【書くこと話すこと】

【書くこと話すこと】

 

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 ランダムな写真10枚ほどを見せて、「これらから一枚の写真を選び、それについて1000字(2.5枚)程度の文章を書け」とかやったら、ヘタな入社面接より有効だと思う。

 さらに詳しくその人物の思考能力を調べるなら、「ネット検索可で3時間で、4000字(10枚)程度の文章を書け」とする。これなら大卒4年間をどのように過ごしてきたか、ほぼ判断できると思う。これでチェックすれば、実際の大卒者でも8割は落第となるはずだが。

 

 1000字で即興なら、一通り知ってることを並べて、「それはさておき・・・」として、後は勝手な意見などを言う。これはどんなテーマでも対応でき、入社試験などで、たった一度だけなら使える手だ(笑)
 作家なども使う手で、締め切りに迫られた雑文などで、発想が出て来ないとき、「なぜ書けないか」という理由だけで1000字程度なら書ける。ただし、この手を何度も使うと、二度と原稿依頼は来ないことになる(笑)

 

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 4000字ともなれば、いくら資料や辞書や時間も使い放題でも、それらの資料から必要事項をセレクトし、それを自身の論旨にそって展開する能力が必要で、日ごろから訓練してないと支離滅裂になる。
 学部卒論では100枚(4万字)以上が義務だったが、日ごろから遊んでたからとても書けなかった。結局、資料やら表やら引用文やら、切り貼りしてなんとか枚数だけ帳尻を合わせた(笑)

 

 そもそも日本では、ライティングとスピーチの訓練がまったくない。私の知ってる限りで、唯一作文指導は「せんせいあのね、と話しかけるように始めなさい」だった。しかしこの手は、中学生にもなれば、もう使えないだろうな(笑)
 小学低学年の時、作文がまったくの苦手だった。仕方なしに担任の女の先生に相談すると、「思っていることを素直に書きなさい」と言われた。しかし、「何も思ってない」ので、何も書けなかった(笑)

 

 スピーチとなると、人前で話すのは大の苦手で、学生時代には多数を前にしてスピーチしなければならない場面は極力避けていた。会社に入ると、さすがにそうはいかなくなって、朝礼担当で朝のひと言スピーチなどが回ってくる。
 ああいうのは、気合を入れて始めると息切れして続かない。マイクをにぎって、うつ向いてぼそぼそ話し出す。それを続けていると弾みがついてきて、乗ってくるといくらでも続くようになる。そのうち、うんうんと頷いてくれるひとのよい人物が一人ぐらいは見つかるので、その人に向けて話すようにすると、いくらでも続けられる。やがて、あいつに朝礼担当させるな、と言われるまでになったのであった(笑)

 

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 「思ったことを書きなさい」と言われたが、「何も思っていない」ので書けなかったというのは笑い話に過ぎないが、先生が言いたかったのは少し違う意味だったと思う。あれこれ頭の中でひねり出そうと考えずに、「見たり聞いたり体験したりしたことを書け」と理解すれば、納得できる。
 ファーブルの昆虫記を例に出すまでも、まずは「事実」だ、それをどう捉えてどう考えるか、それが文章というもので、頭の中だけでひねり出すものではないということだ。


 「頭の中に書きたいことがあって、それを文章に表現する」というのはとんでもない間違いだ。「書くという作業の中で、頭の中に文章が出来上がっていく」のである。
 それを事後的に振り返ると、先に頭の中にあって、それを文章化したと錯覚する。これは全くの錯視である。試しに、寝てる時に観た夢を文章にしてみよ、まったく形にならないはずだ。それは、夢には対象となる事実が無いからである。

 

 その後、小学生の私にも、先生の言わんとしたことが実現する機会が訪れた。あるとき、いつものように作文の時間に、困り切っていて、仕方なしに家で飼っている猫のことを書きだした。そうすると、いくらでも書き続けられる。そりゃあそうで、毎日家に帰ると、猫を相手に遊んでばかり、嫌でも猫のことを観察していたわけなのだから。
 その次の作文の時間も「猫のこと続き」とかにして、猫ばっかり書き続け、やがて、地域の作文集に掲載されるまでになったのであった(笑)

 

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 芥川龍之介宅に、あるファンが訪れて、先生みたいに「話すように書きたい」というと、芥川は「私は、書くように話したい」と答えたとか。
 実際、「思ったことを話し、話したことを書く」というのは逆で、「書いたように話し、話したように考える」というのが正しい。話したり書いたりするのが苦手な人は、実はこの理屈が分かってないのである。

 

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 「話すように書く」と思う人は、試しに、自分が人前で話したことを録音し、それを文字に起こしてみればよい。論理的に話したつもりでも、そのままでは読める文章には、なっていないはずである。
 同様に「思ったように話す」とする場合、思ったことを客体化できないので、代わりに夢に見たことを話してみればよい。浮かぶのはイメージだけで、他人に説明する言葉には出来ないはずである。このように、ひとは「書く、話す、思う」の先験性を逆順に認識している。

 

 

【12th Century Chronicle 1121-40年】

【12th Century Chronicle 1121-40年】

 

