲は、室町幕府政所執事の伊勢氏出自と考えられ、伊勢新九郎長氏と名乗り、後に出家してから北条早雲と名乗った。駿河守護今川義忠に仕えるが、後継争いが生じると、今川氏親を支持し後継に就ける。その功で興国寺城(沼津)に所領を与えられる。

 1493年、早雲は堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃し、伊豆を奪った(伊豆討入り)。この時期から、東国では戦国期が始まったとされる。1495年9月には、相模小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取した。以後、小田原城を拠点に相模を平定し、関東に北条氏の支配を確立して、戦国大名の嚆矢とされる。

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毛利元就》 (1497-1571年)
 毛利元就は、安芸の小規模な国人領主家督を継ぐと、一代で山陽・山陰10か国を領有する戦国大名の雄にまで成長させた。毛利家の家督を相続した元就は、尼子経久と敵対関係となると、大内義興の傘下に入った。

 1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって殺害されると、1554年になって元就は、陶晴賢を討ってその領国を支配する。1557年には、大内氏の内紛を好機として大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。さらには尼子晴久をも破り、中国地方の大半を支配する戦国大名となった。

 1557年に元就は、3人の息子(隆元・元春・隆景)に直筆書状「三子教訓状」を示し、互いに協力して毛利家を維持するよう諭したが、これが後代において、死ぬ間際の元就が3人の息子を枕元に呼び寄せて、三本の矢に例えて結束を強く訴えたという「三矢の訓」逸話となった。

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斎藤道三》 (1494-1556年)

 代々北面武士だったが牢人となっていた松波基宗を父に、京都の近くで生れたとされる。松波庄五郎と名乗り、油問屋の娘をめとって油商人となると、行商油売りとして評判になったという。

 その後武士を目指した庄五郎は、美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となることに成功するも、主家土岐氏家督争いに介在して、主人長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り長井新九郎と名乗る。さらに天文7(1538)年に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。

 天文11(1542)年、斎藤利政は土岐頼芸と対立し、頼芸の居城大桑城を攻め落とすと、頼芸とその子を尾張へ追放、事実上の美濃国主となった。天文16(1547)年には尾張織田信秀に攻め込まれるも、織田軍を押し返すと和睦し、信秀の嫡子織田信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせ、織田氏と同盟関係になる。

 天文23(1554)年、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り出家し、斎藤道三と号し隠居した。しかし道三は息子の義龍と不和になり、弘治元(1555)年、義龍は道三に対して挙兵する。その強欲な国盗りから、「美濃の蝮」と綽名された道三に味方するものは少なく、「長良川の戦い」で敗死した。享年63。

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武田信玄》 (1521-1573年)
 甲斐の武田晴信(信玄)は、天文10(1541)年、父信虎を駿河に追放し、武田家の家督を相続する。天文11(1542)年、信濃へ進展し諏訪氏を滅ぼし、さらに小笠原氏や村上氏を破り、信濃国をほぼ平定する。天文16(1547)年には、分国法である「甲州法度之次第(信玄家法)」を定め、領国支配を安定させた。

 天文22(1553)年4月、村上義清が頼ったため、越後の長尾景虎(上杉謙信)が信濃への出兵を開始し、善光寺平の主導権を巡って甲越対決が始まる(第1次川中島の戦い)。晴信は、駿河今川氏や相模北条氏と婚姻関係を通じて、甲駿同盟・甲相同盟を結び甲相駿三国同盟を成立させる。武田信玄上杉謙信は、以後も都合5度にわたり川中島で戦うが決着はつかなかった。

 永禄2(1559)年、信濃を平定した晴信は、出家し「信玄」と号した。信玄は、越後の上杉謙信のほかにも、領国を接する駿河の今川氏、相模の北条氏、そして尾張織田信長などと同盟・対立を繰り返す。元亀4(1573)年4月12日、三河に侵攻して甲斐に引き返す途上、喀血し死去する。享年53。

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上杉謙信》 (1530-1578年)
 越後は守護の山内上杉氏の領国であったが、上杉氏が衰えると守護代長尾為景が支配することになり、子の長尾景虎(上杉謙信)の時に勢力を拡大した。景虎は、内乱続きの越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させる。天文21(1552)年、関東管領上杉憲政を助けて北条氏と争い、永禄4(1561)年には憲政から関東管領の職をゆずられ、上杉を名のることになる。

