【14th Century Chronicle 1341-60年】

【14th Century Chronicle 1341-60年】

 

◎足利政権内紛と観応の擾乱

*1342.11.11/常陸 高師冬が、南朝方の関東の拠点 関・大宝の両城を落とし、北畠親房は逃れて吉野へ向かう。

*1348.1.5/河内 南朝軍の将帥楠木正行(正成の子)が、四条畷高師直と戦い敗死する。後村上天皇は吉野を捨てて賀名生に逃れる。

*1348.1.28/大和 高師直が、吉野の行宮を襲い焼き払う。

*1349.閏6.2/ 足利直義と将軍尊氏の執事高師直が、不和となり対立する。

*1349.8.13/ 高師直足利直義を急襲し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲する。尊氏は、政務を任せていた直義の任を解くことで、師直と調停をはかる。

*1249.10.22/ 尊氏の子 足利義詮が鎌倉から京へ戻り、直義に代わって政務を執る。その後、直義は出家する。

*1350.10.26/ 足利直義が、兄の将軍足利尊氏と不和となり京都から脱出、両者の対立が決定的となる。(観応の擾乱

*1351.1.15/ 直義方の軍勢が京に攻め入り、尊氏・義詮の軍と四条河原で戦う。

*1351.2.26/摂津 足利尊氏高師直の軍勢は、芦屋打出浜で足利直義軍に大敗し、尊氏は高師直・師奏兄弟の出家を条件に和議を結ぶ。しかし直義方の上杉能憲は、京へ護送中の師直・師奏兄弟を殺害する。

*1351.11.15/相模 再び尊氏と対立するようになった直義は、鎌倉に逃れる。翌年初め、尊氏の追討軍に降伏し幽閉される。 

*1952.2.26/相模 足利尊氏(48)は、幽閉中の直義(47)を毒殺する。

*1355.1.16/ 直義の養子直冬が南朝方と結び入京、尊氏・義詮軍と激しく戦うも、3月12日敗退し京を去る。

*1356.19/越前 足利直冬方の重鎮斯波高経が、尊氏に帰順し、幕府政治の内部に組み込まれる。

*1358.4.30/ 数年来、戦闘での古傷に侵されていた足利尊氏(54)が没する。12月には、足利義詮が2代将軍に就く。

*1359.2.7/関東 鎌倉公方足利基氏が、京都の将軍義詮の南朝攻撃計画に協力し、関東諸氏に対し動員令を出す。

*1359.12.23/近畿 将軍足利義詮南朝攻撃のため、京を発ち摂津尼崎に向かう。南朝後村上天皇は河内に移る。

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 足利政権の初期には、将軍足利尊氏が軍事指揮権を持ち、足利家執事の高師直がその補佐として実力を行使する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当するという、二元的な体制をとっていた。

 「足利直義」は鎌倉時代の執権政治の制度を継承し、訴訟事を裁定することが多く、結果的に有力御家人や公家寺社など、既存領主の権益を保護する性格を帯びた。これに対し、鎌倉討幕に与した新興武士団の多くは、従来からの権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、「高師直」はこのような新興勢力を統率して南朝方との戦いを遂行していた。

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 1339(延元4)年に後醍醐天皇が没すると南朝勢力は沈静し、高師直・師泰兄弟の活躍の場が減り、足利直義が仕切る法・裁判による平時政治が際立つことになる。しかし1347(正平2)年になると、楠木正成の子 正行が京都奪還を目指して蜂起し、京はにわかに不穏となる。

 直義は細川顕氏畠山国清を派遣するも敗北を喫し、さらに山名時氏を増援に派遣するも京都に敗走してしまう。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌1348(正平3)年四條畷の戦いで正行を討ち取り、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させる。そのため師直の勢力が増すようになった。

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 この時期、政務を彼らに委ねて隠居状態だった足利尊氏に対して、1349(貞和5)年6月、直義は、師直に専横悪行ありとして執事職を免じるように尊氏に迫り、師直は執事職を解かれる。ここで足利直義高師直の対立は極まった。

 同8月、師直は師泰とともに逆クーデターを仕掛け、急襲された直義は尊氏の屋敷に逃げ込む。しかし師直方の軍勢は将軍御所を包囲し、尊氏にも圧力を掛けて直義を出家させてしまう。11月に義詮が入京し、12月直義は出家したことで、一旦、内紛は収まるかにみえた。

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 尊氏の実子だが認知されず、直義の養子になっていた足利直冬は、事件を知って義父 直義のために立ち、九州で地盤を固め始めた。北朝が「貞和」から「観応」に改元した1350(観応)1年11月、西で拡大する直冬の勢力をみて、尊氏は自ら追討のために出陣する。