院政

*1123.1.28/ 「鳥羽天皇(21)」が譲位して上皇となり、5歳の皇子が「崇徳天皇」として即位、藤原忠通が摂政として政務を代行する。

*1124.11.24/ 鳥羽上皇中宮璋子の院号を「待賢門院」とする。

*1126.11.7/ 崇徳天皇の生母待賢門院を呪詛したとして、阿闍梨乗実・妙心が伊豆に流される。背景には「白河法皇」と「鳥羽上皇」の間の確執(崇徳天皇白河法皇の実の子だとの噂など)があるとされる。

*1129.3.-/瀬戸内 白河法皇が、備前守平忠盛」に瀬戸内海を荒らす海賊を討伐させる。

*1129.7.7/ 白河法皇(77)が急死し、鳥羽上皇院政が始まる。

 *1132.3.13/ 鳥羽上皇が得長寿院(白河千体観音堂)の落慶供養を行い、その造営の功績により備前守平忠盛が昇殿を許される。

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 天皇皇位を後継者に譲って太上天皇上皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う政治のことを「院政」と呼び、その用語は江戸時代の頼山陽が「日本外史」の中で用いたことに由来する。

 天皇皇位を譲ると「上皇」となり、上皇が出家すると「法皇」と呼ばれる。院政を布く上皇・法王は「治天の君」とも呼ばれた。応徳3(1086)年、白河天皇がわずか8歳の「堀河天皇」に譲位して「白河上皇」となった時から、平家が滅亡する文治1(1185)年頃までの平安時代末期を「院政時代」とも呼ぶ。

 

  藤原北家が「外戚」として政治の実権を握り、天皇の職務を代理した「摂関政治」の最盛期では、藤原道長・頼通の治世が続くが、その頼通の末期に藤原氏と血縁の薄い後三条天皇が即位し、摂関政治が揺らぎ始める。

  「後三条天皇」は強力な親政を行い、4年後の延久4(1072)年に第一皇子貞仁親王白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没する。20歳で即位した「白河天皇」は、頼通の子で関白の「藤原師実」と協調しながら政治を進めるが、応徳3(1086)年、実子である善仁親王(8)(堀河天皇)に譲位する。

 

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  「白河上皇」は、実子である「堀河天皇」への譲位が目的であり、必ずしも強力な院政をしく目的ではなかった。しかしその後、摂関家藤原師実を継いだ師通が急逝し、まだ若く政治的に未熟な藤原忠実が継承(1099)したことや、さらに嘉承2(1107)年7月に堀河天皇崩御し、その皇子で白河法皇の孫である「鳥羽天皇」が5歳で即位するなど、状況が一変する事態となった。

 そこで「白河法皇」が孫の幼帝鳥羽天皇の後見をすることになり、結果的に権力が集中していった。政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。叙位・除目に大きく介入し人事権を掌握するとともに、院の警護役の北面武士平氏・源氏などの新興武士団を重用して、実質的な武力を背景とした権力も握った。

 

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  幼い鳥羽天皇に代わって、白河法皇が実際の政務を仕切り、また白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)を中宮とした。保安(1123)4年には第一皇子 崇徳天皇に譲位させる。白河法皇は、大治4(1129)年7月、77歳で崩御する。

 やっと院政を敷くようになった「鳥羽上皇」は、白河法皇の側近を遠ざけ、院の要職を自己の側近で固めるとともに、白河法皇の勅勘を受けて蟄居していた前関白「藤原忠実」を復権させ、南都北嶺の悪僧鎮圧に功のあった伊勢平氏の「平忠盛」を取り立てて、内昇殿をゆるすなどの人事をふるった。

 

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 さらに、白河法皇の後ろ盾を失った「璋子(待賢門院)」にかわり、長承2(1133)年頃より「得子(美福門院)」を寵愛した。永治元(1141)年には、璋子の産んだ崇徳天皇(23)を譲位させ、得子所生の「近衛天皇」を3歳で即位させた。

 受戒し法皇となった「鳥羽法皇」は、久寿2(1155)年に近衛天皇が早世すると、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(「後白河天皇」)を即位させ、崇徳上皇院政を敷く可能性を摘んだ。

 

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 崇徳上皇は、白河法王に実子ではないかとも噂され、それが白河法王と鳥法皇の間の確執の因であるとともに、白河法王の後ろ盾が無くなったあとの崇徳上皇は、鳥羽法皇から疎まれた。

 このことが、鳥羽法皇崩御の直後に、崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれて争う「保元の乱」の原因となった。以後、保元・平治の乱を通じて「後白河上皇」が院政を敷くが、事実上は、平氏や源氏の武士の武力の世の中になっていき、これら勢力を取り込むことに腐心することになる。

 

(この時期の出来事)

*1121.3.5/ 白河上皇により内覧を停止されていた藤原忠実が、鳥羽上皇の差配で復帰し、さらに嫡男忠通が家督を引き継ぎ、氏長者して関白となる。

*1123.7.4/近江 延暦寺僧徒が、平忠盛の要求に屈した座主寛慶を追放する。

*1123.7.18/京都 日吉社の神輿を奉じて入京しようとする延暦寺僧徒を、平忠盛源為義が撃退する。

 *1124.8.20/陸奥 藤原清衡が、平泉に中尊寺金色堂を建立する。

*1126.5.19/ 寛徳以後の新設荘園を停止する。(大治の荘園整理令)