 天文21(1552)年、武田晴信(信玄)の信濃侵攻によって、追われた信濃守護小笠原長時や、翌年には信濃国葛尾城主村上義清が、景虎に助けを求めた。援軍として信濃国に出陣した上杉景虎(謙信)は、ついに信濃川中島武田晴信(信玄)と戦をかまえる。以後、川中島では信玄と5度にわたって戦った。

 永禄2(1559)年、足利将軍家から要請を受け上洛、正親町天皇や将軍足利義輝に拝謁する。他国から救援を要請されると幾度となく出兵し、武田信玄の他にも、北条氏康織田信長越中一向一揆らと合戦を繰り広げた。

 上洛を目指し、北陸路を西進し越中能登・加賀へ勢力を拡大した後、天正5(1577)年12月、一旦越後春日山城に戻り、次の遠征の準備中に脳溢血で倒れて死去。享年48歳。

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(この時期の出来事)

*1542.3.28/京都 将軍足利義晴が、近江坂本から帰京する。

*1546.12.20/京都 足利義輝(義藤/11)が、父義晴から譲位され13代将軍となる。

*1548.10.28/摂津 三好長慶細川晴元にそむき、家臣三好氏の内紛に、細川一族も分裂する。

*1549.6.28/京都 江口の戦いで三好長慶に敗れた細川晴元が、将軍義輝と前将軍義晴を奉じ、近江坂本へ脱出する。

*1552.1.28/京都 将軍足利義輝(義藤)が三好長慶と和解、近江から京都に帰る。

 

【16th Century Chronicle 1521-1540年】

【16th Century Chronicle 1521-1540年】

 

◎下克上と戦国の世

*1521.3.7/和泉 将軍足利義稙(義伊)が、管領細川高国の専横に憤り和泉に走る。

*1521.7.6/ 前将軍義澄の子亀王丸が、播磨守護代浦上村宗に奉じられて入京、12代将軍足利義晴(11)となる。

*1521.9.17/播磨  浦上村宗が、主君の守護赤松義村室津に幽閉し、自刃に追込む。

*1521.11.23/甲斐 駿河守護今川氏親の軍が、甲斐の上条で竹田信虎(27)の軍と戦い敗れる。

*1522.3.-/安芸 大内義興が、尼子経久の属城を攻略する。

*1523.閏3.-/近江 浅井亮政が、主君の京極高清を尾張に追う。

*1523.4.-/中国 大内義興細川高国が、それぞれ明へ使者を派遣するが、両使が中国の寧波で争う(寧波の乱)。

 *1527.2.14/ 将軍足利義稙細川高国は、三好元長らに京都を追われ、近江の坂本へ脱出する。 

 *1528.5.28/ 将軍義稙と細川高国は、前将軍義澄の子義維を奉じる三好元長と和睦をはかるが講和ならず、京都を脱出する。

*1530.1.13/美濃 守護土岐頼芸の執権長井長弘が、西村勘九郎斎藤道三)に殺される。

*1531.2.21/和泉 三好元長が堺に出陣し、細川晴元を支援、細川高国は破れて捕らえられ、自害する。

*1535.12.5/尾張 織田信秀との戦いで守山(名古屋)に出陣中の三河松平清康が、家臣に殺害される(守山崩れ)。 

*1537.2.10/駿河・甲斐 今川義元武田信虎と、甲駿同盟を結ぶ。

*1538.10.7/下総 北条氏網が、小弓御所足利義明と里見義尭を国府台で破る。

 

 下克上とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさすが、こうした傾向は室町期に顕著となり、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともなった。

 元来、武士団とは主人と家来が強い結びつきで結成された集団とされてきたが、中世の武家社会においては、主君と家臣団は相互に依存協力しあう運命共同体であり、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなかったと考えられる。

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 とりわけ室町幕府は、有力大名の力のバランスの上に足利将軍が担がれたというようなところがあり、将軍の権威は、鎌倉時代のそれより弱かった。それは、各守護大名においても同様であり、家臣団の意向が反映される傾向が強かった。