 しかし、この直前10月26日に直義は京都を出奔ししており、河内石川城に入城すると、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけて決起する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わり、北朝光厳上皇による直義追討令を出させると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を明確にする(観応の擾乱)。

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 足利尊氏と直義は、一歳違いの仲の良い同母兄弟で、足利政権でも役割を分掌してうまく進めていたにもかかわらず、一連の流れの中でついに対決することになる。1351(観応2)年1月、直義軍は京都に進撃し、留守を預かっていた足利義詮備前の尊氏の下に落ち延びた。

 2月、尊氏・師直軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び摂津打出浜の戦いで、直義軍に相次いで敗北する。直義の優勢を前に、尊氏は直義との和議を図り、師直・師奏兄弟の出家で折り合ったが、事実上は殺害を認めていたらしい。

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 高兄弟は京への護送中に謀殺され、長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。しかし政権内部では直義派と反直義派との対立構造は残されたままで、武将たちは独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていた。

 政権内で尊氏派が勢力を増し、直義派がじり貧となっていくなか、尊氏と義詮が直義を挟撃する事態となり、状況を察した直義は自派の武将を伴い鎌倉へ逃げる。京から直義派を排除したが、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を拡張しため、尊氏は直義と南朝の分断を狙い、南朝に和議を提案する。

 

 1351(観応2)年10月24日、尊氏は南朝に譲歩する形で和睦し、12月には南朝方が神器を回収するなど、実質的には北朝方の南朝側への吸収合一となった。元号北朝の観応が廃され、南朝の正平6年に統一されたので、これを「正平一統」と呼ぶ。

 義詮に具体的な交渉を任せ、尊氏は直義追討のために出陣する。尊氏は直義軍を打ち破り、1352(正平7)年1月には鎌倉に追い込んで降伏させる。直義は浄妙寺に幽閉され、2月26日に急死する。病没とされているが、尊氏による毒殺説がある。

 

 直義の死により観応の擾乱は幕が引かれるが、九州では直義の養子足利直冬が勢力を保っていた。1354(正平9)年5月、直冬は石見から上京を開始し、翌1355(正平10)年1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし義詮軍にに打ち破られ崩壊した直冬勢力は、東寺に拠って戦闘を継続したが、最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走する。

 直冬は西国で以後20年以上生き延びたようだが、消息は明確でない。一方、尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり、1358(正平13)年に戦病死している。なお、正平一統は4ヶ月で崩壊するが、南朝は足利政権の内乱のせいで、後醍醐天皇亡き後も、何度も京都に攻め入るなど勢力を盛り返し、北朝側と一進一退の攻防を繰り返すが、やがて勢力を消耗し、北朝に吸収されてゆく。

 

(この時期の出来事)

*1341.12.23/ 足利直義夢窓疎石と協議し、天龍寺建立の費用を捻出するために、宋に天龍寺船の派遣を決める。

*1345.8.26/ 天龍寺落慶供養が行われる。

 

【14th Century Chronicle 1321-40年】

【14th Century Chronicle 1321-40年】

 

鎌倉幕府の滅亡

*1324.9.19/京都 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変

 *1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。

*1331..8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱

*1331.9.11/河内 楠木正成が赤坂城で挙兵する。

*1331.9.29/山城 幕府軍が笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。

*1331.10.21/河内 赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。

*1332.11.-/大和・河内 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成千早城で挙兵する。

*1333.4.29/丹波 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。

*1333.5.7/京都 足利高氏赤松則村らが六波羅を攻略する。

*1333.5.21/鎌倉 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。

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  幕府の朝廷への介入したことによって、持明院統大覚寺統両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かて対立していた。そして、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。

 1318(文保2)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。1324(正中1)年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。

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 1331(元弘1)年、再び後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題が軍勢を御所に送り込むと、後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山にこもり挙兵する。さらに後醍醐の皇子 護良親王が吉野で、河内国の悪党 楠木正成が下赤坂城で挙兵した(元弘の変)。

 幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。

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 後醍醐は幕府に捕らえられ、翌年、隠岐島に配流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせる。しかし潜伏して機をうかがっていた楠木正成は、1332(正慶1)年、河内国金剛山千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。

 幕府は大軍を差し向け、先ず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。

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 播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、1333(元弘3)年閏2月、後醍醐天皇隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。

 幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込んだが、名越高家赤松円心に討たれると、足利高氏は所領のある丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。そして5月7日、足利高氏赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。

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 六波羅陥落の翌日、新田義貞上野国で挙兵し、関東御家人を糾合しながら鎌倉を目指し、小手指原の戦い(埼玉県所沢市)を端緒に、何度もの合戦で危機に会いながら鎌倉に迫る。5月21日、新田義貞の軍勢は、海岸線の隘路稲村ヶ崎を干潮を利用して突破、鎌倉市内になだれ込んだ。