*1131.この頃 藤原道長を中心とする藤原氏の栄華を描いた歴史物語「大鏡」が成立する。

*1135.8.21/ 平忠盛の海賊追討の功により、その子「清盛(18)」が従四位下の序せられる。

*1140.9.15/ 「鳥獣人物戯画」の筆者とされ、「今昔物語」の編者にも擬せられる「鳥羽僧正」こと前大僧正・延暦寺座主「覚猷(88)」が死去する。

 *1040.10.15/京都 鳥羽上皇北面の武士、佐藤義清(23)が出家し、歌人西行法師となる。

 

 

【12th Century Chronicle 1101-20年】

【12th Century Chronicle 1101-20年】

 

平氏・源氏の興隆

*1101.7.7/京都 源義家の子源義親が九州を荒らしたため、追討官符が下る。(1102.12.28隠岐に配流)

 *1104.10.26/京都 延暦寺僧徒と座主慶朝との争いで、源義家・義綱に延暦寺悪僧を逮捕させる。

*1108.1.29/京都 源義親が配流先で出雲の目代を襲ったため、因幡平正盛が追討を命じられ、討ち取った正盛は義親の首を下げて帰京する。

 *1109.2.17/近江 検非違使源義忠(義家の子)を殺害した罪で、叔父義綱を捕らえる。

 *1110.3.27/出羽 出羽守源光国、摂政藤原忠実寒河江荘を侵す。

 *1113.4.29/山城・近江 清水寺別当の任命をめぐって強訴合戦(永久の強訴)を繰り返す延暦寺興福寺の闘争を制止するため、平忠盛源重時を宇治(対興福寺)に、源光国・平盛重を西坂本(対延暦寺)に派遣して、僧徒の入京を阻止する。

 *1119.12.27/京都 平正盛が、九州地方の賊平真澄を討ち、その首を携え入京する。

 

清和源氏

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 源氏には天皇を祖とする源氏二十一流があり、なかで清和天皇からの流れを汲む氏族が「清和源氏」と呼ばれ、のちに歴史の舞台に登場する源氏の主流となった。清和天皇の曽孫にあたる「源満仲」が摂津国多田の地に源氏武士団を形成し、その子「頼光」・「頼親」・「頼信」がそれぞれ引き継いだ地名を冠して、「摂津源氏」・「大和源氏」・「河内源氏」と分派された。

 

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 「河内源氏」の祖とされる「源頼信」は、嫡男「頼義」とともに、長元4(1031)年、東国で「平忠常の乱」を平定し、その後の河内源氏の東国での地盤を形成する。この乱の以後、坂東武士が河内源氏と主従関係を結ぶようになり、河内源氏が東国を支配下におき、武家源氏の主流となっていった。

  永承6(1051)年、陸奥での安倍氏の反乱(前三年の役)で、前任に代わって陸奥守となった「源頼義」は、嫡男「義家」とともに、途中苦戦するも、最終的には清原氏の支援を得て、陸奥を平定する。その功績により、頼義は正四位下伊予守、嫡男義家も従五位下出羽守に任じられ、中央での評価も高めた。

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  永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」は、清原氏の内紛に積極的に介入する(後三年の役)。義家は、清原家の養子である「清衡」を支援し、後三年の役終結させるが、朝廷はこれを私戦とし、恩賞はなく、かつ陸奥守を罷免される。これは義家が陸奥守として貢納すべきものを、私戦に費やして、陸奥守としての職務を怠ったと見なされたためであった。

 動員した坂東武士への恩賞も義家の私財で賄ったが、これは結果的には義家が強い主従関係で関東に地盤を築くことになった。しかし以後10年間、義家は中央で地位を得る機会はなかった。やっと白河法皇から許され、院昇殿を許される官位となった。

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 その後も、弟義綱の方が中央で台頭して競合したり、次男の対馬源義親が、鎮西において問題を起こしたりと、河内源氏棟梁として頭を悩ますことが頻発する。嘉承元(1106)年には、別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟源義光と争いを起こすなか、源氏棟梁の義家は68歳で没する。

 その翌年には、隠岐に配流されていた源義親出雲国で再び騒乱を起こす。義親追討に源氏に適任が見当たらず、白河法皇因幡国の国守で院近臣でもあった「平正盛」に義親の追討を命じる。正盛は義親を討ち、源氏より平氏が院の信任を得るようになっていった。

 

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 さらに天仁2(1109)年、河内源氏の棟梁を継いだ義家の息子義忠が暗殺される事件が発生、犯人は義綱と子の源義明とされ、義親の子「源為義」が義綱一族を追討し、家督は為義が継いだ。義光・義国や義忠の遺児河内経国、為義の子源義朝などは関東へ下り勢力を蓄える。

 以後、「保元・平治の乱」を通じて、源氏・平氏一族が、それぞれ敵味方に分かれ入り乱れて争った結果、「源義朝」が「平清盛」に敗れ、平氏の天下が訪れる。そして義朝の遺子「源頼朝」が、関東に根を張った源氏の一族郎党に支えられ、平氏を追討して鎌倉幕府を開くという流れになる。

 