 一般に「下克上」といえば、家臣が主君を倒して、主君に成り代わるということになるが、このような典型例はむしろ少なく、家臣の有力者の衆議で、問題のある主君を退かせ、一族の有能な人物を新たな主君とするというような、「主君押込」に近い無難な交代も多くみられる。

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 いずれにせよ、室町幕府の末期から戦国と呼ばれる時代には、何らかの形で、主家が代わってしまった大名が圧倒的で、力による交代が基本となったのは確かである。そういう形で、中央政府に任命される守護ではなく、自力で支配権を確立した「戦国大名」が増えて行った。

 かくして、室町時代守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎなかった。

 

 とはいえ、戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議を汲み取っており、戦国期の大名領国制は、戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立していたと考えられる。

 中央政界においては、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義稙(義材)の廃立(明応の政変)、三好長逸らによる将軍足利義輝の殺害(永禄の変)といった例があり、将軍位すら危機にさらされていた。

 

 戦国時代の始まりと終わりには緒論があり明確に規定できないが、1493年の「明応の政変」に始まり、1573年の信長による将軍足利義昭追放までと、仮に措定しておく。

 応仁の乱では、京都を中心に東軍西軍に分かれて戦われたが、守護大名が京に上って戦っている間に、領国の守護代や家臣が国を奪う事が頻発した。また、東軍の細川勝元や西軍の山名宗全が、自軍方の諸大名が領国で領地争いするのを放置したため、戦乱は各地に広がっていった。

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 畿内中央での戦乱が広がりをみせ、全国各地での実力者同士の利害衝突による戦いが、永続的に展開されるようになった。このような地方での継続的な戦闘を可能にした背景には、貨幣経済の浸透と充実による地域経済の発達があった。

 社会構造の急速な変化は、従前の荘園公領制を形骸化させて、モザイク状に細分分布していた荘園にかわって、「惣村」と呼ばれる拡大された新興の自治共同体が、自生発展を続け、武家領主たちの統治単位も、旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの惣村へと移行していった。

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  1493年4月に管領細川政元による将軍廃立を図った権力簒奪が成功して、幕府の実権が細川氏に移る事件が発生する(明応の政変)と、これ以降、将軍の権威は形骸化し、中央政権としての幕府の力は失われ、幕府の直接的な影響力は概ね山城国一国に留まるのみとなってしまう。

 地方豪族は自ら力を蓄えるか、力ある存在に身を寄せるようになり、地方の戦国大名が強大化していった。北条早雲斎藤道三親子など、旧来の守護大名の出自でない戦国大名も各地に登場し、相互に支配地域を争う戦国の世が展開されていった。

 

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(この時期の出来事)

*1526.4.14/駿河 守護今川氏親が、家法「今川仮名目録」を定める。(分国法のはじめ)

*1526.-.-/ 御伽草子「松姫物語」が完成する。

*1531.閏5.9/加賀 加賀一向一揆が分裂し、抗争がはじまる(享禄の錯乱)。

*1536.7.27/山城 延暦寺宗徒が、日蓮宗寺院を焼く(天文法華の乱)。

 

 

【16th Century Chronicle 1501-1520年】

【16th Century Chronicle 1501-1520年】

 

 ◎室町幕府の衰退と足利将軍の権威失墜

*1504.9.4/山城 摂津守護代薬師寺元一が、管領細川政元を廃しようとして、淀城で兵を挙げるも鎮圧される。

*1507.6.23/ 管領細川政元が、養子澄之や香西元長・薬師寺長忠らによって殺害される。

*1507.8.2/ 細川純元が入京し、細川政元家督を継ぐ。

*1508.4.16/ 11代将軍足利義澄は、前将軍足利義稙(義伊)が京に迫るとの報を聞き、近江へ脱出する。

*1508.6.8/ 大内義興に擁された足利義稙が入京し、7.1に将軍に復帰する。

*1511.8.14/ 前将軍義澄(32)没。

*1513.2.14/ 将軍義稙が、義澄の遺子義晴と和睦する。

*1520.3.27/ 細川澄元の武将三好之長が入京する。

 