 両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。

 

建武新政から南北朝

*1333.6.5/京都 後醍醐が二条富小路の里内裏に入り、光厳天皇皇位を否定し親政を開始する。

*1333.9.-/京都 土地関係の訴訟を一元化するため雑訴決断所が設置されるが、従来の土地所有制度に混乱を招く。

*1333.10.20/ 奥州将軍府の設立に向けて北畠顕家が出発する。2か月遅れて、これに対抗するように、足利尊氏の意を受けた弟の直義が鎌倉に向かい、鎌倉将軍府を設立する。

*1334.1.12/ 大内裏造営計画が発表され、巨額の費用が課されると、諸国の武士や農民から反対運動が起きる。

*1334.1.29/ 元弘を建武改元する。

*1334.8.-/京都 京都二条河原に新政権批判の落書が掲げられる。

*1335.6.22/ 建武政権の転覆をはかる陰謀が発覚し、西園寺公宗・日野氏光らが捕縛される。

*1335.7.14/信濃 北条高時の遺児時行が、諏訪頼重らに擁立されて挙兵する。(中先代の乱

*1336.1.11/ 後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏(32)が入京し北畠顕家と激戦、後醍醐天皇は神器とともに東坂本へ避難する。

*1336.5.25/摂津 九州へ敗走していた足利尊氏が、再起し東進して摂津湊川(神戸)で、楠木正成新田義貞と戦い、正成は敗死する。(湊川の戦)

*1336.11.7/京都 足利尊氏が、建武式目17ヶ条を定める。(室町幕府の成立)

*1336.12.21/大和 軟禁されていた後醍醐天皇がひそかに京を脱出、吉野へ入る。(南北朝分裂)

*1338.5.15/和泉 後醍醐天皇の呼びかけに応じて奥羽から西上し、足利軍と戦い続ける北畠顕家(21)が、陣中から後醍醐へ諌言を奏上する。この一週間後、顕家は高師直と戦い敗死する。

*1338.8.11/京都 北朝が、足利尊氏征夷大将軍に任命する。

 *1339.8.16/大和 後醍醐天皇(52)が吉野の行宮で死去する。 

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  1333(元弘3年)6月5日、後醍醐天皇富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇皇位を否定し親政を開始する。6月15日には旧領回復令が発布され、従来の土地所有権などに関しては天皇の裁断が必要とすることと定め、9月には雑訴決断所が設置されるが、土地所有権の許認可などを裁ききれず大混乱を引き起こす。

  1334(元弘4)年正月に恒良親王立太子の儀が行われ、年号が「建武」と定められる(建武新政)。大内裏造営計画が発表され、新紙幣の発行も計画されるなど、矢継ぎ早に新政策が発表されるが、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政府の問題点が早くも露呈する。

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 足利高氏後醍醐天皇から「尊」の字を賜り「足利尊氏」と改名し、鎮守府将軍に任ぜられ軍事の中枢を担う。その後、北畠顕家が義良親王後村上天皇)を奉じて陸奥将軍府を設立すると、尊氏の弟足利直義成良親王を奉じて鎌倉将軍府を設置した。

 しかし建武の新政は、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改の政策、貴族・寺社・武士の既得権の侵害、頻発する訴訟の処理不備など、多くの不満が政権批判へとつながり、「二条河原の落書」にみられるようにその無能さを冷笑され、権威を失墜した。

 

  1335(建武2)年6月、西園寺公宗北条泰家らにより政権転覆の陰謀が発覚する。7月には信濃国で、高時の遺児北条時行と叔父の北条泰家が挙兵して鎌倉を占領、鎌倉府の足利直義が追い出される「中先代の乱」が起こる。

 足利尊氏は時行討伐のために征夷大将軍への任命を求めるが、後醍醐天皇に許されず、そのまま尊氏は北条軍の討伐に向かい、時行軍を駆逐する。尊氏は帰京せずに鎌倉に居を据え、独自に恩賞を与えたり領地を収受するなど、後醍醐新政から離反する。

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 後醍醐天皇新田義貞に尊氏追討を命じるが、足利尊氏は新田軍を箱根竹ノ下の戦いで破り入京する。後醍醐天皇側の北畠顕家や義貞らが一旦は足利軍を駆逐するも、足利尊氏は九州で再起して東上、持明院統光厳上皇院宣を得て、1336(建武3)年5月「湊川の戦い(神戸)」において楠木正成らを撃破し、光厳上皇を奉じて京に入った。かくして新政は2年半で瓦解する。

  入京した足利尊氏は、1336(建武3)年8月、光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。11月7日、尊氏は「建武式目17ヶ条」の制定、新たな武家政権の施政方針を示して、実質的な室町幕府の成立となった。尊氏は1338(暦応1)年8月11日に、北朝光明天皇により征夷大将軍に任ぜられる。