桓武平氏

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  天皇から臣籍降下した平氏には四流があり、そのなかで武家平氏として歴史の舞台に登場するのは、桓武天皇から発する桓武平氏で、高望王坂東平氏の流れをくむ常陸平氏伊勢平氏がある。なかでも、 承平天慶の乱に功のあった「平貞盛」の四男「平維衡」から始まる「伊勢平氏」が本流となり、その五代あとの平清盛のとき最盛期を迎える。

  賜姓を受けた平氏一族は、関東一円に展開して勢力基盤を作った。 承平5(935)年、坂東平氏の一族「平将門」が反乱を起こし、伯父の国香まで殺してしまう(「承平天慶の乱」)。将門追討の命を受けた国香の嫡男「平貞盛」は、藤原秀郷らの協力を得てやっとのことで将門を討ち取る。

 

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 貞盛の子「平維衡」は伊勢に地歩を築き、その後子孫が住みついて、「伊勢平氏」の祖となった。そして維衡の三代後から正盛・忠盛・清盛と続いて、伊勢平氏が政権に上り詰めることになる。平氏政権を打ち立てた「平清盛」とその一族が、特に「平家」と呼ばれるが、これは血流としての平氏ではなく、特定の家・一族郎党を含めて呼んだものである。

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 一方で、維衡の異母兄にあたる「平維将」の系統からは「北条氏」が出ており、後の源頼朝の郎党として、鎌倉幕府の執権となる。清盛亡き後の平氏を討ち鎌倉幕府を樹立する源頼朝の下には、坂東に展開した平氏も多く参加しており、平氏の流れを汲む北条氏が源氏の有力郎党であったことにも不思議はない。

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 その後の展開から、東国の源氏・西国の平氏と言われることが多いが、高望王が降籍して上総介「平高望」として赴任して以来、東国は武家平氏の基盤の地であった。すなわち坂東平氏の一族が、伊勢平氏として移り住み、中央(朝廷)にも勢力を伸ばし、やがて西国にも勢力を広げたというのが事実である。

  一方、北条氏や坂東八平氏などの東国の武家平氏は、源氏一門や藤原氏一門に恭順し家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、大きな勢力を維持できなかった。そして傍流と見られた伊勢平氏平清盛が、西国を制して中央政権を牛耳ることになった。

 

(この時期の出来事) 

*1101.4.7/奈良 興福寺僧徒が金峯山寺僧徒と争い、堀河天皇と右大臣藤原忠実が制止する。

*1102.8.5/山城 興福寺僧徒が蜂起したのに対し、白河法皇宇治橋を破壊して入京を阻ませる。

*1102.9.3/奈良 東大寺で、東大寺興福寺の僧徒が争う。

*1103.3.3/京都 鬼神横行の妖言により、京中の人々が門戸を閉ざして閉じこもる。

*1104.3.-/近江 延暦寺園城寺三井寺)の僧徒の争いが激化する。

*1105.2.15/陸奥 藤原清衡が、平泉に最初院(中尊寺)を建立する。

*1106.6.-/京都 田楽が流行し、人々が路上で踊りに熱中する。

*1111.この頃 「今昔物語集」が成立する。

*1119.3.25/京都 白河法皇が、藤原忠実が寄進を受けた上野の荘園を停止させる。

*1120.11.12/ 関白藤原忠実が娘を鳥羽天皇の妃にすることを拒み、白河法皇から内覧の職を停止される。

 

 

【エリア・カザン、ジェームス・ディーン、そしてマーロン・ブランド】

エリア・カザンジェームズ・ディーン、そしてマーロン・ブランド

 

 ジェームズ・ディーンは、エリア・カザン監督『エデンの東(1955)』で一躍スターの地位を不動のものとした。ジョン・スタインベックの原作だが、映画ではラストで牧師が、「カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ」と旧約聖書創世記の一節を読み上げるシーンで、「カインとアベル」の物語が下敷きなのだと気が付く。つまり、兄弟殺しの話しが基調にある。

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 エリア・カザンは名監督ではあるが、マッカーシー赤狩り旋風のときには、告発から逃れるためにハリウッド仲間を売った裏切り者ともされている。晩年になって、アカデミー賞名誉賞が贈られた時にさえ、多くの関係者や著名俳優がスタンディング・オベーションを拒否したほど、傷は深かった。
 ちなみにハリウッドで仲間を売った赤狩り三悪人は、エリア・カザンのほかに、当時俳優組合委員長だったロナルド・レーガン、白人至上主義レイシストウォルト・ディズニーあたりが挙げられる。

 

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 ジェームズ・ディーンと言えば、リーバイスのCMで映像が使われたので勘違いされるが、実際に愛用していたのはリー(Lee 101 Riders)であった。しかも、それより先行して、若者のファッションアイテムとしてのジーンズを流行らせたのは、『乱暴者(あばれもの) ”The Wild One” (1953)』で暴走族のリーダーを演じたマーロン・ブランドだった。

 ただしこの時は、ワルで乱暴者のイメージが濃厚で、多くの学校で生徒がジーンズを着用するのを禁じたという。

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 マーロン・ブランドは、奇しくもエリア・カザン演出の『欲望という名の電車(1951)』で、中年になったヴィヴィアン・リーと共演し、一気にスターダムを駆け上った。彼はヴィヴィアンが身を寄せた妹のアパートで、妹の亭主として粗暴な労働者を演じた。このときマーロン・ブランドが身に着けていた薄汚れた半そで下着が、若者にカッコ良いと真似され、ここからファッションとしてのTシャツ文化が広まったという。