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  くじ引で決められた第6代将軍足利義教であるが、強権的な政権運営で幕府の支配力を強化した。しかし「万人恐怖」と評された過酷な政治は、それに怯えた赤松満祐により暗殺される(嘉吉の乱)。将軍職はその子義勝が継ぐが、ほどなく早世し、弟足利義政が第8代将軍となる。

   義政は当初、鎌倉公方足利成氏関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)にも積極的に関わり、将軍親裁権の強化を図ろうとした。しかし、思うに任せない政務運営に次第に意欲を失い、趣味世界に没頭してゆく。

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 弟の義視を養子にし後継にするつもりだったが、正室日野富子に実子義尚が生れると、富子の意向に押されて義尚に家督を継がせる方に流れて行った。義視派と義尚派に分かれての将軍後継問題は、優柔不断な義政の下で混迷を深めた。

 管領畠山家の内紛と、将軍家の後継争いは、やがて細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれての応仁の乱へと流れ込んでゆく。応仁の乱の進行とともに、事態の収拾能力のない義政の前で、将軍の権威はまったく失墜していった。

 

 応仁の乱で、立場の不利を察知したした義視が西軍に走ると、義政は東軍よりの立場を示すようになり、1473(文明5)年、義政は将軍職を義尚に譲り9代将軍とする。義尚は9歳だったため、政務の実質は義政・富子夫妻と富子の兄である日野勝光が中心となって行った。

 義尚が政務を担う歳になっても、義政らは実権を手放さず、父子間には確執が生じた。1482(文明14)年になったやっと義政は、政務を義尚に譲る意思を表明するが、確執は収まらなかった。

 

 義尚は将軍権力の確立に努め、積極的にもめ事に介入し、1487(長享1)年には、近江守護の六角高頼を討伐のため、約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。しかし高頼はゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされ(鈎の陣)、結局、鈎の陣中で病死する(25歳)。

 義尚には継嗣が無く、1490(延徳2)年に義政が死去すると、従弟(義視の子)である足利義稙(義材/義伊)が、10代将軍に就任した。しかし将軍義稙は、強力な後ろ盾であった父 義視が1491(延徳3)年に死去すると、前管領畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。

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 1493明応2年(1493年)義稙は、畠山政長の対抗者畠山義就が死去したのに乗じて、義就派一掃を企図し、後継の義豊討伐のため、畠山政長らを率いて河内国に赴いた。しかし義稙が京都を留守にしている間に、京都の細川政元日野富子らは、義政の異母兄である堀越公方 足利政知の子 足利義澄(清晃)を11代将軍に擁立して、義稙を廃するクーデターを起こした(明応の政変)。

 管領細川政元は、河内国に派兵し足利義稙畠山政長を打ち破り、政長は自害し、義稙は龍安寺に幽閉された。細川勝元の子で現管領細川政元が幕政を掌握し、「京兆専制」と呼ばれる事実上の細川政権を樹立し、幕府は安定するかと思われた。

 

 細川政元修験道に没頭していて、女人禁制に従って女性を近づけることなく、独身を通したため子供が無く、3人の養子をとっていた。するとその養子の間で跡目争いが生じ、1507(永正4)それに巻き込まれ政元が謀殺され、細川家は分裂状態に陥る(永正の錯乱)。

  細川家が分裂状態を好機とみて、義稙は将軍への復帰を目指し、大内氏や細川家の後継候補の細川高国らの勢力に支えられ上洛すると、将軍義澄を追放、将軍職に復帰する。

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  その後も、12代義晴、13代義輝、14代義栄、15代義昭と足利将軍は続くが、有力大名の意向で将軍職が左右されるなど、将軍の権威はほとんど失われていた。1573(天正2)年、足利義昭織田信長に京都を追放されると、事実上、室町幕府の幕は閉じられる。 

 

(この時期の出来事)

*1503.4.7/京都 応仁の乱で焼失した真如堂が、故義政の発願で再建されていたが、その棟上げが行われる。

*1505.7.18/京都 爆発的な流行を見せる風流踊りに、幕府は禁止令を出す。

 

【お江戸の経済政策】

【お江戸の経済政策】

 

 経済は難しいので正面からは語れないが、半世紀前の学生時代には、なぜか江戸時代の経済史を研究する教官のゼミだったのだ(笑)