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 一方、比叡山に逃れた後醍醐天皇は、足利方に包囲されると比叡山を降り、花山院に幽閉される。機を見て、1336(建武3)年12月に京都を脱出すると、吉野へ逃れて吉野朝廷南朝)を成立させる。ここに、吉野朝廷南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来する。

  南北朝の抗争は、1392(明徳3)年、明徳の和約による南北朝合一まで、約60年間にわたって続くことになる。

 

(この時期の出来事)

*1322.春/奥羽 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。

*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。

*1331.この頃/ 吉田兼好徒然草」が完成する。

*1339.秋/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。

 

 

【14th Century Chronicle 1301-20年】

【14th Century Chronicle 1301-20年】

 

◎北条氏得宗家政治の衰退

*1284.4.4/ 執権北条時宗(34)、没。北条貞時(13)が第9代執権に就任する。

*1285.11.17/ 内管領平頼綱が、御家人安達奏盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。

*1293.4.22/ 執権北条貞時(23)が、内管領平頼綱を滅ぼし、得宗家督専制政治を確立する(平禅門の乱)。

*1297.3.6/ 幕府は、御家人所領の売買質入れを禁じ、窮乏して手放した所領は無償で取り戻させる。(永仁の徳政令

*1301.8.22/ 北条貞時は、執権職を従兄弟の北条師時に譲り出家するが、実権は握り続ける。

*1305.5.4/ 侍所代官北条宗方の陰謀が発覚、前執権北条貞時の使者により討たれる(嘉元の乱)。

*1308.8.10/ 将軍久明親王が追放され、その子守邦王が征夷大将軍とされる。

*1308.8.-/ 北条貞時が、御内人得宗家家臣)の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出される。

*1311.9.22/ 応長1(1311)年9月22日に執権の北条師時が死去し、北条宗宣が執権に就任する。翌10月26日には北条貞時が死去(41)。

*1316.7.10/ 北条師時・宗宣・煕時・基時と代理的に継がれてきた執権職に、得宗北条高時(14)が就任する。

*1318.3.29/京都 花園天皇が譲位し後醍醐天皇が即位する。

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 第9代執権「北条貞時」は、1284(弘安7)年4月、父時宗が病死し13歳で執権に就任する。幕府内では有力御家人の「安達泰盛」と、得宗内管領の「平頼綱」が対立しており、貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は、幕政改革を取り仕切った。

 御家人の立て直しを図る泰盛の改革は、将軍を戴く御家人層を拡大し、頼綱ら得宗家官僚の利害を侵すことになった。そして1285(弘安8)年11月、頼綱の讒言により北条貞時は泰盛を討伐する命を下し泰盛派は一掃された(霜月騒動)。

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 これにより、北条得宗家の内管領平頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。しかし北条家の家政機関の首長である内管領では、将軍家に仕える有力御家人を押さえて幕政を主導する事に無理があり、強圧的な政権運営を行なうことになった。

 そして成長した貞時は、平頼綱に見切りをつけ、1293(正応6)年4月、鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、得宗家主導の専制政治を強化した。

 

 二度にわたる元寇御家人たちの奮闘で撃退したものの、外冦ゆえに幕府に得るものは無く、御家人に十分な褒賞を行えなかった。莫大な軍費を費やした中小御家人たちを救済するために、1297(永仁5)年、「永仁の徳政令」(関東御徳政)を発布する。しかし、逆に借金をしにくくなるなど、かえって御家人を苦しめて、経済全般の混乱を招いた。

 1301(正安3)年、鎌倉に彗星が飛来(ハレー彗星)し、擾乱の凶兆との噂が広まると、憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の「北条師時」に譲るが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。

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 しかし元寇で疲弊した社会は、悪党や僧兵が狼藉を働くなど荒れすさみ、貞時は内外に問題を抱え、政治への情熱は失っていった。貞時は次第に政務を怠り酒宴に耽るなどして、御内人の平政連から諫状を受けるありさまだった(平政連諫草)。

  1311年に師時と貞時が続いて死去し、以後、執権職は北条氏支流の3人に受け継がれるが、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。

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 貞時の死去により家督を継いだ嫡子北条高時は、1316年14歳で得宗家執権となるが、在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起きる。

 1318年には後醍醐天皇が即位しており、天皇親政を目指し幕府転覆を計画、正中の変・元弘の変を経て、ついに1333(元弘3)年、「建武の新政」を実現する。関東で挙兵した御家人新田義貞軍が鎌倉へ侵攻するなか、高時(30)は北条一族や家臣らとともに自刃し、鎌倉幕府滅亡に立ち会うことになった。