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 なおマーロン・ブランドは、戦後の新たなワル風若者のパイオニア的存在で、ジェームズ・ディーンエルビス・プレスリージョン・レノンなども憧れて模倣したとされる。

 

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 ところで、日本で最初にジーンズをはきこなした男として、白洲次郎が有名だが、これは昭和20年代。日本の若者がジーンズをはき出したのは昭和30年代後半、東京オリンピックの頃からだから、普及に直接寄与したとは言い難い。ちなみにこちらは、Levi's 501。

 しかし、上半身は下着ではなさそうだし、ポロシャツ風の襟もないからTシャツかな。となると、マーロン・ブランドよりはやく、Tシャツ&ジーンズのファッションをこなしてたのかも知れない。

 

【11th Century Chronicle 1081-1100年】

【11th Century Chronicle 1081-1100年】

 

後三年の役

*1083.9.-/陸奥 陸奥守兼鎮守府将軍源義家が赴任する。清原家衡と真衡の内紛が起こると、源義家は介入し家衡を攻めるが、その最中に真衡が急死する。(後三年の役の始まり)

*1085.-.-/陸奥 清原清衡が、清原家衡・武衡と争い、源義家は清衡を助ける。

*1087.11.14/出羽 源義家清原清衡が、清原家衡らのたてこもる金沢柵を攻略する。(後三年の役終結

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 11世紀の東北地方には出羽国清原氏陸奥国安倍氏という豪族が勢力を誇っていたが、陸奥国安倍氏は康平5(1062)年の前九年の役で滅亡する。この戦役で、陸奥源頼義の要請で参戦した清原氏清原武則は、戦功により鎮守府将軍に任命され、奥州に大勢力を展開することになった。

 

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 しかしやがてその清原氏に、複雑な内紛が起こる。清原氏の惣領は、武則から子の「武貞」さらに孫の「真衡」と引き継がれるが、武貞には養子の「清衡」と、真衡の異母弟になる「家衡」の二人の子が居た。

 「真衡」には嫡子がなかったが、養子として成衡を迎えて、さらに成衡の源頼義の血を引く妻を娶らせて、清原氏の本流を確立させようとしていた。永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」を前にして、真衡は一族の長老吉彦秀武や清衡、家衡と対立し、その鎮圧戦の最中に急死する。

 

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 源義家の調停により、真衡の遺領は清衡・家衡2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服とした家衡が清衡を攻撃する。「清衡」側には源義家が介入し与力する一方、「家衡」側には叔父の武衡が加勢した。

 応徳3(1086)年、清衡と義家は沼柵に籠もった家衡を攻撃するが、逆に家衡軍に打ち負かされる。駆けつけた叔父清原武衡とともに、家衡は難攻不落といわれる金沢柵に移るが、寛治元(1087)年、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を兵糧攻めにし、ついに金沢柵は陥落する。(後三年の役終結

 

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 源義家は、この戦役を私戦と見なされ、論功行賞も行われず、更には陸奥守を解任された。結果として義家は、私財から恩賞を出すことになる、このことが却って関東における源氏の名声を高めた。

 一方、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなり、清衡はもとの藤原姓に復し、奥州清原氏が幕を閉じるとともに、のちの「奥州藤原氏」としての繁栄の祖となった。

 

◎僧徒(僧兵)の強訴

*1081.3.5/大和 興福寺の僧徒が多武峰を襲い、多武峰の僧徒が入京して強訴。

*1081.6.9/近江 延暦寺僧徒が園城寺を焼き討ち。9.15にも再度焼き討ちする。

*1082.10.17/紀伊 熊野の僧徒が神輿を奉じて入京、尾張国司による僧徒殺害を訴える。

*1087.12.29/豊前 宇佐神宮の神人らが、神輿を射た大宰大弐藤原実政を訴える。翌11月、実政は伊豆へ配流される。

*1092.3.6/山城 興福寺の僧徒が賀茂荘に乱入、民家200余戸を焼く。

*1093.8.26/奈良 興福寺僧徒が近江守高階為家の非報を強訴し、為家は土佐へ流される。

*1094.10.24/近江 延暦寺僧徒が、美濃守源義綱が僧徒を殺害したと入京し強訴。迎撃した源頼治が、のちに佐渡に流される。

*1100.6.8/近江 園城寺僧徒が、長吏(最高僧位)隆明の房舎を焼く。

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 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、僧形の武装集団が横行した。京都・奈良などの大寺院に所属する武装集団で、僧衆、悪僧などと呼ばれたが、のちに「僧兵」と呼称されるようになった。これに対し、神社に所属する武装集団は「神人(じにん)」と呼ばれた。

 藤原氏などの大貴族とともに、奈良や京都などの大寺院や神社は、寄進などで荘園などの私有地を拡大していった。そのような寺社は、社会が乱れるなかで、盗賊などから自主防衛する必要が生じるとともに、在地領主らの武装勢力や、国府などの権力を背景にする官吏など、さまざまな勢力と対抗する必要が生じてきた。

 