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 将軍綱吉・荻原重秀の拡大路線から、白石から吉宗の緊縮財政、さらに田沼の拡大、松平定信の緊縮引き締め、続く家斉大御所の弛緩財政と、交互に続いた。拡大か緊縮かは、時の経済情勢に対応して行うというのが、現在の財政・金融政策の常識だが、当時はケインズ理論マクロ経済学も無いどころか、産業経済社会も成立していなかった。

 経済指標も揃っていない時代に、何を目安にしたかと言うと、やはり「米」であり、米本位制などともいわれる。戦国が終わって間もない江戸時代の前半では、吉宗の頃あたりまで、米産出量と人口がそろって伸びていた。米本位制の江戸の世の中では、この二つがバランスとって上昇している間はなんとかなる。そして、それが頭打ちになるとその矛盾が表面化してくる。

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 江戸のような大都市に、非生産階級である武士が集中するような、極端な大規模消費経済が出現すると、当然、物価騰貴が進むとともに、恒常的な米価低下によって、幕府・大名・家臣ら武士階級は窮乏化する。

 産業化が進んでいない状態で、いびつな消費経済が進むと、その金は産業資本に転化されることなく、経済拡張は行詰り、いきつくところ商人資本、ないし金融投機資本に流れ込むしかない。荻原、田沼、大御所時代の失敗は、ここに起因する。平成のバブルのようなもんだ。

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 これは、封建社会の根幹を担っている、武士と農民の没落を意味するわけで、つまり封建的支配の根幹基盤が崩壊してゆくのである。米将軍と呼ばれた吉宗が、何をいちばん気にかけたかと言うと、当然、米相場であり、米価低落を阻止する政策を採る。これはつまり緊縮政策となる。

 白石、吉宗、定信らの政策には経済発展などという概念はない。封建経済にもとづく幕藩体制を維持するためには、必然的に緊縮政治を行うことになる。それは彼らの限界であるとともに、江戸幕藩体制の限界でもあったと思われる。

 

【15th Century Chronicle 1481-1500年】

【15th Century Chronicle 1481-1500年】

 

土一揆国一揆一向一揆

*1484.11.3/京都 山城の土一揆が徳政を求めて蜂起、東寺にたてこもるも、細川政元らに鎮圧される。

*1485.8.4/近畿 山城・大和・河内で土一揆が蜂起、幕府は所司代多賀高忠に鎮圧を命じる。

*1485.12.11/山城 南山城で戦う畠山政長と義就の軍勢に対し、国人らが国外撤退を要求する。(山城国一揆

*1486.8.24/京都 徳政一揆が蜂起し、東寺金堂などを焼く。

*1488.6.9/加賀 一向宗徒による一向一揆により、加賀守護富樫政親が攻め滅ぼされる。(加賀一向一揆

*1490.3.21/京都 土一揆が徳政を求めて蜂起し、北野社にたてこもる。

*1493.8.18/山城 国人らが伊勢貞陸の守護就任を認める。(山城国一揆終結

 

山城国一揆

 南山城国(京都南部)は、京と奈良、また大坂とを結ぶ要衝の地で、戦乱が起こると否応なく兵が往来するところであった。応仁の乱が起こると、南山城に割拠した国人衆は東西両陣に分かれて互いに争った。乱が終わったのちも、南山城では守護畠山氏内部の争いが続いていた。 

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 1485(文明17)年、山城国京都府南部)南半の上三郡(久世郡・綴喜郡相楽郡)で、国人や農民が協力し、畠山氏の支配を排除する一揆が起り、一揆勢は、以後8年間自治を行なった。

 南山城では、守護畠山氏の跡目争いが解決せず、応仁の乱終結した後も畠山義就畠山政長が戦いを続けていた。応仁の乱の原因にもなった義就と政長の争いが、乱後にまで長年続くことで、当地の国人衆や農民は疲弊し限界状況にあった。

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 1485(文明17)年、南山城の国人衆(土着武士)や土民(農民)たちは、宇治の平等院に集まり評定を持った。評定では「国中掟法」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。

 実力行使も辞さないという評定を突き付けられた両軍は、あっさりとこれを機会に引き上げることになった。南山城地域は、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により、自治政治がおこなわれるようになった。