 

(この時期の出来事)

*1301.11.21/薩摩 薩摩半島西に200余隻が漂着する。

*1313.この頃/ 久我雅忠の娘 二条が「とはずがたり」を著す。

 

 

【13th Century Chronicle 1281-1300年】

【13th Century Chronicle 1281-1300年】

 

元寇弘安の役

*1281.5.21/対馬 元船500余が対馬に侵攻する。(5.29 壱岐へ襲来)

*1281.6.6/北九州 元船が筑前志賀島などに来襲、ついで肥前鷹島を根拠地とする。

*1281.7.29/壱岐 元の東路軍と江南軍が合流、鎮西の武士と交戦する。

*1281.閏7.1/北九州 5月以来北九州を襲っていた元船が、前夜からの大風雨に襲われ、壊滅的な打撃を受ける。

*1281.閏7.5/北九州 日本軍の猛攻により、元は全軍の3/4を失い逃げ帰る。

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 クビライは日本再侵攻をあきらめず、建治1(1275)年、モンゴル人の礼部侍郎 杜世忠を正使とした使節団を派遣した。しかし執権北条時宗使節団を鎌倉に連行すると、杜世忠らを斬首に処した。

 クビライは使節派遣と並行して、日本侵攻の準備に取り掛かっていたが、南宋の攻略を優先し、建治2(1276)年に南宋を降服させた。その3年後、弘安2(1279)年、再びクビライは再び使節を派遣するが、日本側は前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において使節団一行を斬首に処した。

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 逃げ出した水夫より使節団の処刑が元に伝わると、クビライは日本侵攻軍の司令部・日本行省(征東行省)を設置する。弘安4(1281)年、元・高麗軍を主力とした東路軍と旧南宋軍を主力とした江南軍と合わせて15万人、軍船7千艘が、日本に向けて出航した。

 弘安4(1281)年5月3日、東路軍4万の軍勢が900艘の船で、朝鮮半島の合浦を出航し対馬を侵攻した。さらに東路軍は壱岐に襲来し、ここで合流する予定の江南軍を待たず、そのまま博多湾に侵攻し大宰府占領を目指した。

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 しかし日本側はすでに防衛体制を整え、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。東路軍は志賀島に上陸し、ここを軍船の停泊地とした。

 6月9日、攻め寄せる日本軍に大敗した東路軍は、志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにしたが、江南軍が合流する期限6月15日を過ぎても現れず、さらに東路軍内で疫病が蔓延、数千人の死者を出すなどして進退極まった。

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 一方、江南軍は東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した。6月中旬頃、総司令官の交代もあり、予定よりより遅れて出航、6月下旬に平戸島鷹島に到着したとされる。

 一方、6月29日に日本軍は壱岐島の東路軍に対して総攻撃を開始、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦で、壱岐島を放棄して江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。7月中旬、元軍は新たな計画で平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する計画とし、東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流する。

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 7月27日、鷹島沖の元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった。

 日本側は六波羅探題から派遣された大軍が北九州の戦場に向けて進撃中であったが、元軍は鷹島に留まって日本軍の鷹島攻撃に備えた。日本の援軍が到着する前の7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

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 閏7月5日、元軍は軍議を行い撤退することになった。諸将を乗せた船は撤退したが、多くの兵卒は見捨てて残されたままだった。勢いづいた日本軍は、残地された元軍に対して総攻撃を開始、10余万の元軍を壊滅させた。

 

(この時期の出来事)

*1282.12.8/ 北条時宗が鎌倉に円覚寺を創建、宋僧無学祖元を開山とする。

*1284.4.4/ 執権北条時宗(34)、没。

*1284.夏/京都 一遍が、四条釈迦堂などで踊念仏を行う。

*1285.11.17/ 内管領平頼綱が、御家人安達奏盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。

*1287.10.2/ 幕府が亀山院政に介入、皇位の紛争が続き、皇統は大覚寺統持明院統に分裂する。

*1293.3.-/筑前 幕府が、元の襲来に備えて鎮西探題をおき、北条兼時・名越時家を任命する。

*1293.4.22/ 執権北条貞時(23)が、内管領平頼綱を滅ぼし、得宗家督専制政治を確立する。

*1297.3.6/ 幕府は、御家人所領の売買質入れを禁じ、窮乏して手放した所領は無償で取り戻させる。(永仁の徳政令

 

 

【13th Century Chronicle 1261-80年】

 【13th Century Chronicle 1261-80年】

 