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 平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺延暦寺園城寺三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺延暦寺は「南都北嶺」と呼ばれ、宗教的権威を背景とする強訴は、僧兵の武力以上の威力をもった。

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 興福寺春日大社の神木、延暦寺日吉大社の神輿を担いで、洛中の内裏や院に押し掛けて強訴行い、白河法皇をして「心にままならぬもの、賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」と嘆かしめた。

 

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 朝廷や院の権威に基づく公家権力、新興の武家権力、そして宗教的権威を押し出す寺社権力、これらが相互に補完しながらも争うという形が、平安時代末期から鎌倉・室町時代と続いたが、応仁の乱で荘園制が事実上崩壊すると、武士の現実的な武力が優先する戦国時代となってゆく。

 寺社勢力は戦国末期においても、織田信長豊臣秀吉などに激しく敵対し続けたが、信長の延暦寺焼き討ち、秀吉の刀狩令などで、約五百年間続いたさしもの寺社勢力も、日本の権力構造から消えることとなった。

 

(この時期の出来事)

*1086.11.26/ 白河天皇が8歳の皇子善任親王堀河天皇)に譲位し、上皇として院政を始める。(院政の開始)

*1090.1.22/紀伊 白河上皇が熊野参詣に出発する。

*1091.6.12/京都 源義家と弟義綱が争う。義家の入京が禁止され、田畑寄進も禁止される。

*1093.3.3/ 白河上皇が、諸国の荘園乱立の制止を内大臣藤原師通に諮問する。

*1096.6.-/京都 田楽が大流行する。(永長の大田楽)

 

【11th Century Chronicle 1061-80年】

【11th Century Chronicle 1061-80年】

 

後三条天皇白河天皇

*1068.4.19/ 藤原氏と縁のうすい後三条天皇が即位する。

*1069.2.23/ 1045年(寛徳の荘園整理令)以後の新設の荘園を停止する。(延久の荘園整理令)

*1069閏10.11/ 荘園整理徹底のため、記録荘園券喫所(記録所)を設置する。

*1072.9.29/ 経済統制策の一環として、量衡の制を定める。(延久の宣旨升)

*1072.12.8/ 白河天皇に譲位し、後三条上皇として院庁を開き、翌年1月には院蔵人所を設ける。

*1073.5.7/ 後三条上皇(40)没。

*1076.3.-/山城 白河天皇が、石清水八幡宮行幸、翌4月には賀茂社行幸し、以後毎年の恒例とする。

*1077.12.18/ 白河天皇が洛東の地白河に法勝寺を建立、華やかに落慶供養が行われる。

(*1086.11.26/ 白河天皇が譲位し、「白河上皇」として院政を始める。)

 

後三条天皇と延久の善政

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 後一条天皇の皇太弟 敦良親王(のちの後朱雀天皇)の第2王子として生まれる。尊仁親王後三条天皇)は、摂関家との血縁がうすく、関白藤原頼通・教通兄弟には冷遇されていたが、摂関家と血のつながりが強い異母兄の後冷泉天皇に、皇位を継承する皇子がなく、治暦4(1068)年4月19日、「後三条天皇」として即位することになった。

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 後三条天皇は、頼通が引退した後の摂関家の政権独占打破を図り、反摂関家の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。天皇桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出すとともに、積極的に荘園整理に手を付け、摂関家の力を削ぐ対策を推進した。

 

 後三条天皇の征夷方針を請け、陸奥源頼俊は延久2(1070)年に軍を編成し北上するが、遠征途上、藤原基通国司の印と国正倉の鍵を奪い逃走する事件が発生する。頼俊からは、大戦果を挙げたとの弁明が届くも、頼俊は召喚され解任された。

 結果的には津軽半島下北半島までが朝廷の支配下に入ったものの、実質的に清原軍の寄与が多く、清原貞衡が軍功を認められ鎮守府将軍に任じられ、清原氏の勢力が奥州全域におよぶことになり、のちの後三年の役につながる。(延久蝦夷合戦)

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 藤原頼通摂関家が効果的な荘園対策を打ち出せなかったなかで、後三条天皇は延久元(1069)年、画期的な延久の荘園整理令を発布し、続いて「記録荘園券喫所(記録所)」を設置するなど、徹底した対策で摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。(延久の善政)

 延久5(1073)年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して、院庁を開き院蔵人所を設けるなど、院政を敷こうと図ったが、病に倒れ40歳で崩御する。退位は必ずしも院政を意図したものではなく、病によるものとする説もあり、たった4年と短かった後三条天皇の治世は、摂関政治から院政へ移行する過渡期としての役割とされる。

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白河天皇院政

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  貞仁親王白河天皇)は、尊仁親王後三条天皇)の第一皇子として生まれる。父尊仁親王は関白藤原頼通に冷遇されていたが、治暦4(1068)年父後三条天皇が即位すると、翌延久元(1069)年立太子、延久(1072)4年後三条から譲位され、20歳で白河天皇として即位する。

 延久5(1073)年の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れる。白河天皇は、関白藤原師実の養女賢子を中宮としていたので、摂関家外戚に戻るのを懸念した後三条上皇の遺志で、異母弟実仁親王を皇太弟としていたが、親王薨去した機会をとらえて、応徳3(1086)年11月28日、実子で8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立てて、即日譲位し上皇となった。

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 白河上皇として、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現したが、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった。