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 室町幕府を仕切る管領細川政元らは、お膝元である山城国で起こった一揆を静観し、国人たちの自治を認めた。山城国守護としての畠山氏の勢力が排除されるのは、応仁の乱後の基盤再建に努める幕府にとって、お膝元である山城国を御料国化として、ある程度の自治を認める方が好都合であった。

 1486(文明18)年5月、政所執事伊勢貞陸が半ば名目上の守護に補任され、幕府及び伊勢氏は一揆側に一定の政治権限を認める一方、畠山氏が持っていた守護請の権限を継承した。一揆側もまた、必要に応じて守護の権限を受容れた。

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 その後、国人と農民の対立や国人同士の対立を生むことになり、一揆で成立した惣国は崩壊の兆しを見せ始めた。一方、幕府内でも内紛があり、管領細川政元が将軍足利義稙(義材)に背き、足利義澄(義高)を擁立して挙兵する(明応の政変)。

 これまでは半ば名目上の守護だった伊勢貞陸は、政変でゆらぐ京都治安維持の名目から、山城全域の一円知行化を目指した。そこで、伊勢の支配を認めて地位を維持しようとする国人たちと、守護の支配権を認めない国人に分裂することになった。

 

 1493(明応2)年、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄して惣国は解体される。一部の国人衆は抵抗するも、翌年11月には守護代古市澄胤によって一揆側は敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結した。

 山城国一揆は、守護の畠山氏が内紛で争い、戦場となるのを拒否して決起したもので、室町幕府に反抗しようという性質のものではなく、それ故、一揆勢の自治を認めた。しかし、自力で守護の支配を廃した動きは、幕府の権威をも凋落せしめ、以後、下克上の風潮が強まってゆくことになった。

 

加賀一向一揆

 本願寺中興の祖と呼ばれる真宗大谷派第8代門首蓮如は、1471(文明3)年、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れて、越前吉崎に吉崎御坊を設け、ここを北陸における布教拠点とした。

 1474(文明)6年から1475(文明7)年の間、吉崎御坊福井県あわら市)に滞在した。蓮如親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。

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 1473(文明5)年(1473年)には、富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には弟の富樫幸千代を倒した。しかし、政親は本願寺門徒の団結の強さに不安を感じ、逆に弾圧を始めた。蓮如吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は追われて越中に逃れた。

 ところが今度は越中門徒宗が、政親と結んだ石黒光義を打ち破る越中一向一揆が起こり、元気づいた一向宗は加賀に集って国人層とも合流、1488(長享2)年、政親を高尾城に攻めて討ち取った(長享の一揆)。

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 蓮如は消息を送って一揆を諌めるが、加賀の門徒宗は、宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)のもとで自治を始め、次第に国人層から本願寺門徒宗による支配に移行していった。

  その後、周辺諸国への進撃に失敗し、内部の動揺が広がったり、本願寺中央による抑圧があったり、勢力の弱まる時期もあったが、1546(天文15)年に尾山御坊(金沢御堂)が建設されると、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させたりした。

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 さらに、朝倉氏、上杉謙信織田信長など、本格的な戦国大名とも対立し、一時は一揆勢が上杉軍を各地で破るなど猛威を振るった。しかし謙信率いる上杉本隊により大敗を喫すると、さしもの一揆の勢いにも陰りが見え始める。

 1580(天正8)年、織田信長軍により石山本願寺が陥落、1582(天正10)年、加賀鳥越城の陥落により、100年近く続いた加賀一向一揆も終焉を迎える。

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(この時期の出来事)

*1482.11.27/京都・関東 足利義政が古川公方足利成氏と和睦する。(都鄙の合体)