元寇文永の役

*1266.11.28/朝鮮 高麗の案内でモンゴルの使者が日本に向かうも、途中から引き返す。

*1268.1.-/筑前 高麗の使者が、高麗・モンゴルの国書をもって大宰府に来着、通好を要求する。

*1268.3.5/ 北条時宗(18)が、第8代執権となる。

*1269.3.7/対馬 モンゴルと高麗の使者が対馬に来着、返書を求めて島民を奪って帰る。

*1273.3.-/筑前 元の使者が大宰府の来着するも、入京がかなわず帰国する。

*1274.10.20/筑前 元軍が博多に来襲。夜、大風が起こり撤退する。(文永の役

*1276.3.10/ 幕府が、九州・中国・四国地方の諸将に石塁を築造させる。

*1280.12.8/九州 幕府が、鎮西(九州)の守護・御家人が協力して外敵からの防御に専心するよう命じる。

 

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 1260年、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位したクビライ・カアン(フビライ・ハーン)は、モンゴル帝国の分裂を収斂させ、モンゴル高原から華北にかけての東アジアをほぼ統一し、大都(現北京)に都を移し中国風の国家「元王朝(大元国)」を建国した(1271年)。

 クビライは既に隷属させていた高麗を通じ、南方のジパング(日本)という豊かな国があるのを聞き、高麗を通してモンゴルへの服属を求めた。当時のクビライにとって、肥沃な江南の南宋攻略が第一次的目標であって、そのための海上ルートを確保するためでもあったとされる。

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 クビライは文永3(1266)年、使節の黒的を日本へ派遣したが、仲介役の高麗で、渡海の危険などを吹き込まれ、朝鮮半島南部から引き返してしまう。怒ったクビライは、高麗が自ら日本へ使節を派遣し、はっきりした返答を得てくることを高麗王に約束させた。

 文永5(1268)年1月、高麗の使節団が大宰府に到来し、大蒙古国皇帝奉書と高麗国王書状を受け取った大宰府鎮西奉行は、それを鎌倉へ送達する。しかし日本側からの反応はなく、使節団は帰国する。

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 その後も数度にわたって使節を送るも、日本からはまともな返答もなく、文永10(1273)年、クビライはついに日本侵攻を計画し侵攻準備を開始した。この時期には、元に抵抗する高麗の三別抄を滅ぼし、南宋も元に対抗する国力を失っていたため、日本侵攻に専念できる状況となっていた。

  一方日本側でも、執権となった北条時宗のもとで、元軍の襲来に備えて、筑前肥前の警護を固めていた。そして、鎮西に所領を持つ東国御家人は、鎮西に出向かせ蒙古襲来に備えさせた。

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  文永11(1274)年10月3日、モンゴル人の都元帥クドゥン忽敦)を総司令官として、蒙古・漢軍の主力軍に高麗軍、女真人の軍勢を合わせた元軍は、朝鮮半島の合浦(現 馬山)を出航した。高麗はクビライに命じられて、兵を出すだけではなく、侵攻用の軍船を建造させられたため、過大な負担を強いられたという。

 10月5日、元軍は対馬に襲来、守備の対馬勢は奮戦するも元軍に圧殺され、島民も殺されるか捕虜にされるなどして対馬は壊滅した。さらに10月14日には、元軍は壱岐を襲撃し、こちらも大半が殺戮ないし捕囚とされた。

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 対馬壱岐を侵した元軍は、10月16から17日にかけて、平戸島鷹島能古島など肥前沿岸を襲った。そして10月20日、元軍は九州の中枢の博多湾にせまる。一方、迎撃する日本側では、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報が発せられ、九州の御家人大宰府に集結しつつあった。

 博多に上陸した元軍を迎えて、赤坂・鳥飼潟などで戦闘が交えられ、総大将の少弐景資のもと、御家人菊池武房竹崎季長が奮闘する。当時の日本側の戦法は、騎馬に跨った将が、名乗りを上げて突撃する一騎打ちから始まる流儀だった。しかし初めて対決した元軍は、飛距離の長い弓矢を射かける集団戦法で、日本側の騎馬はことごとく討ち取られてしまった。

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 大将の少弐景資を始め、竹崎季長らが防戦に努めたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となったという。ただ日本軍は防戦に追い込まれながらも、日本軍を追う左副都元帥 劉復亨を射倒すなどして奮戦した。

  苦境に陥った日本軍だが、翌日10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたという。元軍の撤退の理由は定かでないが、戦闘の夜、元側では軍議が開かれ、都元帥クドゥンが、援軍の到着する日本軍に対して、援軍が期待できない疲弊した兵で戦うのは不利とみて、撤退を決議したという。

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 冬場に向かうこの季節、夜間に海を渡るのは危険であるとされており、帰還しようと北上する元軍の船を大風が襲い、大荒れの海で多くの元の船が難破したと言われる。よく言われる神風、つまり台風が吹く時期はかなり過ぎており、戦略上で撤退を始めたときに、冬場の風が吹き、海が荒れたのが原因ではないかと考えられる。