 嘉保3(1096)年には、皇女媞子内親王の病没を機に出家、法名を融観として法皇となり、深く仏道に帰依し、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせた。

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  堀河天皇が成人して関白も藤原師通に代わると、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に師通も協力的であり、親政に近い状態が現出したが、承徳3(1099)年に師通が死去すると、摂関家天皇を補佐する人物に欠け、結果的には、出家した白河法皇の本格的な院政が成立する。

  さらに 嘉承2(1107)年堀河天皇崩御と、白河法皇の孫である幼帝鳥羽天皇の即位が契機となり、外戚による摂関家支配から、天皇父系の院政への権力移行が明白となった。白河法皇は、さらに曽孫の崇徳天皇の代まで、幼帝3代、43年間にわたり院政を敷き、大治4(1129)年77歳で崩御する。

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 政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣などを重用し専制的な政治を行った。特に人事権を完全に握り、朝政を取り仕切るとともに、院の警護に北面武士を創設するなど、新興勢力の武士の力も活用した。

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 「平家物語」には、白河法皇が天下三不如意(意のままにならぬもの)として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるが、これは逆に、往時の白河法皇の権勢の絶大さを示すものとして語られる。

 

(この時期の出来事)

*1061.11.22/ 関白藤原頼通70歳の祝いが、法成寺で行われる。

*1062.7.26/陸奥 前陸奥源頼義の要請を受け、出羽の清原武則が一万余の兵を率いて陸奥へ向かう。(前三年の役)

*1062.9.17/陸奥 源頼義が、安倍貞任を討つ。(前三年の役終結

*1063.2.27/ 安倍氏討伐の功により、源頼義が伊予守、息子義家が出羽守、清原武則鎮守府将軍となり、安倍氏は奥六郡に勢力を広げる。

*1067.12.5/ 藤原頼通が関白を辞任、政事の参与となる。

*1072.1.29/ 藤原頼通が出家する。

*1074.2.2/ 藤原頼通(83)没。

*1075.10.15/ 藤原頼通の子師実が、内覧をへて関白となる。

*1080.6.14/京都 祇園会(祇園祭)で、蔵人町で童部・雑色などが風流を競う。  

 

【11th Century Chronicle 1041-60年】

【11th Century Chronicle 1041-60年】

 

◎荘園整理令

*1045.10.21/ 前任の国司在任中以降の荘園を停止する。(寛徳の荘園整理令)

*1055.3.13/ 寛徳の整理令以降の荘園を停止させる。(天喜の荘園整理令)

(*延久1(1069)年.閏10.11/後三条天皇、荘園記録所を設置)

 

 奈良時代には、律令に基づいた公地公民制であったが、国家収入を増やすため大規模な開墾計画が策定された。開墾を奨励するために「三世一身法(723)」や「墾田永年私財法(743)」が発布され、土地の私有が認められるようになった。やがて、中央貴族・大寺社・地方の豪族などが活発に開墾を行い、大規模な私有土地が出現した。

 平安時代になると、田租の免除と国司の立入りを拒否する「不輸不入権」を求めて、皇室・摂関家・大寺社など権力者へ寄進する「寄進地系荘園」が主流を占めるようになった。

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 開発領主は中央の有力者へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家となり、さらに領家からより有力な貴族へ寄進されると、最上位の荘園領主は本家と呼ばれた。このように寄進により重層的な所有関係が成立し、開発領主たちは、国司の寄人として在庁官人となり、また下司・公文などといった荘官に任じられ、所領に関する権利を確保した。

 網野善彦たちの研究によると、寄進により荘園は極めて増大したが、田地の半分は公領として残存したとされ、11世紀以降の土地・民衆支配は、荘園と公領の2本柱によって運営されたという「荘園公領制」というべき体制であったいう。

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 このような荘園の増大は有力貴族などに莫大な収入をもたらし、彼らの権力基盤となるとともに、国家にとっては、国司による地方の支配や財政収入に深刻な打撃をもたらした。そのため、荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を停止させることで、公領を回復させるために、幾度も「荘園整理令」が出されることになる。

  最初の整理令は醍醐天皇の延喜2(902)年の「延喜の荘園整理令」であり、さらに花山天皇の永観2(985)年(985年)には、この延喜の荘園整理令を踏襲した「永観の荘園整理令」が出された。

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  しかし、実際の政務を司るのが最大の荘園領主でも摂関家であり、国司も一種の猟官運動として、有力貴族による荘園実施を認めることが横行した。そこで、「長久(1040)・寛徳(1045)の荘園整理令」では、前任ないし現任の国司の任期中の荘園を禁止した。それでも違法の寄進地系荘園や国免荘の増加は止められなかった。

  そこで、摂関家と縁の薄い後三条天皇が就任すると、それまで地方の国司達に任せていた荘園関係の管理業務を全て中央で行うようにし、延久元(1069)年には、その審査機関として「記録荘園券契所(荘園記録所)」が設置された。

 

 この後三条天皇が発布した「延久の荘園整理令(1069)」は、摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げ、後の荘園整理令に大きな影響を与えた。