*1483.6.27/ 足利義政が創設した東山山荘の常御所(のちの慈照寺)が完成する。

*1485.6.15/ 足利義政が出家する。

*1487.9.12/近江 将軍義尚が、六角高頼討伐のため近江坂本に出陣するも、戦果が上がらず2年後に陣中で死去する。

*1489.2.23/ 東山山荘の観音堂銀閣)の上棟が行われる。

*1489.3.26/近江 将軍義尚(義照/25)が、近江の陣中で病死する。

*1490.1.7/ 足利義政(56)没。

*1490.7.5/ 足利義稙(義材)が10代将軍となる。

*1491.1.7/足利義視(53)没。

*1493.4.22/京都・河内 細川政元が将軍足利義稙(義材)に背き、足利義澄(義高/14)を擁立して挙兵する。(明応の政変

*1493.閏4.25/ 細川政元の軍勢が正覚寺を攻め、畠山政長は自刃、将軍義稙は龍安寺に幽閉される。

*1494.12.27/ 足利義澄(義高)が、11代将軍に任命される。

*1496.5.20/ 日野富子(57)没。

*1500.6.7/京都 応仁の乱により中断していた祇園会(祇園祭)が、30年ぶりに復興する。

 

 

【15th Century Chronicle 1461-1480年】

【15th Century Chronicle 1461-1480年】

 

応仁の乱

*1464.11.25/ 将軍足利義政は僧籍の弟を還俗させ、足利義視として養子にする。

*1465.11.23/ 将軍義政の正室日野富子に義尚が産まれる。

*1466.7.23/ 管領家斯波氏でも家督争いが始まり、将軍義政は当主義廉を廃し、義敏に家督を相続させる。

*1467.1.18/ 畠山義就が、京都上御霊社に畠山政長を攻撃し、義就は山名持豊(宗全)の支持をうけ、敗走した政長は細川勝元の支援を受け、西軍山名持豊派と東軍細川勝元派に分かれて対立し「応仁の乱」が始まる。

*1467.8.23/ 西軍の大内政弘が、大軍を率いて入京する。

*1468.11.13/ 足利義視が、西軍のもとに逃れる。 

*1471.5.21/越前 東軍に寝返った朝倉孝景が、幕府から越前守護に任命される。

*1471.8.3/ 将軍義政が正室日野富子と対立、細川勝元の新邸に移る。

*1472.1.15/ 山名持豊細川勝元に和平を求めるが、失敗する。

*1473.3.18/ 山名持豊(70)没。

*1473.5.11/ 細川勝元(44)没。

*1473.12.19/ 足利義政征夷大将軍を辞し、義尚を第9代将軍とする。

*1474.4.3/ 山名持豊の後継山名政豊と、細川勝元の子細川政元が和睦する。

*1477.11.11/ 大内政弘が京から撤収、西軍諸将も次々と撤退する。(応仁の乱の終焉)

*1478.9.16/筑前豊前 周防守護大内政弘が、少弐政資を破り、北九州を制圧する。

 

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応仁の乱対立図「世界の歴史まっぷ」より引用>https://www.sekainorekisi.com/japanese-history/%e5%b9%95%e5%ba%9c%e3%81%ae%e5%8b%95%e6%8f%ba%e3%81%a8%e5%bf%9c%e4%bb%81%e3%81%ae%e4%b9%b1/

 

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 応仁の乱は、1467(応仁1)年から1478(文明9)年までの11年間にわたって争われた。管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展し、将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。

 6代将軍足利義教が暗殺されるという嘉吉の乱を収集させた管領畠山持国は、弟持富を養子にしていたが、その後「義就」が生れると、将軍足利義政にも認めさせ義就に家督を継がせた。

 

 しかしこれに細川勝元山名宗全が介入、持富の子畠山弥三郎・政長の兄弟を支持し、畠山持国は隠居、義就は京都を追われた。しかし義就は山名宗全の支持を受けるようになり、上洛すると自力で家督を継承する。やがて持国や弥三郎が死に、その弟「政長」を支持する「細川勝元」と、「義就」をかつぐ「山名宗全」の対立が表面化してくる。

  将軍家では、足利義政実弟足利義視」を養子にして後継としていたが、1465(寛正6)年に正妻日野富子に「足利義尚」が誕生する。優柔不断な義政のもとで将軍家の家督継承問題が生じると、義視の後見人である細川勝元と義尚を推す山名宗全の対立は激化し、全国の守護大名を勝元派と宗全派に分かれ、衝突は必至となっていた。

 

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 1467(文正2)年1月18日、畠山政長上御霊神社京都市上京区)に陣を敷いたが、義就側がこれを攻撃し、政長はみずから社に火をかけ細川勝元邸に逃げ込んだ(御霊合戦)。室町御所は山名軍に占拠されたが、細川勝元は領地の兵を京都に集めて対峙する。この御霊合戦が、応仁の乱の始まりとされている。