 

(この時期の出来事)

*1263.11.22/ 前執権北条時頼(37)没。

*1263.この頃/ 親鸞の言行を記録した「歎異抄」ができる。

*1265.この頃/ 北条実時が「金沢文庫」を創設する。

*1266.7.4/ 北条時宗が、将軍宗尊親王(25)を謀反の疑いで廃し、後継に親王の子で3歳の維康王をたてる。

*1272.2.11/ 執権北条時宗名越時章を殺害、さらに北条時輔をも殺害する。(二月騒動)

*1279.秋/信濃 僧一遍が踊念仏を始める。

*1280.この年/ 阿仏尼が鎌倉へ下った時の紀行文「十六夜日記」を著す。

 

 

 

【13th Century Chronicle 1241-60年】

【13th Century Chronicle 1241-60年】

 

◎第5代執権北条時頼

*1246.3.23/ 北条経時が病のため、執権職を弟「北条時頼」に譲る。

*1246.5.24/ 名越(北条)光時が、前将軍藤原(九条)頼経などと連携、北条時頼打倒をはかるも、時頼に機先を制され失敗に終わる。(宮騒動

*1246.10.13/ 北条時頼が、西園寺実氏関東申次に推し、九条家は宮中政治での地位を失墜する。

*1247.6.5/ 北条時頼が、三浦泰村とその一族を滅ぼす。(宝治合戦

 *1252.2.20/ 幕府は九条頼嗣将軍を廃し、宗尊親王を将軍に迎えることを、後嵯峨上皇に奏上する。

*1256.11.23/ 北条時頼が、執権を長時に譲り、最明寺で出家する。

*1257.12.24/ 幕府は将軍護衛役の廂衆を置き、将軍監視をも兼ねさせる。

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 仁治3(1242)年、第3代執権 北条泰時が死去すると、早世した息子の時氏・時実に代わって、第4代執権には泰時の孫の「北条経時」が就任した。その経時も寛元4(1246)年、病状が悪化すると、弟の「北条時頼」に執権の座を譲り死去する。

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 時頼は嫡流でなく継承したので、必ずしも安定した立場ではなかった。経時の死を契機に、前将軍 藤原(九条)頼経を始めとした反北条勢力が勢いを増し、北条氏の一族の名越光時が時頼打倒を図るも、未然に阻止される。(宮騒動

 

 翌 宝治1(1247)年には、安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼし(宝治合戦)、続いて千葉秀胤も追討し滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏の御家人は排除され、北条時頼が実権を掌握した。

 建長4(1252)年には、頼経の子で第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放、後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王を新たな将軍として擁立した(親王将軍)。

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 執権として北条氏は、支配の正当性を欠いているため、時頼は評定衆の下に「引付衆」を置いて訴訟や政治の公正迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を短縮したりと、御家人への融和政策をこうじている。また、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護するなど、撫民・善政を強調して、その権威維持を図っている。

  康元1(1256)年、嫡子の「時宗」は6歳だったため、時頼は執権職を代理として義兄の北条長時に譲って、引退し出家する。これは嫡子時宗への権力移譲の準備であり、幕府の実権は時頼が握っていた。

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 時頼は南宋の僧侶 蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、また曹洞宗を開いた道元を鎌倉に招くなど、宗教心に篤く、質素かつ堅実で、御家人や民衆に対して善政を敷いたとされる。弘長3(1263)年、時頼は病状が悪化し死去する。享年37。

 

(この時期の出来事)

*1253.4.28/安房 僧日蓮が、安房清澄寺日蓮宗を開く。

*1253.8.28/ 僧道元(54)没。死まで「正法眼蔵」を書き続ける。

*1253.11.25/ 北条時頼建長寺を建立し、盛大に落慶供養を行う。

 

 

【13th Century Chronicle 1221-40年】

【13th Century Chronicle 1221-40年】

 

承久の乱

*1221.5.15/京都 後鳥羽上皇が、京都守護を討ち、北条義時追討の院宣を下す。(承久の乱

*1221.5.19/ 北条政子(65)が、関東武士に結束を求めて、鼓舞する。

*1221.6.15/京都 執権北条義時の嫡子泰時と弟時房率いる幕府の大軍が入京、後鳥羽上皇院宣を取り消し、鎌倉側に屈服する。

*1221.7.13/隠岐 幕府は後鳥羽上皇隠岐に配流する。

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 承久3(1221)年5月15日、後鳥羽上皇は諸国の兵を集め、京都守護の伊賀光季を討ち、北条義時追討の院宣を下した。上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功したという。