 摂関家の権力の源泉は、国司・受領などの地方官任命権と、大荘園主としての在地荘官任命権に基づき、それらの現地役人からもたらされる膨大な財源に基づいていた。そのような権限を母系の外戚関係で保持していた摂関家は、やがて天皇の父系による院政によって、その基盤を奪われてゆくことになる。

 

前九年の役

*1051.この年/陸奥 安倍頼時の反乱を鎮圧するため、新たに源頼義陸奥守に任命する。(前九年の役の始まり)

*1054.この年/陸奥 安倍頼時の子貞任が、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の兵営を襲撃する。

*1056.12.29/ 陸奥源頼義征夷大将軍に任命し、あらためて安倍頼時追討を命じる。

*1057.7.26/陸奥 源頼義が、安倍頼時を討つ。

*1057.11.-/陸奥 源頼義が、頼時の子安倍貞任に大敗を喫する。(康平5(1062)年、やっと源頼義安倍貞任を討つ/前九年の役終結

 

 すでに100年以上前に関東では「平将門の乱」、瀬戸内では「藤原純友の乱」が同時的に引き起こされ、これらは合わせて「承平天慶の乱(935-41)」と呼ばれる。地方に土着して力を蓄えた武士団の反乱は、朝廷の貴族たちを驚かせたが、その後に、藤原道長・頼通の摂関政治の最盛期を迎える。

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 しかしその間にも、荘園などの私有地増大と連動して、地方では武士が着々と力をつけていた。そして再び中央を驚かせた反乱が、「前九年の役(1051-62))」と「後三年の役(1083-87)」であった。

 これらは、武士団の反乱を、朝廷の意を受けた別の武士団が平定するという形で、いずれにせよ武士の名声を高めることになった。なかでも源氏(河内源氏)は、これらの反乱を鎮圧することで、武士団の棟梁的立場を確立する。

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 「前九年の役」は、陸奥国の有力土豪だった安倍氏が、貢租を怠るなど半独立状態になっていたのを、永承6(1051)年、陸奥藤原登任が兵を出して安倍氏の懲罰を試みたことに始まる。

  玉造郡鬼切部で戦闘が勃発するが、この戦いでは安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭され、河内源氏の「源頼義」が後任の陸奥守となった(鬼切部の戦い)。その翌年、大赦があり安倍氏も罪を赦され、安倍頼良陸奥に赴いた陸奥源頼義を饗応し、自ら名を「安倍頼時」と改めた。

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 しかし、陸奥源頼義の任期が終わる天喜4(1056)年、頼義の配下が安倍頼時の手勢に襲われたという疑義が生じ、鎮守府将軍源頼義・義家と安部頼時・貞任父子との間に争いが再発した。天喜5(1057)年、一進一退の戦況のなか、源頼義が仕掛けた挟撃策に対処するため、安部頼時は急遽で向いた津軽で、身内の寝返りで深手を負った末に死去する。

 源頼義は安部頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来ず、同年11月、頼時のあとを継いだ「安部貞任」を討つべく、再び出撃する。しかし源頼義ひきいる国府軍は安倍軍より少ない手勢で、しかも不慣れな厳寒の中で行軍は難航し、地の利を得た安部貞任の軍が圧勝した(黄海の戦い)。

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 その後、安倍氏はさらに勢力を伸ばし続け、他方、国府側は二度の敗戦での痛手回復に手間取った。康平5(1062)年、苦戦を強いられていた頼義は、中立を保っていた出羽国秋田県)の豪族清原氏に援軍を要請した。

 清原氏の族長清原光頼はこれを承諾し、弟武則を総大将として軍勢を派遣した。かくして源頼義清原氏連合が成立し、清原氏の参戦によって形勢は一気に逆転する。同年9月、安倍氏の拠点であった厨川柵や嫗戸柵が陥落し、安倍貞任は戦死し安倍氏は滅亡した(厨川の戦い)。

 

 騒乱を鎮定した源頼義正四位下伊予守に任じられ、清原武則は戦功により従五位下鎮守府将軍に補任されて、清原氏が奥羽の覇者となった。しかし皮肉にも20年後には、この清原氏の内紛に源頼義の子義家が介入することで「後三年の役」が勃発することになる。

 

(この時期の出来事)

*1042.3.10/近江 延暦寺の僧徒が円城寺円城院を焼く。

*1043.5.8/京都 全国的な大干ばつのため、僧正仁海が請雨経修法を神泉苑で行う。その5日後に降雨がある。

*1048.3.-/ 仏師定朝が、興福寺造仏の功績により法眼となる。

*1048.8.11/近江 明尊が延暦寺天台座主となるも、13日後には山徒の反対で辞任、源心が就任。

*1049.12.28/大和 興福寺の僧徒が、大和守源頼親の館を襲う。

*1050.1.25/大和 興福寺と闘い続けた大和守源頼親・頼房父子が、ついに土佐および隠岐に配流される。

*1051.2.13/ 藤原頼通の娘女御寛子が皇后となる。

*1052.3.22/山城 関白藤原頼通が、宇治の別荘を仏寺とし平等院と号し、翌年3月には平等院阿弥陀堂鳳凰堂)の落慶供養が行われる。

*1052.この年 この年から末法初年に入るとされ、末法思想が流行する。

*1055.この頃/ 「堤中納言物語」「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」が成立する。

*1059.この頃/ 藤原孝標女が「更級日記」を書き上げる。