 御霊合戦の後、細川勝元畿内と四国から兵を集結させると、山名宗全五辻通大宮東に本陣を置き対峙する。細川派は勝元邸と室町御所を中心に京都北部から東を、山名派は宗全の屋敷を拠点に西部と中央を固めた。こうして勝元と宗全の屋敷の位置から、それぞれ東軍・西軍と呼ばれた。「応仁記」によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったとされるが、細川派は畿内と四国を勢力圏としており、当初の動員が速く優勢とされた。

 

 東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して「官軍」の体裁を整えていたが、さらに1467(応仁1)年5月26日、室町御所近隣で戦火が起こると、細川勝元は室町御所を押さえ将軍義政らを確保した(上京の戦い)。やがて西軍の反攻があり戦火はさらに拡大したが、足利義政は両軍に和睦を命じ、義政は将軍牙旗を足利義視が率いる東軍に下した。6月に入ると東軍は、足利義視率いる官軍として総攻撃を開始し、戦火で上京の大半が炎上、西軍は投降寸前にまでに追い詰められた。

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 しかし6月半ばから西軍の援軍が到着し始め、8月23日には周防国大内政弘が大軍を率いて入京すると、西軍は一気に勢力を回復する。大内政弘船岡山に陣取り、東軍派武田勢を追い、逃げ込んだ醍醐三宝院に火を放った。さらに9月18日に京都郊外の南禅寺山の戦い(東岩倉の戦い)、10月3日には相国寺の戦いが起こり、東軍は劣勢に立たされた。

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 翌年になっても市街各地で戦闘が続いたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨などで両軍が交戦した。足利義視は、細川勝元足利義政に説得されて東軍に帰陣していたが、義政が義尚擁立に動き出したのをみて、比叡山に出奔する。西軍は、その義視を新将軍として迎えたため、東西の幕府が並び立つこととなる。

 

 大内政弘の軍事力によって山城国はほぼ西軍によって制圧され、洛中での戦闘は散発的になり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。さらには、お互いの領国を襲うようになり、上洛中の守護大名の領国にまで戦乱が拡大した。

  長引く戦乱と盗賊の跋扈によって、京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。上洛していた守護大名たちは、領国にまで拡大した戦乱により、京都での戦いに専念できなくなり、さらに幕府の権威が著しく失墜したため、もはや京都で戦う意味を失っていった。

 

 東西両軍の間に厭戦気分が漂うようになっていたところに、1473(文明5)年になると山名宗全細川勝元が相次いで死去した。さらに12月には、足利義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。義政は新邸に移り酒宴にふけり、室町御所に日野富子と義尚が残り公事を司った。

 1474(文明6)年4月、山名政豊細川政元の間に和睦が成立する。それでも、あちこちで各自武将は惰性的な小競り合いを続けて、もはや東軍西軍もなく、自らの都合のために戦うだけだった。

 

 領国の守護職を安堵された大内政弘は、1477(文明9)年11月11日に京から撤収し、西軍は事実上解体されて、西軍の守護たちは国に帰っていった。9日後の11月20日、幕府によって大乱の終焉を祝う祝宴が催され、応仁の乱の幕が降ろされた。 

 乱の終了後も山城国では畠山政長と義就が戦い続けていたが、続く戦乱に怒った国人や農民が1485(文明17)年「山城国一揆」を起し、両派は国外に追い出された。また、加賀で東軍に参戦した守護富樫政親は、1488(長享2)年「加賀一向一揆」によって居城を攻め落とされてしまう。

 応仁の乱は、幕府という中央権力が崩壊し、国人(土着武士)や守護大名の家臣が、自力で支配権を確立してゆく流れを促進し、やがて戦国の世の中に突き進んでゆく。

 

(この時期の出来事)

*1461.2.-/ 寛正の大飢饉で、京都では鴨川が死体で埋まる。

*1471.7.27/越前 蓮如が吉崎に御坊を建てる。

*1474.11.1/加賀 一向一揆が蜂起し、西軍の富樫幸千代の軍勢と戦う。