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  鎌倉方では、政子が軍議を裁決して出撃を決定、東海道東山道北陸道の三方から京へ向けて、泰時・時房らの軍勢を派遣した。泰時らは美濃・尾張で京方を打ち破ると、宇治・瀬田の防衛線も打ち破り、一気に京都に乱入した。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り消し、鎌倉方の軍門に屈した。

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 後鳥羽上皇高倉天皇の第四皇子で、平氏滅亡とともに入水した安徳天皇の異母弟に当たる。寿永2(1183)年8月、平氏都落ちの混乱の中で、神器の宝剣の失われたままで、わずか4歳の後鳥羽天皇践祚した。

 譲位して後鳥羽上皇となり、後白河法皇源頼朝も死去したあとは、名実ともに治天の君として院政を仕切った。鎌倉を本拠にした東国政権は、西国への支配は充分に及ばず、いまだ朝廷・院の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。

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 承久1(1219)年1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。幕府は新しい将軍として、後鳥羽上皇の皇子を迎えたいと申し出るが、逆に上皇支配下の荘園の地頭を撤廃するよう要望するなどして不調に終わり、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まった。承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の院宣を出し、有力御家人を動員させて「承久の乱」を起こすも、幕府の大軍に完敗し隠岐に流される。

 乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。以後、朝廷は新たに設置された「六波羅探題」の監視下に置かれ、朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

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 承久の乱の後、朝廷は幕府に完全に従属することになる。また、上皇はじめ京方に着いた公家・武家の多くの土地が没収され、戦功をあげた御家人に給付したため、多くの御家人が西国に移り住み、幕府の支配が畿内にも定着した。

 この朝廷と武家政権の間で起きた「承久の乱」の結果、東西の二重政権状態は完全に払拭され、鎌倉幕府(=北条得宗家)による武家封建体制が確立されたと言われる。

 

 

◎執権北条泰時御成敗式目

*1224.6.28/ 北条義時が没し(62)、北条政子の差配で義時の嫡子「泰時」と弟「時房」両名を将軍後見とし、事実上の2人執権体制が始まる。

*1224.閏7.3/ 義時の後妻伊賀氏の伊賀光宗らが、一条実雅を将軍に擁立を図るが失敗。

*1225.7.11/ 北条政子(69)没。

*1225.12.21/ 幕府は「評定衆」を定め、裁判・政務を合議評決する評議政治体制を決める。

*1232.8.10/ 第3代執権北条泰時が、「御成敗式目貞永式目)」を制定する。

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 北条泰時は、寿永2(1183)年北条義時の長男として生まれ、13歳で元服する時には源頼朝が烏帽子親となるなど、期待されて育ったようである。父親義時は、他の有力御家人を滅ぼしながら北条氏の政権を確立していったが、泰時は父の意を汲み、それらの戦闘を率先して戦った。

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 承久3(1221)年の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入る。戦後も京に留まり、叔父の北条時房とともに、朝廷の監視・畿内以西の御家人武士の統括など、西国を治める重要拠点の「六波羅探題」を確立した。

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 貞応3(1224)年、父義時が急死すると、伯母である尼御台北条政子の後見のもと、家督を相続し42歳で第3代執権となる。さらに嘉禄1(1225)年6月に有力幕臣大江広元、7月には政子が世を去ると、泰時は独自の方針で政治家としての力を発揮するようになる。

 泰時は、頼朝から政子・義時にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出す。叔父の時房も執権として複数執権体制をとり、有力御家人代表や幕府中枢官僚などからなる「評定衆」を選んで合議体制を整えた。

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 承久の乱後、幕府の勢力が西国に広がると、新たに地頭として派遣された御家人と従来からの荘園領主らとの法的な揉めごとが増加するようになった。一方で、幕府成立以降、成文法が存在せず、武士の慣習法や先例に基づいて裁判をしてきたが、幕府成立から半世紀近くたって、膨大な先例・法慣習が形成され煩雑化してきた。

 また、集団指導制、合議政治を進めようとする泰時にとって、抽象的指導理念や客観的法制が必要となった。そこで、泰時は「道理」(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになった。

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 泰時を中心とした評定衆たちが協力して編集を進め、貞永1(1232)年8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。これが、後に「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれる、日本で最初の武家法典となった。

 それまでの律令が中国法、明治以降の各種法律が欧米法を基礎として制定されたものであるのに対し、御成敗式目は日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で重要であり、それもあって、鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効で、室町から江戸時代を通じて、武家法典の指針となった。

 

(この時期の出来事)

*12212.-.-/ この頃、「平家物語」が完成する。

*1224.-.-/ この年、親鸞が「教行信証」を著す。

*1127.-.-/肥後 僧道元が宋より帰国、曹洞宗を伝える。

*1235.5.27/京都 藤原定家が、和歌百首を選ぶ。小倉百人一首の原型か。